生きた音楽とは (4)

そして、もうひとつ大事なのがハーモニー。ハ長調だと思ってたら急に違う音が入って、それをきっかけにホ短調になったとする。これも、まっすぐ進むと思っている音楽が、向きを変えて右の方にいったようなものだから、音楽に変化が与えられることになる。ハーモニーの変化を追って音楽を見ることは、音楽を組み立てる上での大きなヒントであり音楽に命を吹き込むうえで不可欠なことである。
また、長い音がある時や休符など、耳を澄ますようにして聴くと、これもまたなんとも言えない緊張を作り出す。なぜかというと、人間が耳を澄まして聴くときは、ほかの周りの雑音をできるだけ除外するように聴くだろう。犬だって耳を澄ます時、それまでへぇへぇ言っていた舌をすっと引っ込めて、瞬間的に口を閉じて耳を澄ます。(少なくともうちの犬はそうでした。笑)つまり、弾き手がその音や休符に全神経を注ぐことで、聴衆もその瞬間その音へ集中するからだ。
挙げてみたらキリがない。まだまだ沢山の宝物が楽譜に潜んでいるに違いない。それらすべてを見逃さず、音楽の生命、表情の一員にできたら、どんなに素晴らしいだろう。
(続く)
私のサイトFromBerlinへは
こちらから。http://www.rikakomurata.com

生きた音楽とは (3)

ペダルも忘れてはいけない。ペダルの深さや長さの加減でも、音楽に表情をつける大きな役割になるだろう。ペダルには、本当にたくさんの踏み方がある。ところでペダルの役割は何だろう?
その一つは、色を作ること。
音を残すためだけではない。音に艶や色、響き・・・など表情をつけるためにペダルは存在するのだ。演奏家の持つ音楽の色、つまり音色が多いか少ないかという印象は、指で作る音だけではなく、自分の足でどれだけ<様々な深さ><様々な種類>のペダルを作れるかにも大きく影響してくるのだ。
自分に音色が少ないと感じている人。ペダルという可能性があることを忘れていないだろうか。そして、ペダルも、真ん中のペダルはまれだとしても、弱音ペダルと普通のペダル、少なくとも2種類ある。この多彩な深さの組み合わせで、実は本当に何色もの色ができることを決して忘れないでほしい。ついでに加えておくと、弱音ペダルは何のため?
これも、色のため。
つやを曇らせたり、柔らかくしたり、大きな音でも、鈍いフォルテが欲しかったりしたら、もちろん使って良い。
ピアニッシモという表示をみたら、つまり、弱くするために使う・・・これだけは絶対に避けてほしい。
(続く)

生きた音楽とは (2)

では、音楽に緊張(変化)を与えるにはどのような方法があるだろうか。
緊張というのは、絶え間ない脈の歩みに、予想外のことが起きると感じられる。
(もちろん、弾いている本人に予想外なことが起きたらだめなので(笑)予想外のことが起きたように聴かせるわけだけど。)
聴き手にとって予想外のことを起こすために、音楽の中にある様々な要素を見逃さず、使っていかなければいけない。
たとえば、Subito Forte、Subito Pianoなどの突然の強弱の変化、あるいはスフォルツァンドやアクセント…これらは思わぬところに強調される音が来ることで、脈に変化が起こる。なにか驚いた時に、脈が一瞬速くなるようなものと言っても良いかもしれない。そう考えると、必要以上の不自然なスフォルツァンドは、驚きすぎて心臓が止まってしまうように、音楽を止めてしまうというのもわかるだろう。
休符はどうだろう。まず、休符は<お休み>ではない。私は生徒に休符も音符の一つだと思ってほしいと、いつも口を酸っぱくして言っている。休符には音楽にふと沈黙を作るだけでなく、
<呼吸>
という、音楽が生きる上で欠かせない役割を果たしているからだ。
文章を息継ぎをせずに読まれたら、聞いている方だって苦しい。音楽も同じ、句読点や、息継ぎが必要なのだ。その息も、落ち着いている時の吸い方と、興奮しているときの吸い方、溜息、驚いた時の息使い・・・それぞれ全然ちがうのがわかるだろう。休符にも、人間の息と同じだけの表情があるはずだ。
この通り、休符でも、それまでの脈や表情にさまざまな変化を与えることができる。
他には何があるだろうか。次回また考えてみたい。
(続く)
私のサイト From BERLINへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

