私のパートナー“以下D”の癖は、電話をし始めると、うろうろすることである。
もともと1点集中型(悪く言えば、二つ以上のことを一緒にできないだけである)の彼は、電話中はそのことにしか頭が行っていない。
先日も電話が鳴った。 “アロー”(フランス語のもしもし)といったとたん、例の調子で 歩き出した。彼は、しかも空間という空間を隅から隅まで使って歩くのである。
我が家の構造は、L字型になっており、玄関から一番奥の台所まで50歩は歩ける縦長ぁい作り。その縦長い廊下の途中に部屋がいくつかあり、居間やお風呂場などを入れると6箇所ぐらい部屋といえる空間がある。
Dはいつもどおり、電話が始まると、即座に椅子から立ち上がり、“アロー”の声でスイッチON!となったかのように、縦長い空間を歩きだした。時たまどこかの部屋に入り、ぐるぐるまわって、ひとしきり回ると次の部屋に移る。その間も、電話の内容もあるのだろうか、外国人だからであろうか、顔に、喜び、怒り、悩み、笑い、刻々と表情を刻々と変えて現れる。いつどこでくるくるまわっているか把握していないと、突然思わぬ部屋から、笑い声とともに、ぬーっと出てきたりして、こっちは うひょー (ノ゚⊿゚)ノ と驚くわけである。緊張感に耐えない生活だ。
その日は、私も忙しくコンピューターで仕事をしていて、くるくるその周りを回ったり、いなくなったりされると、にわかに腹が立ってきた。
そして、
―――よし!今日はDの行動範囲を少しずつ狭めてみよう。そうすればくるくる回らないかもしれない。!(^^)!
と思いついたのだった。
そして、相変わらずくるくるしながら電話しているDを追いかけ、(私も相当ひまである・・・)まず、玄関近くの扉をしめて、行動範囲を狭めてみた。
玄関のほうに近づいてきた彼は、扉がしまっていると、壁にぶつかったロボットのようにそこでUターンして、また回れる範囲に戻り、くるくるしはじめた。扉を開けてまで、玄関方面に行こうとはしないらしい。
こうなったら、意地である。少しずつ、扉を閉めてみた。Dにしてみると、向こうに行き、戻ってくるとさっきまで開いていた扉が閉まっているわけだが、そんなことには気がつかず、扉にぶつかるたびに、Uターン.
そして、とうとう
――――ふ、ふ、ふ、追い詰めた。(▼∀▼)ニヤリッ
台所に追い詰めてみた。(こうなったらすでに理科の実験のようである。)
すると、どうなるか。回るか、座るか、二つにひとつだ、Dよ。(もう、どうみても私のほうが怪しい状況である)
す・る・と・・・
まわったーーーぁぁぁぁぁぁ!
台所の狭―い範囲を、止まることも座ることもなく、ぐるぐるぐるぐるぐる・・・、難しい話をしているのか、眉間(みけん)にしわを寄せつつ回り続けたのであった。
これを見届けると、なぜか、私のいらいらは収まり、更には達成感に満ち(何のだ?)仕事に戻った。
そして、今日もDは回っている・・・
ぱったんぱったん、どっかんどっかん・・・。レッスン室に、ときたま鳴り響く音・・。この騒音は、そう、
<ペダル>
工事現場かここは・・(-_-#)
前回のブログでかいた、Give and Take。ペダルでも、まったく同じく:
1) 足がペダルと”接触”状態にあること。
2) 踏んだ後の戻し方にも十分に意識を払うこと
が不可欠である。
ところが、緊張すると足がペダルの底までしっかり入りそのまま動かない、という車でいうブレーキの役割になってしまうケースが多々ある。
実際には、ペダルの底に達するまでには、踏み入れる“段階”が無数にある。(ウナコルダも同じ。)一番底まで踏むことは、とても“まれ”だと思ってほしい。(底のほうまで踏まないと全然きいてくれない、という調整の悪いピアノの場合はもちろん別だけど。)
