~意味のある練習を学ぶ~緊張ということ

これは、いわゆる”あがり症“というタイプの演奏家にとって、永遠の課題と言えるだろう。このテーマでブログを出したいとはかなり長いこと考えていたが、とても難しいテーマで、考えに考えているうちに今になってしまった。私も自慢じゃないが、ものすごく緊張するタイプ。まだ結論や答えがでたわけではないけど、これまで考えあぐね、いろいろと試してきた過程で今思うことを書いてみたい。私と同じように、“相当あがる”タイプのひとに読んでもらえたらと思う。
私は、ある年齢まで“どうしたら緊張しないか”という事ばかりをしばらく考え、試みてきた。でも本番がくるたびに、“あぁ、今日も緊張してる。今日も震えてる・・・”と相変わらずの緊張にがっかりしていた。
ところがある時、ふと気がついた。
あがるのは、私の性格、タイプなんだ。つまり、私という人間そのものなんだ。
つまり、それを排除しようとすることに間違いがあるんじゃないかなと。おっちょこちょいの性格の子は、大人になってもおっちょこちょいだ。(←ハイ、私のことです。)それを”治そう”というところからスタートするから、本番のたびに、”今日もだめだ・・“というマイナス思考になってしまう。
私はあがるタイプだ。つまり、あがっているのが ”普通”の私。だから本番であがっていたら、”あ、今日もあがってるじゃん。いつもと同じだ“と、ちょっと自分に笑いかけて、あがっている状態を認めるようにした。そのことでまず第一段階としてほんの少しだけど、楽になった。あがらないように、ではなく、あがっている自分を普通の自分と認めて、どう付き合うか、と考えるようになった、といえばよいだろうか。
これまで、いろんな人に
本番なんて、たいしたことじゃない、失敗したって死ぬわけじゃないし。お客さんをジャガイモだと思えば良い、自信を持って!
などなど言われ、そう思おうと努力してみた。皆さんも、そういわれた事ありませんか?
<でも、そんなこと無理!>(>o<”) 第1に:お客さんがジャガイモに見えるわけなし。お客さんはお客さんだ。鬼に見えても、ジャガイモには見えん。 第2に:自信を持てっていわれたって、持とうと思って持てれば、そんな楽なことないけど、そんなの無理! これが、私の心の叫び。というか努力してみた結果無理だった・・・泣 同じこと感じる人へ。一緒にがんばりましょう。(^_^) そんな人のために、少しでも役に立てればというのが今回のブログ。 なぜ緊張するか・・・・・そんなこと知っても緊張するものはする。( ̄^ ̄) エッヘン(←自慢するか?!) 今の私は、それよりも<緊張と共に生きていこう!>という考えなので、緊張しているとき、いったい自分がどうなっているのかということをまず考えてみた。 舞台の上。緊張してる。そこで演奏を始めるわけだけど、私の場合、弾き始めた後の頭の中はこうなっている。 げ、あがってる。手が震えてる・・・、弾けるかな、弾かなきゃ。 次なんだっけ・・・、あ、そんなこと考えちゃだめだ。集中集中・・・。 少し落ち着いてきたかな、弾けそうかも・・、あ、やっぱりあがってきた・・・。 _もちろん、有無を言わさず曲は進む_ あと半分だ。もう少しだ・・・え、あーあーあー、左手が”ぐちゃっ”てなった、こわいー 助けて・・。 などなど こういうことが頭を渦巻いていた。 つまり、演奏中 まったく音楽に集中していない
のだ。私のだんな様((以下D)によると、集中力は
トレーニングで着くものであり、集中しようと思ってすぐできるものではないという。
日ごろの練習で、集中力をつけるべきだと。
そこで、普段の練習で自分が集中しているかどうか、気をつけてみた。
すると、なんと言うこと!2-3小節しか弾いていないのに、もうほかの事を考えてる。
たとえば、今日はあとこの曲練習しよう、とか、あ、そういえば昨日友達と・・・とか。
これじゃだめだ、集中しよう!!
と思い直して、もう一度最初から弾き直してみても、また数小節でいつの間にかほかの事を考えている。信じられなかった。
それからというもの、練習するたびに、少しでも長く集中が続くように少しずつ努力してみた。つまり、気が散っていることに気がついた瞬間に弾くのをやめるのだ。最初の数日は、5小節も進まない。習慣って本当に恐ろしい。
でも、不思議なことに、Dが言ったとおり、それが日がたつにつれ集中できる瞬間が少しずつ少しずつ長くなっていくのだ。
集中は、疲れも影響する。疲れているのに無理やり集中しようと思ってもなかなかうまくいかない。たくさんの生徒をレッスンした後などは、頭も耳も限界に疲れていて、
練習にならないことが多々ある。
そういうことを考えると、本番の日に、あまり弾きすぎるのは良くないという意味がよくわかってきた。エネルギーと集中力を温存するためだ。
この集中力が今の私は、まだうまく続く時とそうでない時のばらつきがある。でも確実に
パニックにはならなくなった。一生勉強。焦らず、少しずつ身に着けていけたらと思う。
皆さん、一緒にがんばりましょう。笑
今回は相当長くなってしまったので、ここまでにするけど、もう一言だけ。
本番に向け、
“あれをしてはいけない、これをしてはいけない“、つまり
間違えちゃいけない、早くなっちゃいけない、などと <してはいけない>
ことを考えるのではなく、
“こうしよう、ああしよう“と、やりたいことを決めて、
積極的に演奏するのもひとつの手だと思う。