生きた音楽とは  (1)

私たち演奏家の役割は、紙の上にある音符に命を吹き込むことだ。
命のあるもの、つまり、
<音楽が生きる>
ということは、どういうことだろう。
生きているものは、呼吸をする。動物でも、植物でも皆そうだろう。
音楽が呼吸をしない限り、音を並べても音楽は死んでしまう。
音楽が呼吸をするために必要な要素の一つは、緊張の伸縮だ。そのことについて数回にわたって書いてみたい。
音楽には、まず何よりも、動物や植物のように、決して途切れることのない
<脈の歩み>
がなければいけない。その脈の中に、緊張と弛緩がおりまざることで、音楽が呼吸をしていく。
緊張がずっと同じ状態の音楽は、なにも特別な出来事が起きず続いていくドラマや映画を見ていることを想像すれば、退屈してしまうことは、容易にわかるだろう。つまり、緊張とは、
何かの<変化>が起こること
で生まれるのだ。
(続く)
私のサイトFrom Berlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

ちゃんと呼んでくれぇー

確かにねぇ、ドイツ人にとって日本人の名前はなじみではないとは思う。でも、それにしても、私の友人たちも含めて、本当に良く間違えられる。
これまでも、例えばこんなことがあった。
演奏会のプログラムで 私の名前がRikako MORATA と印刷されていたので、
(それにしても <もらた> なんて、なんとも美しくない間違え方である。)
― Morataのところ、OではなくてUです。
と伝えた結果、次の演奏会では
RIKAKU  MORATAとなっていた。 RIKAKUって・・・そっちのO
をUにかえてどうする、(;`O´)oコラー!
この主催者の演奏会は、毎年弾いているのだが、訂正する場所をいつも間違った挙句、ずっとリカクだったり、モラタだったり、モラトだったりと変遷をたどったのである。正しく表記してもらえるまで3年以上かかった。
その他にも、書けばきりがないほど、たくさんある。
そして今日、ベルリンに書留郵便が届いたときのこと。
配達の女性が、
ハイ、マルタさん、あなたに郵便よ。
と、のたまう。
まるた?? 丸太??? それはいやだぁ。((+_+))
ま、うちのDも、相当いろんな呼び方をされている。
<でぼじょん> などと言われる場合もあり、もう誰なのかさっぱりわからない始末である。
私のサイトFromBerlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

へえぇ (・o・)

フランスでは、演奏会の直前の人にエールを送る言葉として、
メルドゥ
と言う習慣がある。がんばってね、とか幸運を祈るね、の意味合いで使うのだけど、おまじないに近い言葉。で、言われたほうは、”ありがとう“と言ってはいけないという話も聞いたことがある。ありがとうと言ってしまうと、効果が薄れるとか。
この<メルドゥ>という言葉は、実は非常に美しくない言葉で、本来の意味は
なんと、
糞(クソ) 
である。書くのも恥ずかしい・・・(* v v)。 ハズカシ
なんでこんな言葉がエールになったんだろうとずっと疑問だった。もちろんDに聞いたところ
知らない (◎-◎)
と言われただけだった。そんなある日、Dの友人から面白い話を聞いた。
その昔、パリの街でまだ車もなく、馬や馬車で移動していた時代。馬さまは、周りに遠慮もなく、道にぽたぽたと、フンを落として歩いていた。馬の数が多かっただろうから、当時のパリは相当汚かったに違いない。
演奏会や、オペラ、演劇など催しがある時は、たくさんの人出があると、当然会場の前に馬が集まるから、フンがたっくさん会場前に落ちていることになる。
つまり、フンがたくさんあるということは、お客さんが大勢来たということでおめでたいわけだ。
そういうところから、たくさんのお客さんが集まる→成功という意味で、
成功を祈るね、という代わりに、
メルドゥ
という様になったらしい。
ほぉ(・o・)
とすっごく納得した。でも、先日の演奏会の前にやはり
とっても大きなメルドゥを送るわ♪
といわれた時、やはりどうしても清潔感を感じられないのは私だけだろうか・・。
私のサイトFrom Berlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

