この夏、クールシュヴェール夏季国際講習会で、1ヶ月にわたり総勢55名ほどのレッスンをさせていただいた。今年のクールシュヴェール講習会は、計31カ国から参加者が集まった。私たちのクラスも、その影響もあり国際色豊か。セッションによっては、日本人が集まった期間もあったが、それ以外に、フランス、イギリス、ドイツ、中国、メキシコ、イタリア、スペイン、コロンビア、ロシア、韓国・・ざっと思い出すだけでもクラスにこれだけの国籍があった。こうたくさんの違う顔ぶれをレッスンできるのはあまりないので、非常に興味深い夏だった。
これだけの異なった人たちに接した結果、レベル如何に関係なくほぼ大半に共通して気になることがあった。
<不自然>
ということ。音楽がということではなく、演奏の仕方がである。
体をくねったり、足が落ち着かずふらふらと前後左右にそらしたり、そして腕やひじを頻繁に動かす。あるいは、鍵盤がかわいそうなほど、ぎゅうぎゅう押したり。
みていて、苦しくなるほどものすごい肉体的な努力をして弾いている。
動くことに闇雲に反対するわけではない。音楽に影響がなければ、自分の心地よい様に動いたって良いと思う。でも、そういう場合目をつぶって聴かせてもらうと、必ずといってよいほど音楽は非常に平らな場合が多い。
不自然なのは、良いはずがない。弾いているほうもあれでは居心地が悪いだろう。
では、なぜそうなってしまうのか。大きな要因は主に二つだと思う。
1) どう演奏したいのかがあいまいな為に、動くことで音楽を表現して、言葉は悪いが自己満足になっている場合。
2) ピアノという“機械”、そして自分という”機械“を理解していない場合
1) に関しては、今までのブログでも事あるごとに触れているが、“こんな感じ”というあいまいなイメージで、満足している場合である。繰り返すが、あいまいな理想のまま音を出すと、だんだん理想のほうが下がってきてしまう。それに気がつかず、ある程度の音色が出た時点で、自分が理想にたどりついたと満足してしまう危険が高い。
* <はっきりとした>音のイメージがないままピアノを決して触らないで欲しい。
そして2)の<二つの機械>について。
多くの場合、本当によく練習してあっても、意外とピアノという機械、そして自分という機械について知らないことが多い。
* ピアノは、どうすれば音が鳴るのか。そして
* 私たちはどうやってピアノを弾いているのか。
とても簡単に聞こえるこの根本の問いかけだが、実際にその事をきちんと考え、そして掘り下げることを今まで一度もしていない人は多いのではないだろうか。でもそれこそが、なによりもまず最重要な知識だと思う。今回の講習会でその欠乏に驚いたと同時にそのことに関してレッスンで話をする必要性を痛感した。日本で行っているMessageFromBerlinプライベートレッスン。ここで会う生徒さんたちには是非そのことを事あるごとに話したいと思う。そして、日本でのMessageFromBerlinシリーズの一環として、タイトルを定めて少人数で講習をするということも考え始めている。みなさん、どうでしょうか・・・
ヨーロッパで時々、日本語や漢字入りデザインの洋服などを身に着けているのを見かけることがある。なんだか正直気恥ずかしい。
それでもまだ意味の通っているものは良いのだけど、
たまに、ん??という文字が書いてあることがある。
これまでに、一番強烈だったものの一つは、とある外国のブランドメーカーから夏限定で売り出されたTシャツ。おなかの部分に30センチ四方ぐらいの本当に大きな文字で
“寒”
と書いてあるのだ。その夏のトップ商品なのか、ベルリンのショーウインドウでは6台ほどのマネキン全員が、色違いで同じTシャツを着ていて、まさに
寒寒寒寒寒寒
と並んでいた。本当に寒い・・・おそらく翻訳した人が <涼> と間違えたのであろうと勝手に解釈している。
所変わって昨日、お茶友達Nととある市場を歩いていた時のこと。彼女がふと、
前の女の人の背中・・・といって笑い出した。このところはやっているのだけれど、タトゥーといって刺青に似せて皮膚に直接絵や字を入れている人がいる。前を歩いている彼女もその一人。
後ろから見た感じおしゃれな人っぽい。背中の辺りが大きく開いたトップを着ていて、その開いた首筋から背中にかけたあたりに、よく見ると漢字のタトゥーが入っている。
なぜか小さめに遠慮気味ではあるが、縦書きに書かれていたのは
生活
Nと二人で笑い転げてしまった。寄りによって”生活”って・・・。LIFE、つまり”命“とでも書きたかったのだろうか。一生消せない刺青ではないことを祈る。
知らぬが仏とでも言おうか。私がベルリンに来て間もない頃、学校のそばで信号待ちをしていたら、あるドイツ人らしきおじさんが嬉しそうに話しかけてきた。おもむろに出した小さな箱。見知らぬ私に7センチ四方ぐらいのその箱を開けてみせた。中には、5センチ四方ぐらいの赤い座布団にすわる、小さな7福神のお人形。とてもかわいい。
ドイツ語が多少聞き取れても、話すことがまだほとんどできなかった私は微笑むのが精一杯。だいたい都会の交差点の信号で、見知らぬおじさんに赤い座布団にのった7福神をみせられている私って・・・そんなにスキがあるのか、私。汗
そのおじさん、嬉しそうにそれを私に見せながら、弁天様を指差し、一言。
おじさん:ぼくこれ何か知ってるよ!