ためしに、ダンパー(ピアノの弦の上側にあるやわらかい綿)を見ながら本当にゆっくりゆっくりとペダルを踏んでみて欲しい。しつこいが、ゆっくりゆっくり踏み入れる。
ある時点でダンパーがそっと弦から離れ始める点がある。この瞬間を足でつかむ。ダンパーが弦から離れる瞬間こそペダルがかかり始める点だからである。この点を足のどこでつかむかというと、足の指の付け根よりもう2-3センチ下にある硬い部分。ここが一番微妙なコントロールがし易いため。ここで、ペダルがきき始める地点をすばやく捕らえて、あとはその前後(上下)ほんの少しの間でペダルを踏んだりあげたりする。それがほぼ80%のペダルの使い方。
ピアノの調整によっては、かなり深く踏み込まないとダンパーがあがらないペダルがある。この場合、いくら上っ面のほうでこまめに踏み変えても、無意味ということになる。
もうひとつ、コントロールのために必要なのが、かかと。かかとが浮いてしまっては、コントロールがしづらい。女性の場合、演奏会用の靴にヒールがあるのは当然だけど、あまりヒールが高いもの、あるいはかかとが異常に細く滑りやすい靴はペダルのコントロールの妨げになるので注意してほしい。かかとが”支点”として、軸になっている必要があるためである。
これらのことは、わかっている人が多いと思うが、音の多いところ、難しいところ、盛り上がったところなどになると、意外とペダルへの意識が薄くなり、”踏む” “はずす”というOnかOffかになってしまう。また意外に多いのが、緊張などで、ペダルの戻りにまで意識が行かず、乱暴にはずしてしまい、ペダルが激しく戻るときのかなり大きな雑音を生んでしまっているケース。せっかく指で美しい音を作り出してもペダルのせいで騒音になってしまうのである。
美しい音質の邪魔になる騒音が3つある。
1) ペダル(とくに乱暴に戻すとき)
2) 鍵盤に指があたる音(高いところから打鍵するため)
3) 鍵盤の底に指が当たる音 (必要以上にあたるため)
この3つを避けなければいけない。
ペダルは何のために踏むのか。
それは
“色”のため。
音を伸ばすためでも、弾けていないところを隠すためでもなく、
ペダルをつけるからこそできる”色”がある。その意識で使ってみて欲しい。
ある日、出先から私のだんなさま(以下D)が私に電話をしてきたときの会話:
D :あのね、○○さんに、日本からのお土産をもらったよ!
私:ほんとー!! 嬉しいね。○○さんって、確か以前、2回もおいしい佃煮をくれた子だよね。今回も佃煮をいただいたの?
D:ううん、違う。えーと、えーと、えーと・・・あれ、日本語でなんていうんだっけ?
あ、ひややっこだ!! (^^)v
私:ん??ひややっこ? ひややっこってお豆腐だよ? (゜.゜)
(心の叫び1)….なんか違うきっと…. (-o-)
D:あ、じゃあ違う、お豆腐じゃないや。ほら、何だっけ・・・チキンの・・・
私:え?チキン??ひややっこじゃなくて、チキン? (++) (心の叫び2:Dよ、おぬしは何を言いたいのか・・・)
D:ほら、小さいチキンがいっぱいあるさぁ・・
——–この時点で私の頭の中にはもう、佃煮と、ひややっこ、そして小さなチキンたちがぴよぴよと飛び交っており、すっかり
へ?(・_・)
という状態であった。
さらにDいわく:
D:ほら、日本のお菓子だよ、和菓子!
私:ひえー ∑( ̄□ ̄ || 〒 || (わたくし、ここでほぼ壊滅状態)
……チ、チキンの和菓子なんてあっただろうか・・・・(頭の中には、うなぎパイが飛んだが)
(- -) (- -) (- -) (- -) (- -) (- -) (- -) (- -) シーーーン
私:!!!!あ!!!!!
