リーズ国際コンクールを通して考えること ⑧ 最終

そんな知識や自分の体をとおして感じた感情、欲望。それをなんとか音にしようとするときに一つ必要になるのが「判断力」。これは、本当に大きく欠けていると感じる。
それにはいくつかの理由がある。1つは前述の知識不足。何が良いのかがあいまいなために、今の演奏が良いのか悪いのかの判断基準がなく、わからない。
でもそれよりも危機感を感じるのは、判断しようとする意志の衰えだ。判断できるには、まず出したい音のイメージ、欲望があり、それを音にしてみて、耳で聴き、思った音が出たか判断するというプロセスを通る。
イメージし、身体で感じ、音にだし、聴いてみて、考えるのだから、かなりのエネルギーを要する。
レッスンで演奏してくれたあと、今のは自分でどう思う?と尋ねると、
んー (゜.゜)
と首をかしげるのは私が良く見るケースだ。でも、さらに怖いのは、んーといってるだけで、実は全然考えようとしていないケースが本当に多く目立つことだ。
目がビー玉みたいになっている。
先生が答えをくれるのを待っている、というシチュエーションに慣れているのか、脳を動かすことを忘れてしまっている。自分で調べ、自分で考える、自分で動くことへの喜びがない。コンピュータの前に座り、あふれ注がれる情報を浴びて、知ったつもりになって満足する。
これは怖いことだ。
判断するには、頭もいるが、耳もいる。そのどちらも自分で知らず知らずのうちに消極的に育ててしまっていると、何が良くて何がわからないかわからず、とりあえずいろいろニュアンスを付けて 偽”音楽的”なものを作り、それで本番に上がろうとする。当然、結果は見えているが、本人はなぜだめなのか、わからない。
脳は年齢で退化するのではなく、訓練次第だという。つまり自分次第だ。
私は生徒にいつも、
自分の一番の先生は、自分の耳。だから卒業までに、なんとか自分で判断できる耳を育てないといけないんだよ
と口を酸っぱくして言っている。でも、在学中はおおむね危機感がない。口では不安だといいながら、動かない。
自分でできることは思っているよりも山ほどあるのに。
普段からいろいろな言葉でボールを投げ、積極性を目覚めさせられないものかと試みているつもりだが、本当に難しい。危機感がないというのは、ある意味幼い部分があるのだろうから、人間的な成長と共にバランスよく育たないといけないのかもしれない。
指導するというのは、本当に難しい。
知識、欲望、判断力のトライアングル。これには生徒の自発性も、指導者側の忍耐強い繰り返しも必要になる。そして、ブログで書くだけでもわかるように、ものすごく時間を要する。ひとつひとつのプロセスが本当に大切なのだ。
そういった意味で、リーズでの記事(ショパン11月号)にコンクールをはしごする危険をひとこと書かせていただいた。バランスの良い成長を大切にしたい。
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑦

脳だ。人間には、”想像する”という素晴らしい才能がある。頭の中で想像し、体で感じることができるのだ。2か月も待った郵便の返事が来た時の嬉しさ。郵便馬車が近づいてきたときのたまらない緊張。時には、経験したことのないものもあるだろう。今ではありえないものもある。だからこそ、本を読んだり、映画を見たり、美術を堪能したり・・さまざまな機会をとおして、自分のイマジネーションを豊富に、そして新鮮にしていく必要がある。
私が中学の頃、とある日本人の先生のレッスンを受ける機会があった。
「あなたね、泣くっていうのはね、涙をながしてしくしくばかりじゃないの。大声で叫ぶように泣くことだってあるの。こぶしを握って大声でね。本を読みなさい」と言われた。
最近よく、”ここは張り裂けるような痛みのように弾きたいんです♪”(*^_^*) と、キラキラした目でいわれることがある。
んー (¨ )
そのきらきらした目に、死を前にした痛みって、どんなものか体で想像できているのだろうか、と疑問に思うことがある。だから、”どうやってその痛みを音に出そうとしているの?”と尋ねてみると、説得力のある返事が来ないことが多い。
 