GE-I-SHA♪
といって、青になった信号をさっさと歩いていってしまった。
私:あの、おじさんそれ芸者ではなく・・・・
と呟く私を尻目に、彼は今も、弁天様を芸者と思い続けているかと思うとどうも・・。
ちなみに、日本でのブランド コムサ ドゥ モード(Comme ca du Mode)と書かれた
手提げを持ってベルリンに帰ったら、フランス人の私のだんな(以下D)がいきなり
D:なにそれ?
とひとこと。
私:これ、フランス語でしょ。日本のファッションブランドだよ。
といったら、
D:それ、何の意味にもならないよ。フランス語なの??
とあきれられてしまった。何の意味にもなっていないらしい。
知らぬが仏。お互い様か・・・。
ムジカノーヴァ7月号に、このブログでもたびたび登場しているPascal DEVOYONの
インタビューが掲載されました。是非ご覧ください。
また、その際のインタビュアーであった評論家の真嶋雄大さんとは、その時初めてお目にかかったのですが、大変気さくですばらしいお人柄です。彼のブログは充実していて面白いですよ!私たちのことも8月20日欄に記載してくださっています。
真嶋雄大さんのブログはこちらから:
http://hotlife.net/hotblog/user/yudai417/yudai417.php
前回のブログで、緊張について書いた。そこで触れた、“集中する”ということについて、もう少し詳しく考えてみたい。
演奏中は集中すると書いたけど、いったい何に集中するのだろう。
音楽に?? 本当?? 音楽に集中するってどういうこと?
まず、もう一度”練習“ということの意味合いについて考えたい。
練習には3つの大切な作業があると思う。
1) どうしたいという自分の<はっきりとした>イメージを持つ。
2) そのイメージが聴き手に伝わるためには、どういう音を出せばよいのかを考え、あれこれ試してみて探す。
3) 出てきている音が本当に自分のイメージのように聴こえてきているか判断する。
つまり、心、頭、耳。このどれも欠かせない。
それ以前に、いわゆる”機械的“な演奏が1番まずい。弾けるようになることをとりあえずの目的にして、ひたすらリズム練習などで、音だけを弾いてしまうことから来る大きな遠回り。練習を始めるにあたっては、最初からイメージを強く持つこと。これは忘れないで欲しい。
イメージを持つことの大切さについては、皆さんよく言われると思うけど、そのせいでありがちな誤解のケースが、
<自分なりにイメージを持っている=音楽的に弾いていると勘違いしてしまう>
こと。つまり上記の1)のみになってしまうこと。やっているつもりで、現実が聞こえていないタイプ。
そして次によくある間違いが
1) と3)だけになってしまう場合。
つまり、イメージをもって弾いているのだけど、思うようには響いていない気がするので、もっと強くイメージを持って、さらにとりあえず何回も弾いてみる、というケース。
理想と現実の差が聞こえているのは良いものの、その差を縮めるために<どうすればよいのか>を考えるという2)のステップが抜けているタイプ。
イメージを強く持ったからそのとおりに音が出てくれれば、こんな嬉しいことはない。
でも実際には、そう簡単にはいかず、自分がイメージする様に<相手に>伝わらなければ何の意味もない。それも、”音”で伝えなければ意味がない。
あるとき、私のパートナー(以下D)の生徒さんで、弾きながらハミングのように歌う生徒がいた。だんだんエスカレートして、最後はほとんど彼女の声の方しか聞こえないぐらいの演奏になった。なんで一緒に歌うのか、と聞くと
<だって黙って弾くと、音が歌っていないように聞こえるんです>
という返事。すかさずDが
<それは、君が黙ったことで現実に鳴っている音を聞いたということだよ。>と。
音が歌わないから、自分のイメージに近づくために、歌ってしまっている。要するに、やっている“つもり”。これほど怖いことはない。音楽家は<音>で伝えなければ、仕方ない。
顔をしかめたって、体を動かしたって、伝わらない。もしお客さんがラジオで聞いていたり、演奏者が見えない状況だったら・・と考えてみて欲しい。