それ、ひよこでしょ!! ヾ(・◇・)ノ ピヨピヨ
D:o(*^▽^*)o そうそう!それそれ!!!ひよこひよこ!!あーよかった♪ ふぅ~ ε~( ̄、 ̄;)ゞフー
私:(心の叫び3:いや、ふぅじゃなくて・・・それよりこの流れで、ひよこと分かった自分に拍手~~~みたいな。(-_-#)
私の頭の中は:小さいチキン→小さい鳥→ひよこ
という具合でありました。
でも、ひよこと分かってみれば、最初の<ひややっこ>は確かに遠くないのか・・・。と、思わず納得。日本人同士ではありえない連想ゲームとなったのでした。あっぱれ外人よ・・
ピアノを弾くこと=鍵盤をおろすこと
ではない。
ペダルをつかう=ペダルを踏み込む
ことでもない。
どうしても、弾く、踏む、という“Give”的な方向にばかり意識がいってしまうことが多い。でも、“踏む” なり “弾く”なりしたものの“後始末”をすることがいかに大切かと言うことを忘れてしまう。
考えてみれば、
部屋の片付けでもそう:出したらしまう。
会話でも:話し手にも聞き手にもなる
そして
恋愛では、7押して3引くんだそうな。(昔、同級生だった 軽~~~いノリの男の子が言っていた。笑)
↑全然参考にならない? (^^♪
いや・・・私が言いたかったのは、鍵盤をおろすことだけに注意を払うのではなく、下がった鍵盤をどう戻すか、ということに意識を持っていることの大切さ。ペダルも同じ。どうあげるか。
鍵盤をおろす。でも、それ以上いくら押しても意味がない。
ある公開レッスンで、
―音を歌わせるために、鍵盤の底に着いたら、そのまま指をヴィブラートさせて・・
といって鍵盤の底で指をぷるぷるさせていた人もいたっけ。
だから、何も変わらないってば!
エェー、コホンッ!(;-o-)o” 失礼・・・
そうではなく、鍵盤をおろしたらそれをどう戻すか、ということにも強い意識を持ってほしい。
1本の指で鍵盤をおろす。そしてゆっくりと指を緩めると、鍵盤は自然とあがってくる。(決して指で“あげる”のではない。緩めるとあがって来る。これはすごく大切なこと!!)あがってくるスピードを指先で感じることで、そのピアノのアクションの具合が分かる。重いピアノ、軽いピアノ、と一般的に表現されるあの感覚である。たとえば、ゆっくりあがってくるということは、そのピアノは重く感じる。これをいかに瞬時に指先で感じ取ることができるかで、本番など前もって触ることのできない楽器で弾く場合にも、ある程度恐れずに弾くことができる。
大きい音を出したい、だから思いっきり弾く・・のでは、思った音が作り出せない。硬すぎて騒音になるか、がんばった割にはもの足りないなどとなってしまう。
鍵盤の戻りがどれぐらいの速さだから、それに対してこれぐらい・・という“必要な速さ”がある。それを入れる。それが “弾く“ことの基本。闇雲(やみくも)に早く打鍵したり、ピアニッシモにしたいからそっと打鍵しても、ぼこぼこの演奏になってしまうだけ。
また、戻りをコントロールするということは、<音の切れるところ>を自分で作る、ということにもなる。鍵盤を下げて、ゆっくりと戻しながら、ダンパー(弦の上にある白い綿たち)を見てみると良い。鍵盤をゆっくり戻すにつれて、ダンパーが弦の上に降りる。降りた瞬間に音が切れる。これも自分で”作り出し”ていなければいけない。ピアノは音が“出る”のでも”切れる”のでもなく、演奏者自身の手で、音を”作り”、”切る”のである。
<鍵盤の戻りを感じ、必要とされている速さと量を必要なタイミングで入れる。>
そのために、指先(指の腹の部分)の鋭敏な感覚を育てることと、鍵盤との絶え間ない接触が必要となる。
鍵盤との絶え間ない接触・・・難しい響きだけど、要するに
近くから弾く
この言葉ならよく耳にしていると思う。近くから弾くように、といわれるわけは、これで少し分かってもらえただろうか。
ペダルもまったく同じ原理。Give and Take!