若いから?
それは違う。いかに想像力を持つかの問題だ。
「本をたくさん読みなさいというのはね、作曲家について、いろいろ調べなさいということだけじゃないんだよ。想像力を養うためなんだ。全然関係ない小説なんかを読むのもいい。そこから想像力を豊かにするんだよ」
そんなことを先日桐朋のグループレッスンでDが高校生のグループに伝えていた。
はぁ~なるほど・・・。この歳にして私も感心してしまった。そして、Dが普段からあさるように映画を見るわけも理解できた。
この、想像力を養うこと、に関しては、教える側としては、単にどんな風に弾きたいの?と尋ねるだけではなく、それがどういう感情なのか自分の心で想像させ、音にする前に心で音楽を生かすことの大切さを伝え続ける必要があるように思う。
こうしたい、ああしたいという心からの欲望をいつも燃やし続けさせる。
そうして初めて、その感情を楽譜のどこから感じるのか、楽譜に目を向け、分析し、どのようにして実際聴衆に音で伝えられるかの模索に入っていける。
続く
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑥

次に「欲望」。私が話しているのは、もちろん”こういう音楽を表現したい”という欲望、感性についての話だ。有名になりたい、将来音楽で職を見つけたい・・そんなレベルの話ではない。
人間は感性というものを持って生まれる。その持って生まれた感性や感情は、それからの人生で様々に変化していく。それを押し殺したり、こらえたり、そんな必要性だって当然社会で生きていく上で生まれてくる。日常ではそれを押し殺したりしていくこともあるからこそ、少なくとも芸術を学ぶその瞬間、芸術の国に入った瞬間からは、それに火をともし続けなければいけない。
嬉しい・・でも、どんな嬉しさなのか。たとえば日常で、嬉しくて嬉しくてたまらなくて、道端ではじけて、わー♪♪って叫びながら走り出したら、子供でないかぎり、ものすごい怪しげな眼で見られるだろう。でも芸術の国では、嬉しくてはじけてあふれ出そうで、子供のように”音”を介してはじけ出したって良いのだ。ひとしれず、子供の頃に戻ったっていい。
涙する・・・めそめそ泣くだけではなく、声にもならない嗚咽もあれば、号泣もある。
普段決してひとまえで涙を見せないひとが、音楽で心の涙を流すことだってあっていい。
自分の感情を、感性を、もちろん作曲家が求める範囲ではあるものの、奔放にぶつけて良い。そんな自由で魅力的な国は芸術以外にないかもしれない。
少し脱線するが、”作曲家が求める範囲で”と書いた理由について書いておく。
芸術の国では創造主はあくまで作曲家であり、演奏者自身の人生を描くのではない。自分の人生や感覚と照らし合わせてみたりするのは、作曲家が刻み込んだ感情なり表現なりを、演奏側は、自分の経験や体験から想像可能な範囲で、できるかぎり強く体感してみる、という意味だ。いちいち自分の人生を重ねていたら、ひとりよがりの安っぽさにつながる危険があると私は思う。
私は日ごろから生徒に、「演奏者は 良き俳優でなければいけない」と言っている。
話を戻すと、
感情とは、もちろん、そんなロマンチックな感情ばかりではない。何かものすごい美を目の前にし、心が洗われていくような崇高な感動もあれば、何とも言えない内なる平穏もあるだろう。
様々な感情、表情を音として表現できるためには、自分というフィルターを通して、そういった感情を日頃から常に鮮明に感じ、感性を目覚めさせ続ける不断の努力をしなければいけない、ということを教える必要があるのではないだろうか。
感性は磨かないと鈍くなっていく
知らず知らずに、最終目的が脱線し、目指す芸術を体で感じないまま、指を動かして音楽をしているつもりになる、ということが起きないように。
頭だけではなく、心で感じる
そこには人間の持つ、もう一つの先天的な能力が必要となる。
続く
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑤

・・・そして、それからの道のりは長かった。
ささっと学べることではなく、要するにゼロからの積み重ねが求められたからだ。
読むも、聴くも、片っ端からいろんな曲を見て譜読みして見るのも、今までおたまじゃくししか目に入っていなかった楽譜の中を目を皿のようにして見るのも・・・何から何まで必要なわけで、ものすごい時間とエネルギーを要した・・いや、今も要している。
音楽を学ぶ、ということの意味を初めて考えた時だった。
だから、私のような幼稚な生徒を育てないためにも、教えるという立場に立った今は、生徒に、ピアノを弾くことだけではなく、作曲家についてや曲についてなど自分で調べたり、自分で弾いている曲だけではなく、いろいろなもの、とくにほかの編成のもの(歌、室内楽、オーケストラ作品)などを聴くように、繰り返し繰り返し伝え続けることが必要だと思っている。指を動かす練習は、芸術のためにやっているのであって、芸術でいったい何を作り上げるのかを前もって知らずに、指を動かして、なんとなく歌って、リンゴもバナナもすべて同じにして”弾けた”と思っているのは大変な、そして深刻な間違いだからだ。
続く

リーズ国際コンクールを通して考えること ④

私は、以前日本の音大で勉強していたころ、DEVOYONのレッスンをはじめて(だったと思う)受ける機会があった。自分なりに一生懸命最後まで弾いたBeethovenだった。
ド緊張の中、30分もがんばって演奏した後にそのフランス人先生から出たひとこと目は
冷たく
「これがモーツァルトなら最高の演奏だね」
だった。
(* ̄□ ̄*;
まさに、”撃沈”させられた記憶がある。
ひとことで言えば、私の演奏を「ベートーヴェンではない」と言ったわけで、
私の演奏の根本を全否定されことは一発でわかった。
その時、実は学内の試験の結果、ご褒美でBeethovenを演奏させてもらえるという時期だった。まさに前回書いた、”ある程度評価された”と勝手に思い込んでいた時期だ。でも明らかに
間違っていた
のだ。さらに深刻だった問題は、そういわれたことで私の演奏はベートーヴェンではなく、スタイルが間違っていたという現実はわかっても、何がベートーヴェンで何がモーツァルトか、といわれると、実はわかっているようでわからない自分を見てしまったことだった。・・・ベートーヴェンは厳格で、モーツァルトはもっと軽い?・・実はそんな幼稚なことしか考えていなかったのだ。 
指ばっかり動かして、いっぱい練習した気分になって、ピアノの前でいろいろ表情を付けてみて音楽だと思い込み、コンクールで落ちても、あそこをもっとうまく弾けるようにしなければ・・などと思って練習していただけで、実は私は 
“何も知らないのだ” 
という現実を突き付けられ、思い知らされた瞬間で、私にとって、まさにはじめて突き落とされた経験だ。
20歳の時のことだ。
その日、文字通りどん底まで落ち込んで、レッスンスタジオから、それはそれは、ものすごい重い足取りでゆっくりと帰路についたことを鮮明に覚えている。
続く

リーズ国際コンクールを通して考えること ③

前回書いたように
芸術の国では、演奏家は創造主とは違う。創造主は作曲家だ。演奏家は、演奏をする。つまり芸術の国では、創造主の芸術を「表にあらわす」仲介者的立場となるわけだ。
表現する・・・つまり何かを「表にあらわす」とき、そこには責任が伴う。だからこそ、自分で納得のいくもの、そして説得力のあるものでない限り、大きな声では表せない。
芸術の国を演奏者として生きるには、自分で納得いくもの、説得力のあるものを身に付ける必要がある。