そのために、大切なのが2)の作業。どうすればそう聞こえるのか、を探しに探す。ひとつ見つかったと思ってもそこで満足せず、ほかに方法はないかいろんなパターンを試してみる。この模索する時に、本当にたくさんの可能性を学ぶことができる。
たとえば、ここは不安げに弾きたい。だからといって不安げに!と思って弾いたってそうは聞こえない。むしろ音が抜けて、”不安定“に聞かせる結果になってしまう。
そうではなく、不安げに聞こえる音を出す必要がある。そのためには、”不安げ”という感情はどういうことなのか。なんで”不安“を人間は感じるのかを考える。どういうときに不安を感じるのか。不安という感情は、なにかわからないから来る。明らかであれば、怖いものはない。だから、拍子や強拍がはっきり出ないようにしたり、ペダルを薄く使って不気味な効果を出してもよいかもしれない。ハーモニーがたくさん変化する場所なら、それを利用して、一つのハーモニーに安定せず移り変わりを強調しても良いだろうし、不協和音があるなら、それを聞かせるように弾くのもよい。不協和音というのは、文字通り”協和しない”わけだから、不思議な響きとなって、不安さを出すこともできる。
これは、ほんの1つの例でしかない。こういう風に考えて探す過程で、耳も非常に養われる。また、たまたまほかの事を見つけることもできる。不安さを探していたのに、やたら明るい音が出てしまったとしたら、“明るい”方の音も、学んでいるわけだから。
不安定に聞かせたいために、実際不安定に演奏しているのではない、つまりそう<聞かせる>ことが大切なんだ、という例をもう少しわかりやすくするために、演劇をイメージして欲しい。
大きなホールで、なにか内緒話をするシーンを演じるとする。
本当に、内緒話の声で舞台でしゃべったら、誰にも聞こえない。ささやかれているように
聞かせる声を出しているだけで、実際は一番後ろのお客さんにもひとことひとこと全て聞こえているでしょう。
ピアノでも同じこと。探すことから学ぶことは本当に大きい。理想を高く持ち、あれこれ試行錯誤してみてほしい。
強いイメージもち、実際にそう聞こえているか耳で判断し、調整する。
練習であっても、演奏会であっても、
<心、頭、耳すべてを研ぎ澄ませて>
いて欲しい。これこそ”集中”ではないかな。音楽に集中する・・・これだけでは少し簡単すぎる答えのような気がする。
これは、いわゆる”あがり症“というタイプの演奏家にとって、永遠の課題と言えるだろう。このテーマでブログを出したいとはかなり長いこと考えていたが、とても難しいテーマで、考えに考えているうちに今になってしまった。私も自慢じゃないが、ものすごく緊張するタイプ。まだ結論や答えがでたわけではないけど、これまで考えあぐね、いろいろと試してきた過程で今思うことを書いてみたい。私と同じように、“相当あがる”タイプのひとに読んでもらえたらと思う。
私は、ある年齢まで“どうしたら緊張しないか”という事ばかりをしばらく考え、試みてきた。でも本番がくるたびに、“あぁ、今日も緊張してる。今日も震えてる・・・”と相変わらずの緊張にがっかりしていた。
ところがある時、ふと気がついた。
あがるのは、私の性格、タイプなんだ。つまり、私という人間そのものなんだ。
つまり、それを排除しようとすることに間違いがあるんじゃないかなと。おっちょこちょいの性格の子は、大人になってもおっちょこちょいだ。(←ハイ、私のことです。)それを”治そう”というところからスタートするから、本番のたびに、”今日もだめだ・・“というマイナス思考になってしまう。
私はあがるタイプだ。つまり、あがっているのが ”普通”の私。だから本番であがっていたら、”あ、今日もあがってるじゃん。いつもと同じだ“と、ちょっと自分に笑いかけて、あがっている状態を認めるようにした。そのことでまず第一段階としてほんの少しだけど、楽になった。あがらないように、ではなく、あがっている自分を普通の自分と認めて、どう付き合うか、と考えるようになった、といえばよいだろうか。
これまで、いろんな人に
本番なんて、たいしたことじゃない、失敗したって死ぬわけじゃないし。お客さんをジャガイモだと思えば良い、自信を持って!
