「伝えたいこと」カテゴリーアーカイブ

リーズ国際コンクールを通して考えること ⑦

脳だ。人間には、”想像する”という素晴らしい才能がある。頭の中で想像し、体で感じることができるのだ。2か月も待った郵便の返事が来た時の嬉しさ。郵便馬車が近づいてきたときのたまらない緊張。時には、経験したことのないものもあるだろう。今ではありえないものもある。だからこそ、本を読んだり、映画を見たり、美術を堪能したり・・さまざまな機会をとおして、自分のイマジネーションを豊富に、そして新鮮にしていく必要がある。
私が中学の頃、とある日本人の先生のレッスンを受ける機会があった。
「あなたね、泣くっていうのはね、涙をながしてしくしくばかりじゃないの。大声で叫ぶように泣くことだってあるの。こぶしを握って大声でね。本を読みなさい」と言われた。
最近よく、”ここは張り裂けるような痛みのように弾きたいんです♪”(*^_^*) と、キラキラした目でいわれることがある。
んー (¨ )
そのきらきらした目に、死を前にした痛みって、どんなものか体で想像できているのだろうか、と疑問に思うことがある。だから、”どうやってその痛みを音に出そうとしているの?”と尋ねてみると、説得力のある返事が来ないことが多い。
 
若いから?
それは違う。いかに想像力を持つかの問題だ。
「本をたくさん読みなさいというのはね、作曲家について、いろいろ調べなさいということだけじゃないんだよ。想像力を養うためなんだ。全然関係ない小説なんかを読むのもいい。そこから想像力を豊かにするんだよ」
そんなことを先日桐朋のグループレッスンでDが高校生のグループに伝えていた。
はぁ~なるほど・・・。この歳にして私も感心してしまった。そして、Dが普段からあさるように映画を見るわけも理解できた。
この、想像力を養うこと、に関しては、教える側としては、単にどんな風に弾きたいの?と尋ねるだけではなく、それがどういう感情なのか自分の心で想像させ、音にする前に心で音楽を生かすことの大切さを伝え続ける必要があるように思う。
こうしたい、ああしたいという心からの欲望をいつも燃やし続けさせる。
そうして初めて、その感情を楽譜のどこから感じるのか、楽譜に目を向け、分析し、どのようにして実際聴衆に音で伝えられるかの模索に入っていける。
続く
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑥

次に「欲望」。私が話しているのは、もちろん”こういう音楽を表現したい”という欲望、感性についての話だ。有名になりたい、将来音楽で職を見つけたい・・そんなレベルの話ではない。
人間は感性というものを持って生まれる。その持って生まれた感性や感情は、それからの人生で様々に変化していく。それを押し殺したり、こらえたり、そんな必要性だって当然社会で生きていく上で生まれてくる。日常ではそれを押し殺したりしていくこともあるからこそ、少なくとも芸術を学ぶその瞬間、芸術の国に入った瞬間からは、それに火をともし続けなければいけない。
嬉しい・・でも、どんな嬉しさなのか。たとえば日常で、嬉しくて嬉しくてたまらなくて、道端ではじけて、わー♪♪って叫びながら走り出したら、子供でないかぎり、ものすごい怪しげな眼で見られるだろう。でも芸術の国では、嬉しくてはじけてあふれ出そうで、子供のように”音”を介してはじけ出したって良いのだ。ひとしれず、子供の頃に戻ったっていい。
涙する・・・めそめそ泣くだけではなく、声にもならない嗚咽もあれば、号泣もある。
普段決してひとまえで涙を見せないひとが、音楽で心の涙を流すことだってあっていい。
自分の感情を、感性を、もちろん作曲家が求める範囲ではあるものの、奔放にぶつけて良い。そんな自由で魅力的な国は芸術以外にないかもしれない。
少し脱線するが、”作曲家が求める範囲で”と書いた理由について書いておく。
芸術の国では創造主はあくまで作曲家であり、演奏者自身の人生を描くのではない。自分の人生や感覚と照らし合わせてみたりするのは、作曲家が刻み込んだ感情なり表現なりを、演奏側は、自分の経験や体験から想像可能な範囲で、できるかぎり強く体感してみる、という意味だ。いちいち自分の人生を重ねていたら、ひとりよがりの安っぽさにつながる危険があると私は思う。
私は日ごろから生徒に、「演奏者は 良き俳優でなければいけない」と言っている。
話を戻すと、
感情とは、もちろん、そんなロマンチックな感情ばかりではない。何かものすごい美を目の前にし、心が洗われていくような崇高な感動もあれば、何とも言えない内なる平穏もあるだろう。
様々な感情、表情を音として表現できるためには、自分というフィルターを通して、そういった感情を日頃から常に鮮明に感じ、感性を目覚めさせ続ける不断の努力をしなければいけない、ということを教える必要があるのではないだろうか。
感性は磨かないと鈍くなっていく
知らず知らずに、最終目的が脱線し、目指す芸術を体で感じないまま、指を動かして音楽をしているつもりになる、ということが起きないように。
頭だけではなく、心で感じる
そこには人間の持つ、もう一つの先天的な能力が必要となる。
続く
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑤

・・・そして、それからの道のりは長かった。
ささっと学べることではなく、要するにゼロからの積み重ねが求められたからだ。
読むも、聴くも、片っ端からいろんな曲を見て譜読みして見るのも、今までおたまじゃくししか目に入っていなかった楽譜の中を目を皿のようにして見るのも・・・何から何まで必要なわけで、ものすごい時間とエネルギーを要した・・いや、今も要している。
音楽を学ぶ、ということの意味を初めて考えた時だった。
だから、私のような幼稚な生徒を育てないためにも、教えるという立場に立った今は、生徒に、ピアノを弾くことだけではなく、作曲家についてや曲についてなど自分で調べたり、自分で弾いている曲だけではなく、いろいろなもの、とくにほかの編成のもの(歌、室内楽、オーケストラ作品)などを聴くように、繰り返し繰り返し伝え続けることが必要だと思っている。指を動かす練習は、芸術のためにやっているのであって、芸術でいったい何を作り上げるのかを前もって知らずに、指を動かして、なんとなく歌って、リンゴもバナナもすべて同じにして”弾けた”と思っているのは大変な、そして深刻な間違いだからだ。
続く

リーズ国際コンクールを通して考えること ④

私は、以前日本の音大で勉強していたころ、DEVOYONのレッスンをはじめて(だったと思う)受ける機会があった。自分なりに一生懸命最後まで弾いたBeethovenだった。
ド緊張の中、30分もがんばって演奏した後にそのフランス人先生から出たひとこと目は
冷たく
「これがモーツァルトなら最高の演奏だね」
だった。
(* ̄□ ̄*;
まさに、”撃沈”させられた記憶がある。
ひとことで言えば、私の演奏を「ベートーヴェンではない」と言ったわけで、
私の演奏の根本を全否定されことは一発でわかった。
その時、実は学内の試験の結果、ご褒美でBeethovenを演奏させてもらえるという時期だった。まさに前回書いた、”ある程度評価された”と勝手に思い込んでいた時期だ。でも明らかに
間違っていた
のだ。さらに深刻だった問題は、そういわれたことで私の演奏はベートーヴェンではなく、スタイルが間違っていたという現実はわかっても、何がベートーヴェンで何がモーツァルトか、といわれると、実はわかっているようでわからない自分を見てしまったことだった。・・・ベートーヴェンは厳格で、モーツァルトはもっと軽い?・・実はそんな幼稚なことしか考えていなかったのだ。 
指ばっかり動かして、いっぱい練習した気分になって、ピアノの前でいろいろ表情を付けてみて音楽だと思い込み、コンクールで落ちても、あそこをもっとうまく弾けるようにしなければ・・などと思って練習していただけで、実は私は 
“何も知らないのだ” 
という現実を突き付けられ、思い知らされた瞬間で、私にとって、まさにはじめて突き落とされた経験だ。
20歳の時のことだ。
その日、文字通りどん底まで落ち込んで、レッスンスタジオから、それはそれは、ものすごい重い足取りでゆっくりと帰路についたことを鮮明に覚えている。
続く