これについては次回のブログで書いてみよう。
手をじっと見つめると、“あなた、生えてくるところ間違えたんじゃない?”とつぶやきたくなってしまうのが親指。この指だけが、なぜか手のかなり下のほうから生えている。
足の指なんて5本ともそろっているのに・・・笑
こんなに短く、しかも引っ込んだところから出ているのに、遠慮がちかと思いきや、この親指こそが、私たちの演奏に大きく左右する主なのである。
親指の使い方に関しては、いろいろ既に先生たちから言われていると思うので、私は、他の視点から書こうと思う。
手首が高い、と言われたことはないだろうか。私の生徒たちで最近よく見る問題の1つが、手首が高く、手の甲がつぶれている形の弾き方。もちろん、形から入ることが大切なわけではないので、最終的に思うような音が出せるのならこだわらなくていいとは思うのだけど、大半の場合は、そのせいで演奏の妨げになってしまっている。
―手の甲を山型にして、手首を下げてね。
こう伝えたところで当然直るものではない。私も昔、手首がかなり高く、下げようとすると、どうしても不自然になって苦労した。鏡を横に置いて、外見からは良さそうなポジションにしてみても、体の感覚としては、どうも不自然に感じられる。これでは外見から直しても無理だと思い、何が原因で手首が上がってしまうのか、“犯人”を探すことにした。
そして、長い道のりを経て見つけたのが親指。この指が木の棒のようになってしまっていたのだ。つまり、親指がまっすぐ受身で“待っている”状態になり、腕から押すことで、手が鍵盤に近づき、指が鍵盤を押すので音が鳴る、という具合になってしまっていた。
こうなると、どういうことになるかというと・・・
親指が受身になる→親指と小指を結ぶ手のひら側のラインの支えがなくなる→手のひらを支える橋がなくなり手の甲がつぶれてしまう。
実際は親指が腕で押されて弾くのではなく、指自身で弾く必要がある。親指を他の指と同様、付け根(親指の場合は手首のところ)から使おうとすると、手首が自然と降りてくる。手首が高いと、”突く”しかない状態なのだ。それが分かって、親指への意識をかなり高めて練習しているうちに、不思議と手首が降りてきた。<下げる>のではなく、<降りてきた>。だからとても自然に感じられる。こうなることで、親指と小指を結ぶ線の手のひら側の支え(これが本当に大事!橋の橋脚のような役割になるため)ができ、手の甲も支えられると言うわけ。
手首を下げようとするのではなく、なぜあがってしまうのかを考える。
いつだったかのブログに書いた、“犯人探し”は、ここでも役に立ったと言うわけだ。
むむむ、親指め。あなどれない・・・
乗り物に乗ると、しなくて良い体験をたくさんする運命になっている私・・・・。先日またもう1つ増えた。なんでこうなるのだろうか・・・(>_<)
これまでも、なんでこうなるの?ということが山のようにあった。
それは数年前。ベルリンからパリへの直行便に乗っていたときのこと。飛行の途中でアナウンスが・・・
―テクニカルプロブレムが発生しました。ここから一番近いフランクフルト空港に緊急着陸いたします。
私:へ???フランクフルトって・・・。あのぉ、パリに行きたいんですが、私----
テクニカルプロブレムって・・・もしかして危険??? 汗
あら、え???
となっている私を尻目に、飛行機は着実にフランクフルトへ。
飛行機が空港に着陸し、ゆっくりと滑走路を走っていく。と飛行機の中がざわざわ。。。あれ?あれ?消防車?え??