などなど言われ、そう思おうと努力してみた。皆さんも、そういわれた事ありませんか?
<でも、そんなこと無理!>(>o<”)
第1に:お客さんがジャガイモに見えるわけなし。お客さんはお客さんだ。鬼に見えても、ジャガイモには見えん。
第2に:自信を持てっていわれたって、持とうと思って持てれば、そんな楽なことないけど、そんなの無理!
これが、私の心の叫び。というか努力してみた結果無理だった・・・泣
同じこと感じる人へ。一緒にがんばりましょう。(^_^)
そんな人のために、少しでも役に立てればというのが今回のブログ。
なぜ緊張するか・・・・・そんなこと知っても緊張するものはする。( ̄^ ̄) エッヘン(←自慢するか?!)
今の私は、それよりも<緊張と共に生きていこう!>という考えなので、緊張しているとき、いったい自分がどうなっているのかということをまず考えてみた。
舞台の上。緊張してる。そこで演奏を始めるわけだけど、私の場合、弾き始めた後の頭の中はこうなっている。
げ、あがってる。手が震えてる・・・、弾けるかな、弾かなきゃ。
次なんだっけ・・・、あ、そんなこと考えちゃだめだ。集中集中・・・。
少し落ち着いてきたかな、弾けそうかも・・、あ、やっぱりあがってきた・・・。
_もちろん、有無を言わさず曲は進む_
あと半分だ。もう少しだ・・・え、あーあーあー、左手が”ぐちゃっ”てなった、こわいー
助けて・・。
などなど
こういうことが頭を渦巻いていた。
つまり、演奏中
まったく音楽に集中していない
のだ。私のだんな様((以下D)によると、集中力は
トレーニングで着くものであり、集中しようと思ってすぐできるものではないという。
日ごろの練習で、集中力をつけるべきだと。
そこで、普段の練習で自分が集中しているかどうか、気をつけてみた。
すると、なんと言うこと!2-3小節しか弾いていないのに、もうほかの事を考えてる。
たとえば、今日はあとこの曲練習しよう、とか、あ、そういえば昨日友達と・・・とか。
これじゃだめだ、集中しよう!!
と思い直して、もう一度最初から弾き直してみても、また数小節でいつの間にかほかの事を考えている。信じられなかった。
それからというもの、練習するたびに、少しでも長く集中が続くように少しずつ努力してみた。つまり、気が散っていることに気がついた瞬間に弾くのをやめるのだ。最初の数日は、5小節も進まない。習慣って本当に恐ろしい。
でも、不思議なことに、Dが言ったとおり、それが日がたつにつれ集中できる瞬間が少しずつ少しずつ長くなっていくのだ。
集中は、疲れも影響する。疲れているのに無理やり集中しようと思ってもなかなかうまくいかない。たくさんの生徒をレッスンした後などは、頭も耳も限界に疲れていて、
練習にならないことが多々ある。
そういうことを考えると、本番の日に、あまり弾きすぎるのは良くないという意味がよくわかってきた。エネルギーと集中力を温存するためだ。
この集中力が今の私は、まだうまく続く時とそうでない時のばらつきがある。でも確実に
パニックにはならなくなった。一生勉強。焦らず、少しずつ身に着けていけたらと思う。
皆さん、一緒にがんばりましょう。笑
今回は相当長くなってしまったので、ここまでにするけど、もう一言だけ。
本番に向け、
“あれをしてはいけない、これをしてはいけない“、つまり
間違えちゃいけない、早くなっちゃいけない、などと <してはいけない>
ことを考えるのではなく、
“こうしよう、ああしよう“と、やりたいことを決めて、
積極的に演奏するのもひとつの手だと思う。
その日、私は車の中で、ぱっきゃまらーど、ぱっきゃまらーど、ぱーお、ぱーお、ぱ、ぱ、ぱ♪ と上機嫌に歌っていた・・・
謎1)なんでこんな歌を歌っているのか・・・(←そっとしといてくだされ)
謎2)この歌、知ってますよね? 知らない人ごめんなさい。僕の大好きな、くらぁぁりねっと、パパからもらったくらぁぁぁりねっと・・という歌。題名?知らない。( ̄^ ̄)エヘン
すると、うちのだんなさん(以下D)が、すかさず、
D:なんで、パ、パ、パなの??