リーズ国際コンクールを通して考えること ③

前回書いたように
芸術の国では、演奏家は創造主とは違う。創造主は作曲家だ。演奏家は、演奏をする。つまり芸術の国では、創造主の芸術を「表にあらわす」仲介者的立場となるわけだ。
表現する・・・つまり何かを「表にあらわす」とき、そこには責任が伴う。だからこそ、自分で納得のいくもの、そして説得力のあるものでない限り、大きな声では表せない。
芸術の国を演奏者として生きるには、自分で納得いくもの、説得力のあるものを身に付ける必要がある。

では、そのためには何が必要になるのか。
・・・そこには3つのトライアングルがかかわって来ると思う。
「知識」「欲望」「判断力」
そのどれが欠けていても、説得力には結びつかないであろう。
私がこれから書くことは私が知っている限りの経験の話なので、当然狭い世界ではあるが許してもらいたい。
・・・・・・・
素晴らしく演奏していて、お客さんも喜ぶ・・。でも、それをプロという目で見ると評価が付いてこないことがある。それは、「知識」の問題だ。
音楽的な演奏で、お客さんも喜ぶ。そして周りから”上手だ”、というある程度の評価をもらう。
ところが、その解釈が実は大きく脱線している・・ということが日本人の演奏でも、少なからずある。解釈が脱線しているというのは
どういうことかというと、それはベートーヴェンじゃないですよ、それはプロコフィエフではないですよ・・、という演奏だ。
でも良い評価を受けて来ていた本人は、全然何がまずいのかわからない。”好みの問題だ”などと、済ませてしまうことすらある。
つまり知識が足りないのだ。『ある程度生命感があり、なんとなく音楽的であれば、それで良いとしてしまう』。
身体を動かし、うなり、天井を見上げ・・・これで芸術だと。
知らないとは恐ろしいことだ。
違う例で書いてみよう。
 ”りんご” が何かを知らずに、リンゴだと思ってずっとバナナの絵を書きづつけ、りんごを見たことのない民族から、わーすごく上手に書いてるわねー。とちやほやされ続けてきたとする。そして鼻高々に、自称”りんご”を別の民族の前で書いたところ、あら~これバナナなのにねえ。と失笑をかってしまう。そこに”個性”も”自由”もない。間違いは間違いだ。
音楽でも、プロコフィエフだと思い込んで、ショパンみたいに弾いていたり・・というのはプロの仲介者である限り、同じぐらい恥ずかしいことになる。
続く

リーズ国際コンクールを通して考えること ②

周りが海に囲まれ、島国である独特な地理関係にある日本は、今も村意識が強く根付いている。騒ぎを起こさない。波風立てない。必要があれば、人の意見に合わせるといったことすらある。
それはそれで1つのあり方だと思う。良い悪いの話ではない。生き残りに必死な状況で育った場合、譲り合いよりも割り込んででも生き残る、といった人や国だってもちろんある。それはそれで、やはりひとつの生き方だろう。
芸術を学ぶとき、それは日本人、西洋人、育ち・・・うんぬんではない。芸術は芸術であり、「芸術という世界」だからだ。
日本なら日本での生き方があるのと同じように、芸術を学ぶとき、芸術に触れている時は、日本でもなく、外国でもなく、”芸術という国を生きる“ことを学んでいかなければいけない。
「芸術の国」では、演奏家は創造主とは違う。創造主は作曲家だ。演奏家は、演奏をする。つまり芸術の国では、創造主の芸術を表にあらわす仲介者的立場となるわけだ。
続く

リーズ国際コンクールを通して考えること①

リーズ国際コンクールからずいぶんな日程があいた。その間、ショパン誌にレポートを書くために、様々なことを考え、私にとってありがたい貴重な機会になった。
コンクールではまさに”全”演奏を聴かせていただき、国を問わず、総合的に演奏能力が高くなっている驚きと同時に、日本人にみられる傾向と問題点も顕著にあらわれたと感じる。そしてその問題の根は深いとも感じた。
それは 表現力、説得力、そして存在感。
“日本人”とひとことで言っても、当然十人十色で、それぞれが異なった演奏をする。にもかかわらず、「印象の弱さ」と「説得力や存在感の薄さ」がここまで共通して顕著になると、”日本人は人前で意見を言うことに慣れていないから・・”では済まされないと感じた。
日本人の誰もが、品の良い、質の高い演奏で、その熱心な姿勢には好感が持てる。でも、芸術としてそれを堪能しようとしたとき、何かに欠ける。
『発熱していない』
と言えばよいのか。
社会の風潮や、育つ環境というのは当然その人のあり方に少なからず影響する。日本という国は、”相手の意志を探りながら、協調を求める”という傾向は、今の時代もあると感じる。それが謙虚さから来ているかというと、正直なところ?だが(苦笑)、その辺に踏み込むとややこしくなるので、それはスルーということで。(*^_^*)
空気が読めない
などという表現が生まれるところが、いかにも日本らしい。
続く