なんと、私たちの飛行機の両方の翼の後ろから、消防車が10台ぐらいついてくるではないですか。えーーーー?燃えてるの???と、言葉の分からなかった私はあたふたあたふた。
実際は、テクニカルプロブレムではなく、エンジンから出火しているというアラームがなっていたらしい。∑( ̄□ ̄ || 〒 ||
パニックを防ぐためにテクニカルプロブレムということで、アナウンスを流していたとか。
そして3時間フランクフルトで飛行機の中に閉じ込められた結果、ふたたびアナウンス。
―検査の結果、火は出ていませんでした。
よかったぁーと、ほっと一息・・・
なんてする間もなく!!!!飛行機が飛び立つではないですか。えーーーーこの飛行機でまたパリまで飛ぶの???おろしてくれーぇぇぇぇぇ、、、、
ま、無事に着きましたけど。苦笑
こんな経験を筆頭に、そのほか、私の乗りたい飛行機が、キャンセル、ストライキ、荷物が出てこない・・・そんな経験は、もうあったりまえ。<(`^´)>エッヘン ←威張るか・・
ベルリンに着陸直前のアナウンスで、<大雪のため空港閉鎖になりましたので、他の空港に着陸します>なんてのもあったっけ。遠いベルリンのはずれの空港に降ろされましたよ、夜中に。しかも元旦・・泣
ほかには、ベルリンの空港でチェックインしに行ったとき、
―あなたの飛行機はキャンセル。でももうすぐ同じ空港に飛び立つ代行便にのれるかもしれないから、ここから44番ゲートにSuperSchnell(ズーパー シュネル)で走って!!!
といわれた。Super schnell・・・めちゃくちゃ急いでいってくれと言うニュアンス。44番ゲートって、ここから真反対じゃあないですが。(-_-#)
ええ、ええ、走りましたよ、空港を全速力で。
もちろん、まわりからは注目の的・・・
空港を全速力で走っている人なんて、そんなにいないですからねぇ。(-o-)
ゲートに着いたときには、パスポートを無言で差し出すのが精一杯。ぜーぜーはーはー。すごい息切れ。何でここまでして飛ぶのか、私。
またあるとき、飛行機に乗って、ベルリンからパリに飛んだときのこと。
その時は、ともだちと一緒に乗って、ひとしきり話をしてお互い疲れ、離陸前に夢の中へ。パリまでは1時間40分の飛行。1時間半ほど過ぎて目が覚めてみると、窓の外は見慣れた景色・・・
・・・・飛んでないじゃん、まだ・・・ (-o-)
・
なんてこともありましたねぇ。
飛行機だけではなく、電車でも。父が日本から旅行に来ていたので、ドイツのヴュルツブルグに連れて行ったとき。帰りのベルリン方面電車をまっていたら、待てどくらせどこない・・・
父にも、“私と乗り物に乗るとなんかあるからねー”と冗談半分で言っておいたら、ほんとに電車来ないし・・・
・・・そして、アナウンス。
―線路が猛暑による火事のため、電車が遅れます・・
線路が火事って???そんなことあっていいのか・・・自然発火・・・。
バスに乗ったときは、私が乗った次の停留所でドアが壊れてしまらなくなり、全員他のバスに乗り換えたりとか。
車に乗ったら、新車なのに故障して、高速道路をレッカー車で運ばれたり。もう・・・きりがない。
そして先日。
パリのシャルルドゴール空港に行った。チェックインカウンターに向かっていくと、目の前に機動隊が立ちはだかり、通してくれない。あぁ、まただ・・何かある・・(-_-#)
・・・そしてアナウンス
―持ち主不明のスーツケースがいくつか見つかりましたので、安全が確認されるまで、進入禁止です。
出た出た。もう何でも来い!←やけくそ・・
というわけで、待たされ待たされ、空港は人ごみの山。そこで生まれた、うちのだんなさまと通りかかりの旅人の会話。
旅人:あら、なんで通れないのかしら?何かあったのですか?
だんな:ええ、爆弾さわぎらしくて、この先進めないんですよ。
旅人:(笑顔で)あら、爆弾。じゃあ仕方ないわね。
・ ・・あら爆弾って・・・
全然驚いてないじゃぁないですか。(-_-#)
すごい時代になったものですねー。
爆弾があるらしいですよー、 あらそうですかーみたいな会話が普通に成立してるし・・・。
今日雨らしいわよー、あらやだー・・・的な会話でしょ、これ。
爆弾っすよ爆弾!!