では、そのためには何が必要になるのか。
・・・そこには3つのトライアングルがかかわって来ると思う。
「知識」「欲望」「判断力」
そのどれが欠けていても、説得力には結びつかないであろう。
私がこれから書くことは私が知っている限りの経験の話なので、当然狭い世界ではあるが許してもらいたい。
・・・・・・・
素晴らしく演奏していて、お客さんも喜ぶ・・。でも、それをプロという目で見ると評価が付いてこないことがある。それは、「知識」の問題だ。
音楽的な演奏で、お客さんも喜ぶ。そして周りから”上手だ”、というある程度の評価をもらう。
ところが、その解釈が実は大きく脱線している・・ということが日本人の演奏でも、少なからずある。解釈が脱線しているというのは
どういうことかというと、それはベートーヴェンじゃないですよ、それはプロコフィエフではないですよ・・、という演奏だ。
でも良い評価を受けて来ていた本人は、全然何がまずいのかわからない。”好みの問題だ”などと、済ませてしまうことすらある。
つまり知識が足りないのだ。『ある程度生命感があり、なんとなく音楽的であれば、それで良いとしてしまう』。
身体を動かし、うなり、天井を見上げ・・・これで芸術だと。
知らないとは恐ろしいことだ。
違う例で書いてみよう。
 ”りんご” が何かを知らずに、リンゴだと思ってずっとバナナの絵を書きづつけ、りんごを見たことのない民族から、わーすごく上手に書いてるわねー。とちやほやされ続けてきたとする。そして鼻高々に、自称”りんご”を別の民族の前で書いたところ、あら~これバナナなのにねえ。と失笑をかってしまう。そこに”個性”も”自由”もない。間違いは間違いだ。
音楽でも、プロコフィエフだと思い込んで、ショパンみたいに弾いていたり・・というのはプロの仲介者である限り、同じぐらい恥ずかしいことになる。
続く

リーズ国際コンクールを通して考えること ②

周りが海に囲まれ、島国である独特な地理関係にある日本は、今も村意識が強く根付いている。騒ぎを起こさない。波風立てない。必要があれば、人の意見に合わせるといったことすらある。
それはそれで1つのあり方だと思う。良い悪いの話ではない。生き残りに必死な状況で育った場合、譲り合いよりも割り込んででも生き残る、といった人や国だってもちろんある。それはそれで、やはりひとつの生き方だろう。
芸術を学ぶとき、それは日本人、西洋人、育ち・・・うんぬんではない。芸術は芸術であり、「芸術という世界」だからだ。
日本なら日本での生き方があるのと同じように、芸術を学ぶとき、芸術に触れている時は、日本でもなく、外国でもなく、”芸術という国を生きる“ことを学んでいかなければいけない。
「芸術の国」では、演奏家は創造主とは違う。創造主は作曲家だ。演奏家は、演奏をする。つまり芸術の国では、創造主の芸術を表にあらわす仲介者的立場となるわけだ。
続く

リーズ国際コンクールを通して考えること①

リーズ国際コンクールからずいぶんな日程があいた。その間、ショパン誌にレポートを書くために、様々なことを考え、私にとってありがたい貴重な機会になった。
コンクールではまさに”全”演奏を聴かせていただき、国を問わず、総合的に演奏能力が高くなっている驚きと同時に、日本人にみられる傾向と問題点も顕著にあらわれたと感じる。そしてその問題の根は深いとも感じた。
それは 表現力、説得力、そして存在感。
“日本人”とひとことで言っても、当然十人十色で、それぞれが異なった演奏をする。にもかかわらず、「印象の弱さ」と「説得力や存在感の薄さ」がここまで共通して顕著になると、”日本人は人前で意見を言うことに慣れていないから・・”では済まされないと感じた。
日本人の誰もが、品の良い、質の高い演奏で、その熱心な姿勢には好感が持てる。でも、芸術としてそれを堪能しようとしたとき、何かに欠ける。
『発熱していない』
と言えばよいのか。
社会の風潮や、育つ環境というのは当然その人のあり方に少なからず影響する。日本という国は、”相手の意志を探りながら、協調を求める”という傾向は、今の時代もあると感じる。それが謙虚さから来ているかというと、正直なところ?だが(苦笑)、その辺に踏み込むとややこしくなるので、それはスルーということで。(*^_^*)
空気が読めない
などという表現が生まれるところが、いかにも日本らしい。
続く