本物とは・・

普段はフランスの銀行員。趣味はピアノ。お年は55歳ぐらいだろうか。そんな男性がもうかれこれ何年もプライベートレッスンを受けにベルリンに通ってきている。
ピアノを弾くことが好きでたまらない彼は、あまりに楽しすぎて時々はのめり込み過ぎてしまい、まわりがきこえないのか、レッスン中に私が何か話しかけてもしばらく弾き続けたりもする。
そんな時はもちろん、私がもれなくプチット切れる。笑
えへへ、えへへ、と頭をぽりぽりかき、ここ弾けなくってーと必死に鉛筆でいろんなことを楽譜に書き込み、勉強する、そんな人だ。
そんな彼が持ってくる曲はショパンのバラードだったり、ラヴェルの水の戯れだったり、ときにはモーツァルトのソナタ amollなど本格的な選曲だ。そして毎回必ず暗譜で持ってくる。
パリから年に数回日帰りでレッスンに来るが、レッスン前にも必ずベルリンでスタジオを借りて練習しているらしい。
数年前ふとした雑談の折に、まだ家にピアノがないと言っていた。(つい先日ようやく買ったらしい) なので練習場所は貸しスタジオ。 会社のお昼休みに数駅先のスタジオに毎日行くと聞いて、たまげた。お昼ご飯は?と聞いたら、食べるより音楽の方が面白いと。
ははぁ……これが音楽を愛するということか、と頭が下がる。
そんなある日、バッハに挑戦したいと持ってきた。
いやあ、バッハは本当に難しくて。えへへへ。
全然うまくいかなくて。えへへへ。といつもに増して
頼りなーい感じで、また謙虚な彼。
困った困ったと苦笑いしながら弾いてくれた。確かにまだ少し必死で、指も上手く回らず、いろいろと勉強が必要だ。丁寧にバッハのつくり方や片手でポリフォニーを弾ける方法などを示しながらレッスンしようと思い、ここ、まずは左手だけ弾いていただけますか?
と聞いてみた。左手だけなんて楽譜があっても弾けない若者が多い中で、アマチュアの方にそんなことを求めるのかと言われそうだが、熱心な生徒には真剣にこちらも限界を挑戦してみる。
すると、
暗譜で(!)するするっと左手を弾き続ける。音楽的にはまだちょっとガタガタではあるし、もちろん基本的なテクニックは本格的に勉強している人よりも大変そうで、指がもつれながら演奏している。でも、なによりも暗譜で左手だけを問題なく弾けること、頭に入っていることに感心し、思わず
ベルリン芸大の生徒ですら、左手だけの練習が不十分な人が多いのに、暗譜でお弾きになるとは、感心しました
と伝えたところこんな答えが返ってきた。
あ、それはハーモニーがどうなってるかわからないと覚えられないので、 左だけも一生懸命勉強するんですよ。
と言われ、ほほー、とまたまた驚いた。
そして、とどめ。
もうバッハは難しくて、僕の頭になかなか入らないんですよ。頭にある程度入ってなくてピアノに向かってもうまくいかないので、出勤中の電車の中で、毎日必死で楽譜をこう開いてね、指を動かしてこういろいろ試しながらにらめっこして頭に入れていってるんだけど、なかなか難しい。えへへ。
もう
脱帽・・・ですな。
ピアノから離れて勉強する時間がいかに大切か、頭である程度把握しておくことの必要性、それには時間がかかるから忍耐力をもって毎日少しずつ丁寧に勉強。
これらは口を酸っぱくして、普段から生徒に伝えてきているが、
彼はそれを普段ピアノ触れる時間がないからこそ自分で思いつき、情熱があるからこそ妥協せず、必死で自分への挑戦を喜びをもってしている。
銀行員だから頭が良くて暗譜出来たのではなく、そこにはまさに不断の努力があったわけだ。
いったい何がプロなのか、何が本物なのか。考えさせられる瞬間だった。
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現代病?