フランス語はおしゃれ???

その日、私は車の中で、ぱっきゃまらーど、ぱっきゃまらーど、ぱーお、ぱーお、ぱ、ぱ、ぱ♪ と上機嫌に歌っていた・・・
謎1)なんでこんな歌を歌っているのか・・・(←そっとしといてくだされ)
謎2)この歌、知ってますよね? 知らない人ごめんなさい。僕の大好きな、くらぁぁりねっと、パパからもらったくらぁぁぁりねっと・・という歌。題名?知らない。( ̄^ ̄)エヘン
すると、うちのだんなさん(以下D)が、すかさず、
D:なんで、パ、パ、パなの??
私:え???それより、なんで知ってるのこの歌? (私はもちろん日本語で歌っていた)
D:そりゃ、フランス語の歌だもん
へええええ。
で、Dによると、<ぱ、ぱ、ぱ>ではなく、オーパ だという。
オーパ???なんじゃそりゃ。
ぱーお、ぱーお、と歌っていたということは、さかさま・・・めちゃくちゃだ。汗 
よくよく聴いてみると、オーパ は Au Pas 一歩一歩みたいな言葉。
ぱっきゃまらぁどぉーー♪
と叫んでいたところは、 パ、キャマラード (キャマラードは仲間)で、
仲間よ、一歩一歩みたいな感じになるのかな。
へえ。
この歌、続きを良く知らなかったけど、
ドの音が出ない、レの音がでない、ミの音も、ファも、ソも・・と続き、えらい悲壮感漂う曲だ。
そういえば、カタカナを並べて、意味を知らずに歌っていた歌は、たくさんある。
オぉぉぉぉソぉレミぃぃぃぃオぉぉぉぉぉ などと、
小学校の音楽の授業で歌っていたが、
おぉそれみろ!ぐらいにしか思っていなかった。
まさか、子供時代に
“おぉ私の太陽“などと歌っていたとは・・・ (* v v)。 ハズカシ
そうこう書いている今、オーソレミーオ とつぶやいた私に
横から、Dが
私の太陽って・・・もしかして僕のこと?? (* v v)。ポッ
と呟きおった。
もちろん、無視である。
また別の日のこと。車の中からある犬をみた。
アニメにも出てくる、大きくてかわいぃ犬。
私:ほら、なんだっけあの犬。大きくて、茶色と白と・・
D(呟き調):あれじゃない、ほらベルナール
私:ベルナール?そんなしゃれた名前の犬種なんてないでしょ(←冷たい)
アニメに出てくるさぁ。ほらぁ。
D(呟き調):サンベルナールじゃない?
私:えーっと、ハイジとかに出てくるような。(←Dをほぼ無視している)
D:だから、サンベルナールだと思うけど・・・…( ̄。 ̄;)ブツブツ
—–そうこうすること10分—–
私:あ!(・。・)b セントバーナードだ!!!!!!
D:(-_-#) だから、さっきからサンベルナールだと・・・
私:ん???サンベルナール、セントバーナード・・・
おおお、同じだ!!
フランス語になると、ベルナールになるとは・・。Dを無視し続けていた私、大きく反省。
あの犬は、サンベルナールかぁ。
そう呼んだほうが、おしゃれだな。