私:え???それより、なんで知ってるのこの歌? (私はもちろん日本語で歌っていた)
D:そりゃ、フランス語の歌だもん
へええええ。
で、Dによると、<ぱ、ぱ、ぱ>ではなく、オーパ だという。
オーパ???なんじゃそりゃ。
ぱーお、ぱーお、と歌っていたということは、さかさま・・・めちゃくちゃだ。汗
よくよく聴いてみると、オーパ は Au Pas 一歩一歩みたいな言葉。
ぱっきゃまらぁどぉーー♪
と叫んでいたところは、 パ、キャマラード (キャマラードは仲間)で、
仲間よ、一歩一歩みたいな感じになるのかな。
へえ。
この歌、続きを良く知らなかったけど、
ドの音が出ない、レの音がでない、ミの音も、ファも、ソも・・と続き、えらい悲壮感漂う曲だ。
そういえば、カタカナを並べて、意味を知らずに歌っていた歌は、たくさんある。
オぉぉぉぉソぉレミぃぃぃぃオぉぉぉぉぉ などと、
小学校の音楽の授業で歌っていたが、
おぉそれみろ!ぐらいにしか思っていなかった。
まさか、子供時代に
“おぉ私の太陽“などと歌っていたとは・・・ (* v v)。 ハズカシ
そうこう書いている今、オーソレミーオ とつぶやいた私に
横から、Dが
私の太陽って・・・もしかして僕のこと?? (* v v)。ポッ
と呟きおった。
もちろん、無視である。
また別の日のこと。車の中からある犬をみた。
アニメにも出てくる、大きくてかわいぃ犬。
私:ほら、なんだっけあの犬。大きくて、茶色と白と・・
D(呟き調):あれじゃない、ほらベルナール
私:ベルナール?そんなしゃれた名前の犬種なんてないでしょ(←冷たい)
アニメに出てくるさぁ。ほらぁ。
D(呟き調):サンベルナールじゃない?
私:えーっと、ハイジとかに出てくるような。(←Dをほぼ無視している)
D:だから、サンベルナールだと思うけど・・・…( ̄。 ̄;)ブツブツ
—–そうこうすること10分—–
私:あ!(・。・)b セントバーナードだ!!!!!!
D:(-_-#) だから、さっきからサンベルナールだと・・・
私:ん???サンベルナール、セントバーナード・・・
おおお、同じだ!!
フランス語になると、ベルナールになるとは・・。Dを無視し続けていた私、大きく反省。
あの犬は、サンベルナールかぁ。
そう呼んだほうが、おしゃれだな。
前から気になっていたのだが、電話を受けるとき、ヨーロッパの人は、”もしもし”ではなく、いきなり自分の名前をフルネームで名乗る。たとえば、私に電話がかかってきたとすると、
―はい、もしもし村田です
のかわりに、いきなり
-むらたりかこ!
と言って出てくるのである。フルネームで来られると、思わず電話をかけたこちらが、ひるんでしまう。
私のだんな(以下D)も例外なく、電話を取ると即座に、自分の名前を名乗る。問題はそこから。
そのあと受話器を耳にあてたまま、かなり長い間
( ¨)¨)¨)¨)¨)¨) シーン
という時間が続くのだ。好奇心旺盛な私は、電話中と見られるDのまわりを、
くるくるくるくるとまわりながら(←かなりうっとうしい)
”誰?誰?”と、かけてきた人が誰なのか気になって仕方ない。それにしても電話を受け取ったDのほうが、1分以上だまっているということは、どういうこと?相手は無言電話??
電話が終わってきいてみた。すると、Dは
-普通に相手の話を聞いてるだけだよ。
という。
私:でも相づちうたないの?(・o・)
私は、相手が相槌をうってくれないと、”聞いてる?”と心配になってしまう。よく考えると、私がDに話しているときも、いつも黙って聞いているので、
“ねえ、聞いてる?”と連発していることに気がついた。
その度に
D:ちゃんと聞いてるよぉ。(‘ε’)
という。どうも、あの“相づち”というものを言葉が切れる度に挟むのは、少なくとも電話においては、日本語での会話ならではの特徴らしい。
そこで私は、
<日本語の会話ではね、単語の切れ目に、“うん”とか“はい”って相槌をはさむんだよ>と説明した。理解してますという意味もこめてね、と。
D:ほぉ~(゜o゜)
日本語勉強中のDは、早速それを実践へ。ところが、相槌は意外と難しいらしい。私の文章が切れるたびに、
“んっ!んっ!んーー!”