メシアン万歳

やっぱり連れて行かれた・・・。メシアンの世界。
これをどう表現すればよいのか、言葉にすることをためらってしまうぐらいだ。
11月30日に東京文化会館でPascal DEVOYONと共に演奏させていただくメシアンのアーメンの幻影。
全47分という超大曲なのであるが、これはまれに見る傑作だと確信している。
これまで2回演奏させていただく機会があった。その度に、メシアンが演奏者、そして聴
衆両方を彼の世界にすーっと連れて行ってくれる。本当に信じられない効果だ。そして今回3回目となるオランダで演奏させていただいた。今回もやはり、終わった後の弾き手、聴き手の充実感といったら、何にも代えがたいものである。
メシアン・・・と聞くと、これまで私の中で”現代作曲家”=よくわからない
という先入観があった。でも、この作品に接して初めて、本物の<芸術>というものの魅力を再認識させられた。
音楽に詳しくても、そうでなくても良い。メシアンが連れて行ってくれるから、何も構え
る必要もない。ただ、どーんとホールに座って聴いてほしい。
大曲であり、なかなか演奏機会のないこの作品は、この2008年のメシアンイヤーが過ぎる
とまた演奏機会が少なくなってしまうであろう。そういう意味でも、この3月にCDを録音できたことは本当に喜びである。本当に幸せ者だ、私は。
この機会に、是非是非是非、だまされたと思って私たちの演奏会に足を運んでほしい。メシアンは決して裏切らず、ひとりひとりの心をつかんでくれると確信している。
ご連絡は東京文化会館チケットサービスまで。
電話03-5815-5452

ミニ理夏子時代(2) 恐怖の自動ドア

私は非常に早口である。キッパリ(。・_・。)ノ
ゆっくり話そうと思っても、頭の中に話したいことがたくさん渦巻いていて、
全部いっぺんに話そうとするためか、結局速くなってしまう。
この習慣は、当然ながら小さいころからのものであり、ミニ理夏子はとてもせっかちで、おっちょこちょいなのでありました。
母とケーキ屋さんに行った時のこと。ケーキを買ってもらって大満足なミニRは、とにかく早く家に帰って食べたいとあせっていた。(・_・;)
そして、ケーキを手にするなり、くるりと向きを変え、全速力でお店から出ようとした瞬間、
バッコン ドカン!
と、いう音とともに、ミニRは跳ね返されて倒れたのでした。
(-゛-メ) ヒクヒク
そう、タイトルからもわかるように、そのお店には、自動ドアがあり、ミニRは
全速力で走った結果、自動ドアが開くよりも早く飛び出そうとし、(どんだけあわててる?)
激突したのでした。
そして、数週間後。またケーキ屋さんへ戻った時のこと。ミニRの脳みそもミニなため、当然ながら、以前の失敗は学習されていない。ケーキをもった瞬間、母がうしろから、
‐りかちゃん、気をつけ・・・・・
と言おうとしたが、時すでに遅し、またミニRは、ピクピクと倒れていたのでありました。
いやぁ、まあ、このお店で何回同じことを繰り返したことか。本当にあほである。
しかーし、このアホは、ミニR専属のものではなく、私の見解によると、家系とみられる。うちのパパは、あるファミリ―レストランのショーケースに飾られていた 大きなカニをみて、
おー、これすごいなぁ!
と覗き込もうとし、
ガンッ!!!
と、それはそれはこっぴどくショーケースのガラスにおでこを激突したのでした。
我が家の防音室の窓ガラスも、先日見た時おでこのあとがついていた。間違いなく、パパが激突したものと解釈している。遺伝だな、これは。
私のサイトFromBerlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