レッスンを通して様々な企画を試し若い音楽家と接する中で、今深刻に感じる問題がある。それは私が名づけるところの、
「ネット病」。
わからないことがあれば検索に文字を入れ、答えらしきものを目にする。そして、”あ、わかった”・・と理解したつもりになってしまう。”この曲知らないなあ”、ネットで聴いてみよう、
あ、こんな感じの曲なのか…。音楽も同じだ。
これでは、学んだのではなく、脳はぽかんと口を開けて物を受け入れているだけであり、それで”学んだ”と思い込んでしまっているのはとても危険だ。レッスンもそうだが、
受けることに意義があるのではなく、そこで受けた情報を丁寧に1つ1つ吟味することに意味があり、そこから初めて勉強が始まるのに。
若者の消極性が強く気になり、個人レッスンやVillage,その他さまざまな機会を通して、自発性を高めようとしてきたが、今やるべきことはそこではなかったと気が付いた。
情報を得て満足することを続けていくうちに、知らず知らずのうちに、自分で”考えるとは、どういうことなのか”、”考えるにはどうすれば良いのか”がわからなくなっていて、
もっと簡単に言えば、頭を使うためのエネルギーすら失っている。
将来が不安です、自信がない・・・そんな言葉をたくさん聞く。そんなこと言ったら、私だって将来どころか毎日が不安だらけだ。
でも、そう言ったところで信じてくれない。
不安だ不安だと繰り返して、コンクールを受け続けたって何も変わらない。変わらないどころか、自信を失っていくだろう。
自信はコンクールの賞がくれるものではない。
本番の数がくれる物でもない。

不安なら考える。考えて、考え抜いて、今自分にできることをする。どんなに些細なことでも、自分に何ができるか考え、動くことが第一歩だ。
自分にできることは思ったよりもあるはず。自分にできることを一つずつ積み重ねていくことで自信につながる。考える力を養い、今自分にできることを見つけ、
一歩ずつ小さな積み木を重ねる。不安はいつでも付きまとうものだけれど、少しでもそれに打ち勝つ自信を付けてくれるのは、その”積み重ね”だけだ…と私は思う。
今一番急がれることは、彼らのいつのまにか止まってしまった脳を再び働かせるエンジンをかけることだと感じた。脳というのは使わなければ退化していく。
賢いか賢くないかではない。刺激し続けなければ、考える方法がわからなくなってしまう。
次回のDevoyons’ Villageでは、これまでとは趣向を変え、そういったものに役立つ企画を考えたいと思っている。その必要性を感じてくれる若者がいれば嬉しいところだが・・・。
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なぜ必要なの?(おまけ) 音楽以外の勉強・・数学、国語、地理・・など。

私は大学で音大に行くまでは普通の学校に通ってきた。思春期の私は、ときどき
――なんでこんな授業を受ける必要があるのかなあー。
とぶーたれながら授業を受けていた時期もあった。音楽やるのに、なぜ物理?なぜ哲学??
数学が好きだった私は、証明の授業とか、確率とか、熱心に勉強してきたし、物理や化学も大好きだった。歴史関係は全然覚えられず、大の苦手だったけど・・・。
でも、今となっては円周率すら忘れ、面積の出し方も完璧に忘れた。忘れるのも、ものすごく早いのだ、私は。( ̄^ ̄) エッヘン
どうせ忘れるなら、その勉強は無駄だったのだろうか。面積の出し方を覚えたところで、人生に役立たないのだろうか。
それは違う・・・・その一生懸命やってきた時間は、思考力や、客観的な物の見方、応用力など、人間として生きていく上で必要なものを養ってくれていたのだ。おさない私はそんなことに、学校を出て、だいぶ後になって気が付いた。
もっとちゃんとやっておくんだった・・・(‘〇’ 😉
人生に無駄なものなど一つもない。自分がするすべてに全力を注いでほしい。
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