と思いっきり力をこめていうので、今度は話しにくくて仕方ない。
私:あのね、
D:“ん!”
私:今日学校でね
D:”んー!“
という具合なってしまう。あまりに力んでいるので、笑いがこみ上げて話せたもんじゃない。
Dは覚えたばかりのことを即実践するのが好きである。私が小さいころ、教科書で、
<日本語のわからない外国人でも、日本人に話しかけられた時、
-はい、はい、そうですね
と繰り返して適当なタイミングで言っていれば、内容がわかっていなくても会話が成り立った>
という笑い話を読んだことがある。この話をDにした。何でも実際にやってみたい性格のDは、先日、日本でTaxiに一人で乗る機会があったとき、早速試してみたらしい。
Taxi運転手さんは、外国人が乗ったことが嬉しかったのか、一生懸命日本語で話しかけてきたそうだ。これでわからないというと可愛そうな気がしたDは、
―はい、はい、そうですかぁー
―はい、はい、へぇ、 そうですかぁー
と、定期的に間があるごとに繰り返したところ、本当に会話が成立。だんだん
そうですかぁーというのが面倒くさくなって、途中から、
すかー、はい、はい、へぇー
すかー
と言ってみたらしいが、やっぱり成り立ったらしく、Taxiの運転手さんはDが何も理解していないことを知らないままだったとか。
Dも相当チャレンジャーである。
ブログが滞っていた・・・。というのも、風邪をしっかり引いてしまったのだ。
調子を崩しているとき、普段あたりまえにしていることが、実は結構な作業だったということに気がつくことがある。今回でいえば、まぶたの開け閉め。いやぁ、まぶたを引っ張り上げるのがこんなに面倒くさいと思ったことはない。まぶたの筋肉は、よく考えれば一日の間に何回、閉めたりあけたりしているんだろう・・・・。今調べてみたら、一日一万回とも言われているらしいけど。まぶたの仕事ぶりに感謝感謝。ストでもされたら大変だ。ほかにも、足の親指を怪我したときなど、足の親指が歩くのにこんなに重要な役割を果たしていたのかと驚いたことがある。親指が使えないだけで、歩けたもんじゃなかった。
今回はのどからの風邪。あまりにのどが痛いので、ベルリンで耳鼻科に行くことにした。なにしろ、外国語で診療を受けるわけだから、言われていることがわかるだろうかという不安がつのる。インターネットで、家から近く、しかも信頼できそうな顔をした(←顔できめるか・・)先生がいる耳鼻科を検索。
意を決して行ってきた。写真で選んだのは若手のドイツ人耳鼻科医(下心はありません。はい、本当に。)待合室でどきどきしながら呼ばれるのを待つ。
そして、私の番。”ハロー!”とにこやかに手を差し出され、握手をしながら診療室へ。
あら???
担当医は、間違いなくその人しかいなかったのだけど、インターネットで見た人とはぜーーーんぜん違う。別人だ。全然違うだけでなく、100%ドイツ人ではない、という顔。でも北欧でも、南欧でも、アジアでもなく、私の知っている人種に存在しない顔。色黒で、白髪のおじいさんで、実験に失敗して爆発したあとの、科学者のようだ。
私の頭の中は、
あなた、いったい何人?(¨ )
もしかして、半魚人?(←ほんとに似ていた)
となってしまい、彼の顔をまじまじと食い入るように見てしまった。
彼の顔があまりにも印象強く、診療の結果を語る説明は、耳を右から左へ通過・・。結局“扁桃腺炎”という単語だけを聞き取り、帰宅。もう一度ネットを見たが、あの人は載っていなかった。何者だったのだろう・・・。
そういえば、私が初めてベルリンで歯医者さんに通ったときのことを思い出した。突然の痛みで、予約なしに直行。だから歯医者で使われる言葉なんぞを予想して前もって調べる時間も当然なし。
歯医者に入ると、日本で見慣れた診療台。よかった、同じだ。と思い診療台へ。(もちろんこちらでは、靴を履いたまま横になるけど。)
順調なのはそこまでであった・・・(-_-;)
先生の言っていることが、<わ、か、ら、ん!>
―僕のほうに、頭を傾けて
とか言われているのに,全くわからず、しっかり無視。
―はい、歯をかちかち噛み合わせて
といわれても、かちかちなんて単語わからない。
何しろ、口をあけたままなので、情けない顔で、
ん?