周りを大切に

たとえば、楽譜にフォルテがあって、その少し後に、フォルティッシモ、更には fffが続く場所があったとする。
―クライマックスのfffとその前のffにあんまり差がないね・・・。
とアドヴァイスしてみると、99%の生徒は、fffをもう一段階出そうとこれでもかと頑張ってみる。可哀そうに、ピアノさん。もう出ないよぉ、と苦しそうな音になっている。で、生徒の方は、
―先生、このピアノ鳴らないですね。 
と、のたまう。
または、スフォルツァンド。
―もう少しスフォルツァンドらしく、その音がはっきりと際立つようにできると良いね。
とのアドヴァイスには、エイっとその音を鋭く打鍵してみてくれるけど、どうしても硬くなったり大き過ぎたりして、やっぱり首をかしげている。
もうひとつ。
―ここから、生き生きと動き出す感じがもっと欲しいな。
とアドヴァイスしてもると、さらに生き生きと体を動かして演奏したり、テンポが知らないうちに速くなったりしてしまう。
何が間違ってる??
上の例を良くみてみると、すべて
-fffをff ”より”も大きく聴こえさせたい
-スフォルツァンドが、”他の音より”ぽんと目立っていたい。
-ここから”今までより”生き生きさせたい。
と、○○より大きく
など、他と<比較>しての効果だ。つまり、前後を<比べて>始めて現れる効果なわけだから、その音だけ頑張っていても仕方がない。ちょっとピアノから離れた例を挙げてみよう。
たとえば、紙に描いた絵。その中にある“花”一輪を目立たせたいとする。その場合、どんな色にする?と聞いてみると、
赤く塗る!!
と返事がきた。 でも、ほんと?
良く考えてみて。画用紙が、赤かもしれないよね?
あるいは、別の例を見てみよう。
人がたくさんいるところで、目立つためにはどうする? ジャンプしながら手を振る?
でも、周りみんなが同じことしてたら?
さらに、もう一つ。
演奏会で、演奏が始まる直前に、お客さんがホールに入って来て座ったら、すっごく目立ってしまう。でも、コンサートの休憩中に入って来て座っても何も目立たない。
どうして?
それは、演奏が始まる直前の場合、みんなが座ってじっとしているのに、一人だけ動いて入って来るから目立ってしまう。でも休憩のときは、みんな好きに動いたりしゃべったりしてるから入ってきても全然目立たない。
これで何を伝えたいかわかってもらえるだろうか。
あるものを際立たせたい場合、その音をがんばる方法以外に、周りを調整するという方法があるということだ。周りを下げれば、浮き立つかもしれない。直前のキャラクターが静かであれば、ここから生き生き聞こえるかもしれない。
スフォルツァンドがうまく際立っていないなら、その前の音が大きすぎるんじゃないかな。
fffが足りないなら、その前のffが大きすぎるとか。
ここから生き生きして聞こえないのは、その前がすでに生き生きしてしまってるからじゃない??
絵と同じで、いつも一歩さがって前後とのバランスをいつも見るようにしてほしい。
簡単なことのようで、意外とおろそかになっていないかな。
私のサイトFROM BERLINへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

遅すぎなんてない

クールシュヴェール夏期国際講習会で一ヶ月強、生徒さんとともに勉強させていただいた。
そんななか、とても驚いた会話があった。あるフランス人の生徒さんとのレッスンで、
演奏の基本となる根本の話でレッスンをした時のことだ。
-本当に本当に勉強になりました。長いこと、このような根本に返って考え直したレッスンを受けたかったのだけど、実は怖くて、そんな話を先生にできませんでした
と言う。私はものすごく驚いた。
私:怖くて・・・って何が怖かったの?
彼:こんなこと今更聞いたら恥ずかしいし、他の人より遅れをとってると思われてしまうかと思って。
彼は30歳だ。こんな年になって今更基礎をなんて恥ずかしく、先生に遅れているとみなされるのが怖かったという。
ふと、彼の発言で気になった。こんな風に感じている人が他にも実はたくさんいるのではないだろうか。私は、普段のレッスンでもそうだけれど、今回のCourchevelでも、根本に戻ることの大切さをいろんな人に話してきた。
基礎に返ることは、決して遅れることでも、戻ることでもない。むしろ不可欠で、定期的に基礎に戻った確認をしてほしいぐらいだ。基礎ができていなくて、何を表現できるというのだろう。音楽は音がすべて。音ですべてを表現する。その方法があいまいでは、いくら音楽性があると言ったところで、何にもならない。
その子にも、話したことだけれど、ここにも是非ひとこと書いておきたい。
今さら・・・なんてない。基礎を学ぶことに、遅すぎも早すぎもない。
本人が、今基礎を勉強しなければと自覚したときこそがベストタイミングなのだ
ということを。
私のサイトFrom Berlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

日常、遭遇したこと、思ったこと・・・を飾らず気ままに書いて行きたいと思います。