しかも、1時間以上待たされて突然、
“バン!!!!!!!!”
という大きな音。うぉぉぉ、爆発だ!!と驚きうろたえたのは、私とそこにいた犬だけで、
人だかりの山は、なんと 拍手!!!
なんでだ・・・汗
あやしいスーツケースを機動隊が爆破したらしい。
それにしても、いろんな経験の おかげ?で、並大抵のことではうろたえなくなってきた。こういうのって、考え方によれば、貴重な体験?!
<おまけ>私のだんなさまの体験:
パリから日本に飛び立ったのはいいけど、前輪がうまく収納されず、離陸後すぐにパリの空港に引き返すことに。数時間後、修理が終わり、さあもう一度日本へ向けて離陸と言うとき、アナウンス・・・
―イラク戦争が始まりましたため、飛行をとりやめますー
すごい経験だな、これも・・・
歩く。どうやって歩いている? そんなこと考えたことなかった。
右足が地面をつかみ、左足が前に出て、その足が地面をつかんだ時点でさっきの右足が地面から離れる。
簡単なようで、とても複雑なことを、実はなんにも考えずに普段からしている私たちってすごい!
でもこれって、ピアノのレガートとまったく同じなんです。
前回のブログではなした 五つの音のレガート。”言葉“と比較することでレガートと言う感覚を説明したが、今日は ”歩くこと“を考えることで、実際に指で行っていることを説明してみたい。
歩くこと・・・上記に書いたように、歩くとき、私たちは右足と左足の見事な受け渡しで、前へ前へ円を描くように足を次々と出していく。反対に“すり足”で歩くことをイメージしたら”円を描くよう“という表現は分かってもらえると思う。
ところがピアノになると、レガートを弾きたいと思うがゆえに、1つの音を弾くと、その指を爪が白くなるぐらい鍵盤にしっかり押して、次の指が来るまでしがみついているというのをよく見かける。
でも、足の場合を考えてみる。歩くとき、地面を捉えた足は、そのまま地面にしがみついてはいない。足が地面と接触して、離れないだけで、ふんばってはいない。足の指も、がんばってはいない。ただ、その足には自然な体の重さが乗っているので、足をぐにゃぐにゃにすると倒れてしまう。だから倒れない程度に、足の裏が地面を感じて支えている。
指もまったく同じ。弾いたら次の足である“指”が来るまで、鍵盤とのコンタクトを保っていればいいだけ。しがみつく必要はなく、自然な重さを今弾いている指の腹にのせて、指が崩れないように鍵盤を感じながら支えていれば十分だ。
歩くことに戻ってみよう。次の足が来る。次の足が地面を捉えた瞬間、前の足は地面から離れている。離れているだけでなく、離れたと同時に次の一歩へむけてもう準備に入っている。
ここでも指はまったく同じことをする必要がある。ところがある音を弾いてから、次の音の準備に入ってしまう人がとてもが多い。つまり、ある音を弾いてから、その次の指の準備をする。そうすると、ジェスチャーがひとつ余計に入ることになり、ギクシャクしてしまう。
分かりやすいように、たとえば右手の2,3,4の指で順番にレミファとレガートで弾くとする。
2の指(レ)を弾いたと<同時に>、既に3の指の準備ができている必要がある。レを弾いてから、よいしょと3の指をあげていては遅い。2の指を弾いたと<同時に>3の指を上げる。確認してみてほしい。これって以外とできていないもの。
その次、3の指でミを弾くときが大事。ミを弾いた<瞬間>にしていなければならないことが3つある。
1)2の指を即座に緩める。
2)今弾いた3の指を、打鍵したと同時に緩める。この際、指の腹はと鍵盤とのコンタクトを感じているだけで、必要以上に押し付けない。
3)4の指(ファ)を準備する。
繰り返しになるが、これらが、ミを弾いた“瞬間”に、一度に<全部!!>できていないといけない。
1)ができていないと、歩くときに、次の足がもう地面についているのに、前の足もまだ引きずっていることになる。