あいづち

前から気になっていたのだが、電話を受けるとき、ヨーロッパの人は、”もしもし”ではなく、いきなり自分の名前をフルネームで名乗る。たとえば、私に電話がかかってきたとすると、
―はい、もしもし村田です
のかわりに、いきなり
-むらたりかこ!
と言って出てくるのである。フルネームで来られると、思わず電話をかけたこちらが、ひるんでしまう。
私のだんな(以下D)も例外なく、電話を取ると即座に、自分の名前を名乗る。問題はそこから。
そのあと受話器を耳にあてたまま、かなり長い間
( ¨)¨)¨)¨)¨)¨) シーン 
という時間が続くのだ。好奇心旺盛な私は、電話中と見られるDのまわりを、
くるくるくるくるとまわりながら(←かなりうっとうしい)
”誰?誰?”と、かけてきた人が誰なのか気になって仕方ない。それにしても電話を受け取ったDのほうが、1分以上だまっているということは、どういうこと?相手は無言電話??
電話が終わってきいてみた。すると、Dは
-普通に相手の話を聞いてるだけだよ。
という。
私:でも相づちうたないの?(・o・)
私は、相手が相槌をうってくれないと、”聞いてる?”と心配になってしまう。よく考えると、私がDに話しているときも、いつも黙って聞いているので、
“ねえ、聞いてる?”と連発していることに気がついた。
その度に
D:ちゃんと聞いてるよぉ。(‘ε’)
という。どうも、あの“相づち”というものを言葉が切れる度に挟むのは、少なくとも電話においては、日本語での会話ならではの特徴らしい。
そこで私は、
<日本語の会話ではね、単語の切れ目に、“うん”とか“はい”って相槌をはさむんだよ>と説明した。理解してますという意味もこめてね、と。
D:ほぉ~(゜o゜)
日本語勉強中のDは、早速それを実践へ。ところが、相槌は意外と難しいらしい。私の文章が切れるたびに、
んっ!んっ!んーー!
と思いっきり力をこめていうので、今度は話しにくくて仕方ない。
私:あのね、
D:“ん!
私:今日学校でね 
D:”んー!
という具合なってしまう。あまりに力んでいるので、笑いがこみ上げて話せたもんじゃない。
Dは覚えたばかりのことを即実践するのが好きである。私が小さいころ、教科書で、
<日本語のわからない外国人でも、日本人に話しかけられた時、
-はい、はい、そうですね
と繰り返して適当なタイミングで言っていれば、内容がわかっていなくても会話が成り立った>
という笑い話を読んだことがある。この話をDにした。何でも実際にやってみたい性格のDは、先日、日本でTaxiに一人で乗る機会があったとき、早速試してみたらしい。
Taxi運転手さんは、外国人が乗ったことが嬉しかったのか、一生懸命日本語で話しかけてきたそうだ。これでわからないというと可愛そうな気がしたDは、
―はい、はい、そうですかぁー
―はい、はい、へぇ、 そうですかぁー
と、定期的に間があるごとに繰り返したところ、本当に会話が成立。だんだん
そうですかぁーというのが面倒くさくなって、途中から、
すかー、はい、はい、へぇー
すかー
と言ってみたらしいが、やっぱり成り立ったらしく、Taxiの運転手さんはDが何も理解していないことを知らないままだったとか。
Dも相当チャレンジャーである。