という表情を作ってみると、先生が目いっぱいの表情で
歯をかちかちして見せてくれる。本当に一生懸命、かっちかちしてくれている。
この人、いい先生だ♪ (←単純)
―はい、歯を、こすり合わせてー。
(-_-#) わかるわけない・・・
この先生、またも自分で、一生懸命こすりあわせている。
がりがりがりがり・・・
今後この歯医者さんは、私のかかりつけになっています。笑
それにしても、半魚人先生が気になる・・。
毎年2回行われる入試。できる限り毎回聞きに行くようにしている。これまで、10年近くかなり頻繁に足を運んだ。その当時、もともとひどくあがって自滅するタイプだった私は、極度に緊張する場面での精神的な強さを少しでも身につけたくて、様々なことを試みていた。その1つとして、人のいろんな緊張場面に立ちあうことで、自分の精神面での勉強にならないかと願って入試を聞かせていただいていた。最近は、私の仕事に、教える立場が加わったため、少し違う角度からの勉強をかねて足を運んでいる。その1つに、ベルリン芸大の入試をめざす生徒さんのレッスンをさせていただくことが増えてきたこともあり、入試の傾向をしっかりとつかみたいということがある。
ベルリン芸大の入試は、2次予選方式。1次は古典のソナタの1楽章(あるいは古典派作品の出だし)をほんの3分ほど聴くだけ。え、3分で何が分かるの?といわれそうだが、これが見事に分かる。あとでそれについては説明しよう。
2次では、Bach,古典派の作品、自由曲という3種類プラス初見。弾かせてもらえるのは合計で15分ほどなので、古典の作品や自由曲では、途中でとめられることになる。
ベルリン芸大の入試倍率は、年によって違うが、6倍から15倍ほど。非常に難関である。この狭き門を通り、先生方の耳に止まるのはどういう演奏なのだろう。言い方を変えれば、どんな演奏が私たちを聞き手をひきつけてくれるのか。今年は1観客としてそういう観点から聴いてみた。
入試と言うのは、独特な試験方式だと思う。次から次へと受験生が試験官の前を通り、演奏する。先生方は非常に厳しい日程で、朝から晩までそれを聴くことになる。人間の集中力や耳の新鮮さなどというのは、やはり限界があると思うので、全てを100%の集中力で聞き続けることは非常に難しい。(私が以前全員聞いたときの個人的な印象だけど。)
その中で、耳に止まる演奏と言うのがある。私の主人も審査をしていて、冗談半分で生徒さんに、
<その時間はきっと疲れて僕たち眠りかけてるから、僕たちを起こすような演奏してね>
と笑って励ましていたが、まんざら冗談ではないと思う。”目を覚まさせる演奏”と言うのが、ある。
その1つは、
― 音美人
今回、とても美しい音を出す子がいた。朝から何人もが弾いて音楽を鳴らしていったホール、しかも同じ楽器なはず。ところがその子が座ると、まだ今日一度も聞いていない、つやのある、美しい音をぽんと鳴らした。すると、ホールの空気がさっとかわり、私たちも先生方もふっとその中に飲み込まれた。
そしてもう1つの目を覚まさせる演奏。それは、
― 生きた音楽
生き生きした曲ということに限らず、静かなものでもそう、音楽に<命>が通っている演奏。みずみずしさというのかな。
そう、私たちが欲している生徒は、音楽に命を吹き込む<演奏家>。
この子は、弾けるか弾けないか・・・そういうことではなく、
この生徒の音楽が<生きているか>。そこで判断している気がする。
たった3分の1次予選でも、生きた音楽かどうかは、すぐに判断がつく。
もちろん、
<じゃあ、命をふきこもう!>
とおもって吹き込めるものではない。頭で吹き込むのではなく、心で吹き込むのだから。
本を読んだり、映画を見たり、自然と触れてみたり・・・そういうことから、感受性を日々鋭敏に育て続け、<心>を養っていくということは、芸術家を目指すものにとって不可欠なことだと思う。
<日本人的、アジア人的な演奏>
よくそういう表現を聞かされる。同じ日本人として、この言葉を耳にするのは非常に腹立たしい。ただ、残念ながらそうひとまとめにされてしまう傾向にあるのは確かだ。