2)ができていないと、いちいち地面に足を貼り付けて、ふんばりながら歩いていることになる。
そして
3)ができていないと、転んでしまう。
歩くことに例えると、簡単にイメージできると思う。歩くときと同様、前の足(指)から次の足(指)への受け渡しを、決して動きをとめることなく、円を描くように円滑に続けなければいけない。
そしてもうひとつ。歩くとき、次の足が地面に着く<直前>まで、その前の足に重心がまだ乗っているのはわかるだろうか。指でも同じ。次の指を準備はするものの、弾く瞬間までその前の指に重心を乗せている。そして、少しずつ次の指に移すのではなく、“一度”に移す。そうでないと、はっきりと次の音が発音されず、もやもやと口の中で言葉を話しているのと同じことになってしまう。
ここまで、2回にわたってレガートについて説明してみた。こうやって文章にするととてもややこしく感じられるかもしれない。でも家で歩いてみて、どうやって足を運んでいるか是非自分で見てほしい。完璧な足のレガートを。
歩くこと、話すこと。日常生活を見れば、レガートは誰もが自然にできていること。レガート教えてくれる先生は、ほかでもない、自分の体にあるのです!
レガート・・・これは、私たちにとって永遠の課題だ。
レガートができない生徒が本当に多く、これをどうやって伝えたら一番分かりやすいか、長年頭を悩ませているというのが本音。まだ模索の途中ではあるが、今の時点で一番しっくりくる方法で説明してみよう。
レガートとは何か。ちょっとピアノを離れてみよう。日常生活に目を向けたとき、”完璧な“レガートと言えることを私たちは、なんてことなく誰もがおこなっている。それは
1) 言葉を話すこと
そして
2) 歩くこと。
今日はまず ”言葉“の例で、レガートととはどういうことかを説明してみよう。
<こんにちは>と発音してみる。これは完璧なレガート。みごとになめらかにつながっている。でも、なめらかにつなげているのに、こ、ん、に、ち、は という五つのことばは1つずつきちんと発音している。
そして、1つずつきちんと発音しているが、決して<棒読み>ではない。言葉がなめらかな<曲線>を描いているのは自然と分かるだろう。
ピアノでも同じこと。ドレミファソでレガートをするとしよう。
“滑らかにつなぐために、前の音を少し残して次の音を弾く”
という人がいる。
でも、そんなことは、言葉ではしていない。<こ>と<ん>や<ん>と<に>を一緒になんて言っていない(いえない・・・笑)のに、見事なレガートになっている。つまり第1にレガートの基本は
<一つずつの音をきちんと発音する>
滑らかにしたいために、ふにゃっとした音を出したり、次の音を重ねて弾いていても、きれいなレガートになるわけではない。言葉と同じで、一つ一つをはっきり発音しないと、何を言っているかわからない。
次に、<こんにちは>をまず、棒読みで発音してみて、それから正しく発音してみると分かると思うが、ほんの少しではあるが“にち”あたりに向かっていて、”は“で閉じている。つまり第2のポイントは
<決して五つの音を ”平ら“には発音していない。>
音と音を結ぶ線が<曲線>を描かなければいけない。五つ平等につなげばいいというわけではなく、そうすると言葉で言う“棒読み”と同じ結果になってしまう。
そして、もうひとつ、とても大切なポイント。
<こんにちは>に戻ってみると:
“こ”と発音した後、次の“ん”を発音するまで“こ”を責任もって発音していることに意識をしてみてほしい。“ん”が来るぎりぎりまで、“こ”といい続けている。同じように“に”というまで “ん”を発音している。かならず次の音が来るまで、前の言葉を発音し続けている。ここで第3のポイント
<発音した音を次の音が来るまで聴き、運び続ける>
ここで問題になるのが、ピアノという楽器。弦楽器や、管楽器、歌であれば、息や弓を使って次の音まで運び続けることができる。でもピアノは一度出した音は、だんだん小さくなっていく。
そこで ”耳“の出番!!!