・・・・謎だ・・・・

ブログが滞っていた・・・。というのも、風邪をしっかり引いてしまったのだ。
調子を崩しているとき、普段あたりまえにしていることが、実は結構な作業だったということに気がつくことがある。今回でいえば、まぶたの開け閉め。いやぁ、まぶたを引っ張り上げるのがこんなに面倒くさいと思ったことはない。まぶたの筋肉は、よく考えれば一日の間に何回、閉めたりあけたりしているんだろう・・・・。今調べてみたら、一日一万回とも言われているらしいけど。まぶたの仕事ぶりに感謝感謝。ストでもされたら大変だ。ほかにも、足の親指を怪我したときなど、足の親指が歩くのにこんなに重要な役割を果たしていたのかと驚いたことがある。親指が使えないだけで、歩けたもんじゃなかった。
今回はのどからの風邪。あまりにのどが痛いので、ベルリンで耳鼻科に行くことにした。なにしろ、外国語で診療を受けるわけだから、言われていることがわかるだろうかという不安がつのる。インターネットで、家から近く、しかも信頼できそうな顔をした(←顔できめるか・・)先生がいる耳鼻科を検索。
意を決して行ってきた。写真で選んだのは若手のドイツ人耳鼻科医(下心はありません。はい、本当に。)待合室でどきどきしながら呼ばれるのを待つ。
そして、私の番。”ハロー!”とにこやかに手を差し出され、握手をしながら診療室へ。
あら???
担当医は、間違いなくその人しかいなかったのだけど、インターネットで見た人とはぜーーーんぜん違う。別人だ。全然違うだけでなく、100%ドイツ人ではない、という顔。でも北欧でも、南欧でも、アジアでもなく、私の知っている人種に存在しない顔。色黒で、白髪のおじいさんで、実験に失敗して爆発したあとの、科学者のようだ。
私の頭の中は、
あなた、いったい何人?(¨ )
もしかして、半魚人?(←ほんとに似ていた)
となってしまい、彼の顔をまじまじと食い入るように見てしまった。
彼の顔があまりにも印象強く、診療の結果を語る説明は、耳を右から左へ通過・・。結局“扁桃腺炎”という単語だけを聞き取り、帰宅。もう一度ネットを見たが、あの人は載っていなかった。何者だったのだろう・・・。
そういえば、私が初めてベルリンで歯医者さんに通ったときのことを思い出した。突然の痛みで、予約なしに直行。だから歯医者で使われる言葉なんぞを予想して前もって調べる時間も当然なし。
歯医者に入ると、日本で見慣れた診療台。よかった、同じだ。と思い診療台へ。(もちろんこちらでは、靴を履いたまま横になるけど。)
順調なのはそこまでであった・・・(-_-;)
先生の言っていることが、<わ、か、ら、ん!>
―僕のほうに、頭を傾けて
とか言われているのに,全くわからず、しっかり無視。
―はい、歯をかちかち噛み合わせて
といわれても、かちかちなんて単語わからない。
何しろ、口をあけたままなので、情けない顔で、
ん?
という表情を作ってみると、先生が目いっぱいの表情で
歯をかちかちして見せてくれる。本当に一生懸命、かっちかちしてくれている。
この人、いい先生だ♪ (←単純)
―はい、歯を、こすり合わせてー。
(-_-#) わかるわけない・・・
この先生、またも自分で、一生懸命こすりあわせている。
がりがりがりがり・・・
今後この歯医者さんは、私のかかりつけになっています。笑
それにしても、半魚人先生が気になる・・。

ベルリン芸術大学 入学試験

毎年2回行われる入試。できる限り毎回聞きに行くようにしている。これまで、10年近くかなり頻繁に足を運んだ。その当時、もともとひどくあがって自滅するタイプだった私は、極度に緊張する場面での精神的な強さを少しでも身につけたくて、様々なことを試みていた。その1つとして、人のいろんな緊張場面に立ちあうことで、自分の精神面での勉強にならないかと願って入試を聞かせていただいていた。最近は、私の仕事に、教える立場が加わったため、少し違う角度からの勉強をかねて足を運んでいる。その1つに、ベルリン芸大の入試をめざす生徒さんのレッスンをさせていただくことが増えてきたこともあり、入試の傾向をしっかりとつかみたいということがある。
ベルリン芸大の入試は、2次予選方式。1次は古典のソナタの1楽章(あるいは古典派作品の出だし)をほんの3分ほど聴くだけ。え、3分で何が分かるの?といわれそうだが、これが見事に分かる。あとでそれについては説明しよう。
2次では、Bach,古典派の作品、自由曲という3種類プラス初見。弾かせてもらえるのは合計で15分ほどなので、古典の作品や自由曲では、途中でとめられることになる。
ベルリン芸大の入試倍率は、年によって違うが、6倍から15倍ほど。非常に難関である。この狭き門を通り、先生方の耳に止まるのはどういう演奏なのだろう。言い方を変えれば、どんな演奏が私たちを聞き手をひきつけてくれるのか。今年は1観客としてそういう観点から聴いてみた。
入試と言うのは、独特な試験方式だと思う。次から次へと受験生が試験官の前を通り、演奏する。先生方は非常に厳しい日程で、朝から晩までそれを聴くことになる。人間の集中力や耳の新鮮さなどというのは、やはり限界があると思うので、全てを100%の集中力で聞き続けることは非常に難しい。(私が以前全員聞いたときの個人的な印象だけど。)
その中で、耳に止まる演奏と言うのがある。私の主人も審査をしていて、冗談半分で生徒さんに、
<その時間はきっと疲れて僕たち眠りかけてるから、僕たちを起こすような演奏してね>
と笑って励ましていたが、まんざら冗談ではないと思う。”目を覚まさせる演奏”と言うのが、ある。
その1つは、
― 音美人
今回、とても美しい音を出す子がいた。朝から何人もが弾いて音楽を鳴らしていったホール、しかも同じ楽器なはず。ところがその子が座ると、まだ今日一度も聞いていない、つやのある、美しい音をぽんと鳴らした。すると、ホールの空気がさっとかわり、私たちも先生方もふっとその中に飲み込まれた。
そしてもう1つの目を覚まさせる演奏。それは、
― 生きた音楽
生き生きした曲ということに限らず、静かなものでもそう、音楽に<命>が通っている演奏。みずみずしさというのかな。
そう、私たちが欲している生徒は、音楽に命を吹き込む<演奏家>。
この子は、弾けるか弾けないか・・・そういうことではなく、
この生徒の音楽が<生きているか>。そこで判断している気がする。
たった3分の1次予選でも、生きた音楽かどうかは、すぐに判断がつく。
もちろん、
<じゃあ、命をふきこもう!>
とおもって吹き込めるものではない。頭で吹き込むのではなく、心で吹き込むのだから。
本を読んだり、映画を見たり、自然と触れてみたり・・・そういうことから、感受性を日々鋭敏に育て続け、<心>を養っていくということは、芸術家を目指すものにとって不可欠なことだと思う。
<日本人的、アジア人的な演奏>
よくそういう表現を聞かされる。同じ日本人として、この言葉を耳にするのは非常に腹立たしい。ただ、残念ながらそうひとまとめにされてしまう傾向にあるのは確かだ。
入試に、恐ろしい面持ちで、しり込みしながら舞台に現れて、ただ一生懸命 
<弾いて>
帰っていく生徒が多い。少し間違えると、ため息をつき、あわててしまう。
でも、私たちはそういうところを目的に聴いているわけではない。コンクールでもない。完璧に”弾ける”生徒。それなら、学校に通う必要はないわけで、私たちは、そうではなく、これから勉強して育てていきたい”音楽家”を求めているのだ。
舞台に出てきて、
<私は、こんなに表現したいことがあるんです、こんなにこの曲を愛していて、
こういうことを伝えたいんです!>
そういうものにあふれた演奏。それが目を覚まし、私たちを動かす
私たちは、<表現をする芸術>をめざしている。メッセージを<伝える芸術>。
繰り返すが、”弾く”のではなく“伝える”芸術。
このことを強く意識してもらえたらと思う。

