それはどうなの??? 笑

先日、東京で大勢の人が行き交う通りを歩いていたときのこと。前から小さなかわいいダックスフンドをつれて歩いてくる女性とすれ違った。信号を横断するところで、前からも後ろからも人の波が押し寄せる。そこでそのおばさんが“わんちゃんへ”放った一言が耳に入った。
―ほら、ちゃんと前を見て歩きなさい!!
私:        ・・・・・・・( ̄  ̄) しらぁ~   
いやぁ、ここでまっすぐ前を向き直って歩く犬がいたらすごいもんだ。
そこで思い出した。10年以上前のこと。東京の浜松町駅前の信号を渡っているときだった。そこでも人の波が押し寄せていた。そして後ろから・・・
<りかちゃん、りかちゃん早く渡りなさい!>
との声。この都会のど真ん中で私を呼ぶのは誰?とふりかえると、
なーーーーんと、

豚にひもをつけて散歩
しているおばさんが!!!!((o( ̄(●●) ̄)o))
私の心の中では3発の叫びが:
―なんで、ぶたがここに!
―豚にひも???
そして、
なんで<りかちゃん>なんて名前をつけてるんだ!こらぁ!
人口が多いせいか、いろんな人がいるもんだ、ホント。
私のサイト、FromBerlinへは こちらからhttp://www.rikakomurata.com

伝えたいこと (3) 泥んこになる

なんか・・・・最近いろんな生徒たちを見ていて、強く感じることがある。
―とてもじれったい。もどかしい。
レッスンをするということは、想像していた以上にとても難しい。痛感している難しさの1つが、生徒とのバランスを見つけること。
どんな状況でも絶対に手を抜かず、全力投球しているつもりだ。もっと高いものを望んで欲しい、もっとがんばって欲しい、そんな思いを伝えたくて、必死で向かっている。でもふと私だけが必死になっているんじゃないかと感じることがある。相手はそこまで望んでいないのかな。と疑問がよぎる。教えていて、一番さびしい瞬間だ。
もっと美しい音がないのだろうか、もっとこの部分に違う可能性がないのかな。もっといろんな曲を知りたい。もっと成長したい・・・。失敗しても、恥をかいても、間違えた方向でも何でも良い。私が留学を始めた頃、なんかもっともっと突っ走っていた。私だけではなく、周りもみんなそうだった気がする。限られた数年の留学で、ひとつでも多く学びたいと、1つ1つのレッスン、1つ1つの言葉、一つ一つの機会を絶対に漏らさないように、必死だった。
まさに、
がむしゃら。
がむしゃらに突っ走る分、壁にどっかんどっかんぶちあたった。あたれば方向を変えればよい。あたったぶん痛いし苦しいけど、なにか身についているはず。そう信じて突っ走った。
スマートに生きたい。早くうまくなれるように近道を見つけたい。落ち込んでいるところを見られたくない。恥をかきたくない。格好悪いところを見られたくない。ある程度はもう自分でできるところを見せたい。こんなこと先生に聞いたら恥ずかしいかな。
生徒たちにそんな思いが渦巻いているように見える。
中学や高校の頃、体育祭で走るとき、一生懸命走る姿を恥ずかしがって、手を抜いて走る女の子がたくさんいた。どっちが格好悪いのかな。良いのかな、本当にそれで。
泥んこになってほしい。
子供のときのように、無心で突っ走ってみればよいのに。無茶をして突っ走る。それができるのは、学生である今しかないのに。

~意味のある練習を学ぶ~  <自分を知る、楽器を知る-1>

この夏、クールシュヴェール夏季国際講習会で、1ヶ月にわたり総勢55名ほどのレッスンをさせていただいた。今年のクールシュヴェール講習会は、計31カ国から参加者が集まった。私たちのクラスも、その影響もあり国際色豊か。セッションによっては、日本人が集まった期間もあったが、それ以外に、フランス、イギリス、ドイツ、中国、メキシコ、イタリア、スペイン、コロンビア、ロシア、韓国・・ざっと思い出すだけでもクラスにこれだけの国籍があった。こうたくさんの違う顔ぶれをレッスンできるのはあまりないので、非常に興味深い夏だった。
これだけの異なった人たちに接した結果、レベル如何に関係なくほぼ大半に共通して気になることがあった。
<不自然>
ということ。音楽がということではなく、演奏の仕方がである。
体をくねったり、足が落ち着かずふらふらと前後左右にそらしたり、そして腕やひじを頻繁に動かす。あるいは、鍵盤がかわいそうなほど、ぎゅうぎゅう押したり。
みていて、苦しくなるほどものすごい肉体的な努力をして弾いている。
動くことに闇雲に反対するわけではない。音楽に影響がなければ、自分の心地よい様に動いたって良いと思う。でも、そういう場合目をつぶって聴かせてもらうと、必ずといってよいほど音楽は非常に平らな場合が多い。
不自然なのは、良いはずがない。弾いているほうもあれでは居心地が悪いだろう。
では、なぜそうなってしまうのか。大きな要因は主に二つだと思う。
1) どう演奏したいのかがあいまいな為に、動くことで音楽を表現して、言葉は悪いが自己満足になっている場合。
2) ピアノという“機械”、そして自分という”機械“を理解していない場合
1) に関しては、今までのブログでも事あるごとに触れているが、“こんな感じ”というあいまいなイメージで、満足している場合である。繰り返すが、あいまいな理想のまま音を出すと、だんだん理想のほうが下がってきてしまう。それに気がつかず、ある程度の音色が出た時点で、自分が理想にたどりついたと満足してしまう危険が高い。
* <はっきりとした>音のイメージがないままピアノを決して触らないで欲しい。
そして2)の<二つの機械>について。
多くの場合、本当によく練習してあっても、意外とピアノという機械、そして自分という機械について知らないことが多い。
* ピアノは、どうすれば音が鳴るのか。そして
* 私たちはどうやってピアノを弾いているのか。
とても簡単に聞こえるこの根本の問いかけだが、実際にその事をきちんと考え、そして掘り下げることを今まで一度もしていない人は多いのではないだろうか。でもそれこそが、なによりもまず最重要な知識だと思う。今回の講習会でその欠乏に驚いたと同時にそのことに関してレッスンで話をする必要性を痛感した。日本で行っているMessageFromBerlinプライベートレッスン。ここで会う生徒さんたちには是非そのことを事あるごとに話したいと思う。そして、日本でのMessageFromBerlinシリーズの一環として、タイトルを定めて少人数で講習をするということも考え始めている。みなさん、どうでしょうか・・・