出した音を耳で追って、消えていくその音に段差がつかないように次の音をおいていく。段差がなければいいのだから、必ずしもその前の消えていく音より小さい音を弾く必要はない。大きめの音を重ねることだって当然できる。大事なことは、
―音と音を結ぶ線が、曲線を描くこと。
次の音をいくら気をつけても、耳が今出ている音から離れてしまった時点で、決してつながらない。前回のブログのように、”一つ前の音が鍵”というのがここでも言える。耳の意識が前の音から離れてしまうと、
こっんっにっちっはっ
と、とぎれとぎれに言っているようになってしまうか、こ”ん”にちは。や、こん”に”ちは といったように、へんなイントネーションの言葉になってしまう。
レガートという“感覚”を言葉に置き換えてみることで、少しは身近に感じられるのではないかな。部屋にこもって“こんにちは”と何回かつぶやいてみてほしい。きれいなレガートでしょう!
次回のブログで続けて、今度は ”歩くこと“を通して,レガートを実現するテクニックを説明してみたい。
あけましておめでとうございます!
ベルリンでの新年は、除夜の鐘で迎える静かな日本とは真反対の、爆竹の嵐。
外は戦場と化す。
でもこの爆竹が、やってみると面白い。もう10年近く前だけど友達と爆竹に参加してみた。手元の花火に火をつけては、道に投げる。
周りのひとたちも負けじと投げ返す。これを体験した人の中では、“怖い”派と“やめられない”派に分かれるらしい。私は、“やめられない”派だった。笑
今年は、どんな年になるかな。やりたいことがたくさんある。ひとつひとつこなしていけたらいいな。
こんなに、時間をとってもいいのですか?
これは、硬すぎませんか?
これだと小さすぎるのでは・・・
これ、音色変わってますか?
こういうことを最近よく耳にする。硬い音、大きすぎる音・・これらを恐れることからだんだんと、演奏が小さくなってしまうケースは多い。
“だめ”なことを恐れるがゆえ、無難になる・・・これは一番避けてほしい演奏の一つ。
こんなケースに私が言うこと:
<だめ>なことを試してみればいいじゃん!
固すぎる音を避ける前に、”硬い”音を出してみる。そこから、硬くならない限界ぎりぎりのところまで戻ってこればいい。小さすぎるピアニッシモ。小さすぎる音を出してみない限り、その限界はわからない。
スフォルツァアンドやアクセントが自然かどうか。
―もし、ここにスフォルツァンドなどがなかったとしたら、どうやって弾くか。
1度 ゛なし゛で弾いてみれば、意外と簡単に見つかるんじゃないかな。
少し難しいことになるが、和声が意外な展開をする場合。当然そこで色を変化をさせたい。
その場合にも、まず和声が変化しなかった場合の、普通の和声進行で弾いてみる。
たとえば、 ドミソ→ソシレ→ミ♭ラ♭ド という和音進行があったとしたら、
ミ♭ラ♭ドで突然ハ長調ではなくなりますよね。そこで色を変えたい。
まずは、これが”普通“だったら、どうなるかを弾いてみる。つまり ドミソ→ソシレ→ミソド。そしたらおのずと、どういう色をミ♭ラ♭ドに付けたいか、すこしは見えてくるのではないだろうか。
<だめ>を試す。それがないと、知らず知らずのうちに演奏が
“安全圏”に収まってしまう。あるいは、“先生”に判断してもらわない限り、
自然なのかどうか、硬いのかどうか、判断がきかなくなってしまう。
<だめ>を試すことで、自分の演奏できる“空間”が、思っていたよりもずっと広く感じられるのではないかな。知らないうちに、”安全”という窮屈な思いをしていないかな。
音楽が持つ空間は、魚が泳げる海の範囲のようなもの。自由に泳げるように空間を大きく大きく絶えず保っていてほしい。水槽の中は、守られているかもしれないけれど・・・。
日常、遭遇したこと、思ったこと・・・を飾らず気ままに書いて行きたいと思います。