リーズ国際コンクールを通して考えること ⑥

次に「欲望」。私が話しているのは、もちろん”こういう音楽を表現したい”という欲望、感性についての話だ。有名になりたい、将来音楽で職を見つけたい・・そんなレベルの話ではない。
人間は感性というものを持って生まれる。その持って生まれた感性や感情は、それからの人生で様々に変化していく。それを押し殺したり、こらえたり、そんな必要性だって当然社会で生きていく上で生まれてくる。日常ではそれを押し殺したりしていくこともあるからこそ、少なくとも芸術を学ぶその瞬間、芸術の国に入った瞬間からは、それに火をともし続けなければいけない。
嬉しい・・でも、どんな嬉しさなのか。たとえば日常で、嬉しくて嬉しくてたまらなくて、道端ではじけて、わー♪♪って叫びながら走り出したら、子供でないかぎり、ものすごい怪しげな眼で見られるだろう。でも芸術の国では、嬉しくてはじけてあふれ出そうで、子供のように”音”を介してはじけ出したって良いのだ。ひとしれず、子供の頃に戻ったっていい。
涙する・・・めそめそ泣くだけではなく、声にもならない嗚咽もあれば、号泣もある。
普段決してひとまえで涙を見せないひとが、音楽で心の涙を流すことだってあっていい。
自分の感情を、感性を、もちろん作曲家が求める範囲ではあるものの、奔放にぶつけて良い。そんな自由で魅力的な国は芸術以外にないかもしれない。
少し脱線するが、”作曲家が求める範囲で”と書いた理由について書いておく。
芸術の国では創造主はあくまで作曲家であり、演奏者自身の人生を描くのではない。自分の人生や感覚と照らし合わせてみたりするのは、作曲家が刻み込んだ感情なり表現なりを、演奏側は、自分の経験や体験から想像可能な範囲で、できるかぎり強く体感してみる、という意味だ。いちいち自分の人生を重ねていたら、ひとりよがりの安っぽさにつながる危険があると私は思う。
私は日ごろから生徒に、「演奏者は 良き俳優でなければいけない」と言っている。
話を戻すと、
感情とは、もちろん、そんなロマンチックな感情ばかりではない。何かものすごい美を目の前にし、心が洗われていくような崇高な感動もあれば、何とも言えない内なる平穏もあるだろう。
様々な感情、表情を音として表現できるためには、自分というフィルターを通して、そういった感情を日頃から常に鮮明に感じ、感性を目覚めさせ続ける不断の努力をしなければいけない、ということを教える必要があるのではないだろうか。
感性は磨かないと鈍くなっていく
知らず知らずに、最終目的が脱線し、目指す芸術を体で感じないまま、指を動かして音楽をしているつもりになる、ということが起きないように。
頭だけではなく、心で感じる
そこには人間の持つ、もう一つの先天的な能力が必要となる。
続く
私のサイトFromBerlinへは
こちらから