~意味のある練習を学ぶ~  取ったら返す

自由な演奏と不安定な演奏。この二つは、紙一重で隣り合っている。
ちょっとしたことで、大きな勘違いということになってしまう。
この二つの違いにかかわる一番大きな要素は何か。
それは、“脈”。
生きるものすべてにある、この“心臓”は、音楽にもあり、不可欠なもの。
ただ、音楽での大きな違いは、生き物や、時の流れのように、<定期的に>、<規則正しく>打つわけではないということ。音楽では、この脈が上手に伸び縮みをしながら、”自然に“流れていかなければならない。
<イン テンポ>とは何だろう。一定の速度で弾く、ということではない。音楽での<時間>は
“絶対的”ではなく”相対的“に流れるから。
少し言葉が難しいかな。
相対的ということを、簡単に説明してみよう。たとえば、今自分に5分間あるとする。この5分、<遊んできていいよ>といわれても、あっという間に過ぎてしまう。でも、おばけがでそうな、すごい不気味な場所に<ここに5分間いなさい>といわれたら、きっと長いと感じるでしょう。同じ5分が長く感じたり、短く感じたりすること、これが”相対的”ということ。
音楽での”インテンポ“は、聴いている人に、脈が<自然にながれている様に>さえ感じさせればいいのである。
ちょっと面白い例を挙げてみよう。緊迫感のある部分があり、その後、落ち着いたメロディーが来るとする。あなたなら、時間をどう使う?
緊迫しているところは、少し前にすすんで、ほっとするところでは、幅を広めにゆったり弾く?
それとも、
緊迫しているところに、時間を多めにかけて、緊張が取れたところで、音楽を前に進める?
どっちが正しいだろうか。
<どちらも正しい>のです!
これこそが、”個性”ということ。同じ緊張感をどう表現するかは、個人の自由だから。
このように”伸び縮み”をしながら、実際は気持ちよく脈が進んでいくように聞かせるのである。しかし、気持ちよく進んでいく場合、横にメトロノームを置いてみたら、絶対といって良いほどずれていく。これは、さっき説明した”相対的”ということを考えれば当然のこと。一定に流れているかの<様に>感じさせているだけなのだから。この時間の<伸び縮み>をいかに必要に応じて使えるかが鍵となる。 伸び縮みをどう使うかは、音楽の緊張感が大きく作用する。どこがどの程度緊張しているのかを知るには、ハーモニーの動きを理解することが、不可欠になる。このことをブログで短く説明するのはかなり難しいので、残念ながら書かないが、感覚や本能で弾くだけではなく、ハーモニーや、ハーモニーの変化が生み出すリズムを知り、それをうまく生かしていくことは、避けられない。 難しい話は置いておいて、1つだけ覚えていてほしいことがある。  -借りたら返す-
ということ。ルバートということばの語源は、ラテン語で ”取る、盗む”ということらしい。
時間を前の音から”取る”。とって次の音を少し長くした分、また前に進む。つまり、時間を”返す”のである。
取ったり、返したり・・・つまり、これこそが<伸び縮み>を生みだす。
自由に弾こうと、時間を<取りっぱなしに>するから、<伸び縮み>ではなく<伸びっぱなし>になる。反対も同じ。そして、音楽が不安定になってしまうのである。取ったら返そう!