入試に、恐ろしい面持ちで、しり込みしながら舞台に現れて、ただ一生懸命
<弾いて>
帰っていく生徒が多い。少し間違えると、ため息をつき、あわててしまう。
でも、私たちはそういうところを目的に聴いているわけではない。コンクールでもない。完璧に”弾ける”生徒。それなら、学校に通う必要はないわけで、私たちは、そうではなく、これから勉強して育てていきたい”音楽家”を求めているのだ。
舞台に出てきて、
<私は、こんなに表現したいことがあるんです、こんなにこの曲を愛していて、
こういうことを伝えたいんです!>
そういうものにあふれた演奏。それが目を覚まし、私たちを動かす
私たちは、<表現をする芸術>をめざしている。メッセージを<伝える芸術>。
繰り返すが、”弾く”のではなく“伝える”芸術。
このことを強く意識してもらえたらと思う。
自由な演奏と不安定な演奏。この二つは、紙一重で隣り合っている。
ちょっとしたことで、大きな勘違いということになってしまう。
この二つの違いにかかわる一番大きな要素は何か。
それは、“脈”。
生きるものすべてにある、この“心臓”は、音楽にもあり、不可欠なもの。
ただ、音楽での大きな違いは、生き物や、時の流れのように、<定期的に>、<規則正しく>打つわけではないということ。音楽では、この脈が上手に伸び縮みをしながら、”自然に“流れていかなければならない。
<イン テンポ>とは何だろう。一定の速度で弾く、ということではない。音楽での<時間>は
“絶対的”ではなく”相対的“に流れるから。
少し言葉が難しいかな。
相対的ということを、簡単に説明してみよう。たとえば、今自分に5分間あるとする。この5分、<遊んできていいよ>といわれても、あっという間に過ぎてしまう。でも、おばけがでそうな、すごい不気味な場所に<ここに5分間いなさい>といわれたら、きっと長いと感じるでしょう。同じ5分が長く感じたり、短く感じたりすること、これが”相対的”ということ。
音楽での”インテンポ“は、聴いている人に、脈が<自然にながれている様に>さえ感じさせればいいのである。
ちょっと面白い例を挙げてみよう。緊迫感のある部分があり、その後、落ち着いたメロディーが来るとする。あなたなら、時間をどう使う?
緊迫しているところは、少し前にすすんで、ほっとするところでは、幅を広めにゆったり弾く?
それとも、
緊迫しているところに、時間を多めにかけて、緊張が取れたところで、音楽を前に進める?
どっちが正しいだろうか。
<どちらも正しい>のです!
これこそが、”個性”ということ。同じ緊張感をどう表現するかは、個人の自由だから。
このように”伸び縮み”をしながら、実際は気持ちよく脈が進んでいくように聞かせるのである。しかし、気持ちよく進んでいく場合、横にメトロノームを置いてみたら、絶対といって良いほどずれていく。これは、さっき説明した”相対的”ということを考えれば当然のこと。一定に流れているかの<様に>感じさせているだけなのだから。この時間の<伸び縮み>をいかに必要に応じて使えるかが鍵となる。
伸び縮みをどう使うかは、音楽の緊張感が大きく作用する。どこがどの程度緊張しているのかを知るには、ハーモニーの動きを理解することが、不可欠になる。このことをブログで短く説明するのはかなり難しいので、残念ながら書かないが、感覚や本能で弾くだけではなく、ハーモニーや、ハーモニーの変化が生み出すリズムを知り、それをうまく生かしていくことは、避けられない。
難しい話は置いておいて、1つだけ覚えていてほしいことがある。
-借りたら返す-
ということ。ルバートということばの語源は、ラテン語で ”取る、盗む”ということらしい。
時間を前の音から”取る”。とって次の音を少し長くした分、また前に進む。つまり、時間を”返す”のである。
取ったり、返したり・・・つまり、これこそが<伸び縮み>を生みだす。
自由に弾こうと、時間を<取りっぱなしに>するから、<伸び縮み>ではなく<伸びっぱなし>になる。反対も同じ。そして、音楽が不安定になってしまうのである。取ったら返そう!
日常、遭遇したこと、思ったこと・・・を飾らず気ままに書いて行きたいと思います。