まわるまわる・・・・

私のパートナー“以下D”の癖は、電話をし始めると、うろうろすることである。
もともと1点集中型(悪く言えば、二つ以上のことを一緒にできないだけである)の彼は、電話中はそのことにしか頭が行っていない。
先日も電話が鳴った。 “アロー”(フランス語のもしもし)といったとたん、例の調子で 歩き出した。彼は、しかも空間という空間を隅から隅まで使って歩くのである。
我が家の構造は、L字型になっており、玄関から一番奥の台所まで50歩は歩ける縦長ぁい作り。その縦長い廊下の途中に部屋がいくつかあり、居間やお風呂場などを入れると6箇所ぐらい部屋といえる空間がある。
Dはいつもどおり、電話が始まると、即座に椅子から立ち上がり、“アロー”の声でスイッチON!となったかのように、縦長い空間を歩きだした。時たまどこかの部屋に入り、ぐるぐるまわって、ひとしきり回ると次の部屋に移る。その間も、電話の内容もあるのだろうか、外国人だからであろうか、顔に、喜び、怒り、悩み、笑い、刻々と表情を刻々と変えて現れる。いつどこでくるくるまわっているか把握していないと、突然思わぬ部屋から、笑い声とともに、ぬーっと出てきたりして、こっちは うひょー (ノ゚⊿゚)ノ と驚くわけである。緊張感に耐えない生活だ。
その日は、私も忙しくコンピューターで仕事をしていて、くるくるその周りを回ったり、いなくなったりされると、にわかに腹が立ってきた。
そして、
―――よし!今日はDの行動範囲を少しずつ狭めてみよう。そうすればくるくる回らないかもしれない。!(^^)!
と思いついたのだった。
そして、相変わらずくるくるしながら電話しているDを追いかけ、(私も相当ひまである・・・)まず、玄関近くの扉をしめて、行動範囲を狭めてみた。
玄関のほうに近づいてきた彼は、扉がしまっていると、壁にぶつかったロボットのようにそこでUターンして、また回れる範囲に戻り、くるくるしはじめた。扉を開けてまで、玄関方面に行こうとはしないらしい。
こうなったら、意地である。少しずつ、扉を閉めてみた。Dにしてみると、向こうに行き、戻ってくるとさっきまで開いていた扉が閉まっているわけだが、そんなことには気がつかず、扉にぶつかるたびに、Uターン.
そして、とうとう
――――ふ、ふ、ふ、追い詰めた。(▼∀▼)ニヤリッ
台所に追い詰めてみた。(こうなったらすでに理科の実験のようである。)
すると、どうなるか。回るか、座るか、二つにひとつだ、Dよ。(もう、どうみても私のほうが怪しい状況である) 
す・る・と・・・
まわったーーーぁぁぁぁぁぁ! 
台所の狭―い範囲を、止まることも座ることもなく、ぐるぐるぐるぐるぐる・・・、難しい話をしているのか、眉間(みけん)にしわを寄せつつ回り続けたのであった。
これを見届けると、なぜか、私のいらいらは収まり、更には達成感に満ち(何のだ?)仕事に戻った。
そして、今日もDは回っている・・・

~意味のある練習に向けて~ 

ぱったんぱったん、どっかんどっかん・・・。レッスン室に、ときたま鳴り響く音・・。この騒音は、そう、
<ペダル>
工事現場かここは・・(-_-#)
前回のブログでかいた、Give and Take。ペダルでも、まったく同じく:
1) 足がペダルと”接触”状態にあること。
2) 踏んだ後の戻し方にも十分に意識を払うこと
が不可欠である。
ところが、緊張すると足がペダルの底までしっかり入りそのまま動かない、という車でいうブレーキの役割になってしまうケースが多々ある。
実際には、ペダルの底に達するまでには、踏み入れる“段階”が無数にある。(ウナコルダも同じ。)一番底まで踏むことは、とても“まれ”だと思ってほしい。(底のほうまで踏まないと全然きいてくれない、という調整の悪いピアノの場合はもちろん別だけど。)
ためしに、ダンパー(ピアノの弦の上側にあるやわらかい綿)を見ながら本当にゆっくりゆっくりとペダルを踏んでみて欲しい。しつこいが、ゆっくりゆっくり踏み入れる。
ある時点でダンパーがそっと弦から離れ始める点がある。この瞬間を足でつかむ。ダンパーが弦から離れる瞬間こそペダルがかかり始める点だからである。この点を足のどこでつかむかというと、足の指の付け根よりもう2-3センチ下にある硬い部分。ここが一番微妙なコントロールがし易いため。ここで、ペダルがきき始める地点をすばやく捕らえて、あとはその前後(上下)ほんの少しの間でペダルを踏んだりあげたりする。それがほぼ80%のペダルの使い方。
ピアノの調整によっては、かなり深く踏み込まないとダンパーがあがらないペダルがある。この場合、いくら上っ面のほうでこまめに踏み変えても、無意味ということになる。
もうひとつ、コントロールのために必要なのが、かかと。かかとが浮いてしまっては、コントロールがしづらい。女性の場合、演奏会用の靴にヒールがあるのは当然だけど、あまりヒールが高いもの、あるいはかかとが異常に細く滑りやすい靴はペダルのコントロールの妨げになるので注意してほしい。かかとが”支点”として、軸になっている必要があるためである。
これらのことは、わかっている人が多いと思うが、音の多いところ、難しいところ、盛り上がったところなどになると、意外とペダルへの意識が薄くなり、”踏む” “はずす”というOnかOffかになってしまう。また意外に多いのが、緊張などで、ペダルの戻りにまで意識が行かず、乱暴にはずしてしまい、ペダルが激しく戻るときのかなり大きな雑音を生んでしまっているケース。せっかく指で美しい音を作り出してもペダルのせいで騒音になってしまうのである。
美しい音質の邪魔になる騒音が3つある。
1) ペダル(とくに乱暴に戻すとき)
2) 鍵盤に指があたる音(高いところから打鍵するため)
3) 鍵盤の底に指が当たる音 (必要以上にあたるため)
この3つを避けなければいけない。
ペダルは何のために踏むのか。
それは
“色”のため。
音を伸ばすためでも、弾けていないところを隠すためでもなく、
ペダルをつけるからこそできる”色”がある。その意識で使ってみて欲しい。

豆腐から生まれたひよこ

ある日、出先から私のだんなさま(以下D)が私に電話をしてきたときの会話:
D :あのね、○○さんに、日本からのお土産をもらったよ! 
私:ほんとー!! 嬉しいね。○○さんって、確か以前、2回もおいしい佃煮をくれた子だよね。今回も佃煮をいただいたの?
D:ううん、違う。えーと、えーと、えーと・・・あれ、日本語でなんていうんだっけ?
   
        あ、ひややっこだ!!  (^^)v 
私:ん??ひややっこ? ひややっこってお豆腐だよ? (゜.゜) 
        (心の叫び1)….なんか違うきっと…. (-o-)
D:あ、じゃあ違う、お豆腐じゃないや。ほら、何だっけ・・・チキンの・・・
私:え?チキン??ひややっこじゃなくて、チキン? (++) (心の叫び2:Dよ、おぬしは何を言いたいのか・・・)
D:ほら、小さいチキンがいっぱいあるさぁ・・
——–この時点で私の頭の中にはもう、佃煮と、ひややっこ、そして小さなチキンたちがぴよぴよと飛び交っており、すっかり  
       
        へ?(・_・)  
という状態であった。
さらにDいわく:
D:ほら、日本のお菓子だよ、和菓子!
私:ひえー ∑( ̄□ ̄ || 〒 ||   (わたくし、ここでほぼ壊滅状態)
  
  ……チ、チキンの和菓子なんてあっただろうか・・・・(頭の中には、うなぎパイが飛んだが)
(- -) (- -) (- -) (- -) (- -) (- -) (- -) (- -) シーーーン 
私:!!!!あ!!!!!
それ、ひよこでしょ!! ヾ(・◇・)ノ ピヨピヨ
D:o(*^▽^*)o そうそう!それそれ!!!ひよこひよこ!!あーよかった♪ ふぅ~ ε~( ̄、 ̄;)ゞフー
私:(心の叫び3:いや、ふぅじゃなくて・・・それよりこの流れで、ひよこと分かった自分に拍手~~~みたいな。(-_-#) 
   私の頭の中は:小さいチキン→小さい鳥→ひよこ
という具合でありました。
でも、ひよこと分かってみれば、最初の<ひややっこ>は確かに遠くないのか・・・。と、思わず納得。日本人同士ではありえない連想ゲームとなったのでした。あっぱれ外人よ・・
  

~意味のある練習に向けて~  <Give and Take!>

ピアノを弾くこと=鍵盤をおろすこと   
ではない。
ペダルをつかう=ペダルを踏み込む 
ことでもない。
どうしても、弾く、踏む、という“Give”的な方向にばかり意識がいってしまうことが多い。でも、“踏む” なり “弾く”なりしたものの“後始末”をすることがいかに大切かと言うことを忘れてしまう。
考えてみれば、
部屋の片付けでもそう:出したらしまう。
会話でも:話し手にも聞き手にもなる
そして
恋愛では、7押して3引くんだそうな。(昔、同級生だった 軽~~~いノリの男の子が言っていた。笑)
↑全然参考にならない? (^^♪
いや・・・私が言いたかったのは、鍵盤をおろすことだけに注意を払うのではなく、下がった鍵盤をどう戻すか、ということに意識を持っていることの大切さ。ペダルも同じ。どうあげるか。
鍵盤をおろす。でも、それ以上いくら押しても意味がない。
ある公開レッスンで、
―音を歌わせるために、鍵盤の底に着いたら、そのまま指をヴィブラートさせて・・
といって鍵盤の底で指をぷるぷるさせていた人もいたっけ。 
だから、何も変わらないってば!
エェー、コホンッ!(;-o-)o” 失礼・・・
そうではなく、鍵盤をおろしたらそれをどう戻すか、ということにも強い意識を持ってほしい。
1本の指で鍵盤をおろす。そしてゆっくりと指を緩めると、鍵盤は自然とあがってくる。(決して指で“あげる”のではない。緩めるとあがって来る。これはすごく大切なこと!!)あがってくるスピードを指先で感じることで、そのピアノのアクションの具合が分かる。重いピアノ、軽いピアノ、と一般的に表現されるあの感覚である。たとえば、ゆっくりあがってくるということは、そのピアノは重く感じる。これをいかに瞬時に指先で感じ取ることができるかで、本番など前もって触ることのできない楽器で弾く場合にも、ある程度恐れずに弾くことができる。
大きい音を出したい、だから思いっきり弾く・・のでは、思った音が作り出せない。硬すぎて騒音になるか、がんばった割にはもの足りないなどとなってしまう。
鍵盤の戻りがどれぐらいの速さだから、それに対してこれぐらい・・という“必要な速さ”がある。それを入れる。それが “弾く“ことの基本。闇雲(やみくも)に早く打鍵したり、ピアニッシモにしたいからそっと打鍵しても、ぼこぼこの演奏になってしまうだけ。
また、戻りをコントロールするということは、<音の切れるところ>を自分で作る、ということにもなる。鍵盤を下げて、ゆっくりと戻しながら、ダンパー(弦の上にある白い綿たち)を見てみると良い。鍵盤をゆっくり戻すにつれて、ダンパーが弦の上に降りる。降りた瞬間に音が切れる。これも自分で”作り出し”ていなければいけない。ピアノは音が“出る”のでも”切れる”のでもなく、演奏者自身の手で、音を”作り”、”切る”のである。
<鍵盤の戻りを感じ、必要とされている速さと量を必要なタイミングで入れる。>
そのために、指先(指の腹の部分)の鋭敏な感覚を育てることと、鍵盤との絶え間ない接触が必要となる。
鍵盤との絶え間ない接触・・・難しい響きだけど、要するに 
近くから弾く
この言葉ならよく耳にしていると思う。近くから弾くように、といわれるわけは、これで少し分かってもらえただろうか。
ペダルもまったく同じ原理。Give and Take!
これについては次回のブログで書いてみよう。

日常、遭遇したこと、思ったこと・・・を飾らず気ままに書いて行きたいと思います。