夏の講習会で、今年もたくさんの若い演奏家たちと勉強をさせてもらった。
講習会というのは、普段のベルリンでのレッスンとは少し違う。というのも、講習会や公開レッスンなどは、1回、あるいは数回一緒に時間を過ごすだけで、その後一生会うことのない人もほとんどだと言える。普段にも増して、短い期間で私の思うことを的確に伝え、それを正しい意味で理解をして講習会を後にしてもらうことが私の責任だ。
生徒さんの表情をみながら、与えられた時間の中で同じことをいろんな手段で伝えてみる。言葉を変え、例えを変え、弾いてみたり、質問してみたり・・何かの形でその人の心に響かなければ、表面上直っても、また元に戻ってしまう危険があるから。
最近感じることは、
何かうまくいかない、何かがまずい・・・
とまでは感じている人は多いのだけど、その理由やどうやってこれからそれを解決していくかの手段を、
探している“つもり”
になってしまっている人が多いこと。こういうキャラクターで弾きたいんです。こういう音がほしいな、と思ってるんです。いろいろCDも聴いてみたし・・・。あるいは、ここは何度の和音で、ここは何調になっていて・・・と分析したことを楽譜に書き込む。
それらは、もちろん本当に必要なこと。でも怖いのは、それだけで満足してしまうこと。
理想が知らず知らずと下がってしまうことの恐ろしさだ。
今の時代、ありがたいことに演奏会やコンクールの機会を与えてもらえることが多い。そこから学ぶことは多いと思う。でも同時に、今自分に求められていることにじっくりと向き合って探すという時間をとらず、後回しにしてしまっている人がとても多いのは見ていて苦しい。
それは<時間がない>のではなく、<時間をとろうとしていない>だけのことだということは真摯に受け止めてほしい。
努力に終わりなどないはず。
じっくり、丁寧に・・・。
周りに流されず、自分にとって今必要なことに時間をかける勇気を忘れないでほしいと思う。
積み木を組み立てるのと同じ。最初をしっかりと作ることの大切さがどういうことなのか。一段目が斜めになっていることは気になりながらも、そこから目をそらして長年かけ積み上げた続けた積み木。その行く末を想像すれば、その恐ろしさは簡単にわかるだろう。
そんな思いから日本でもプライベートレッスンシリーズを始めて7年になる。この秋もまた11名からたくさんのことを学ばせてもらうことになっている。
私の人生で出会うことのできる生徒さんの数は限られているけれど、一人でも多くの音楽家の心に、今必要とされていることから目をそらさないことの大切さを伝えたい。
それは音楽に限らず、生きていく上で必要なことだと思うから。
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インテンポとメトロノーム 最終回
つまり、インテンポとは、必要な音楽的効果に基づいて伸縮、緩急を繰り返しながら、歩み続ける脈拍のようなもの。その歩みは、呼吸をする肺のように、伸縮はしても、決してぎくしゃくすることはない。
もう一度繰り返すと、 いかに自然になるか、ということを求めて探すのが一番良いのではないだろうか。
そのために、どんな練習ができるかについて考えてみた。
まず、
●メトロノームを使用する場合。
前回の例で、同じ3秒のなかで、間の取り方によって表情が違う、という話をした。そう、同じ3秒というような、ある程度の“枠(わく)”は音楽で非常に大切だ。枠(わく)を無視して、好きなように時間をとってしまうと、テンポも何もない、ということになる。だから、“IN” テンポ、という表現なのかもしれない。
ただ、その枠を小さくとってしまうと、動きようがない。お経のように次々襲ってくるメトロノームの”カチ””カチ“に追われてしまう。
昔、私は何もわからず、メトロノームを鳴らしっぱなしで練習していた。今考えれば、いろいろなところで音楽的な理由から無意識に多少の時間がかかって当然なのに、メトロノームの合図に何としても納めなければいけないと思っていた。いくらがんばっても、カチカチとまくし立てるメトロノームの出すテンポに収まらず、いらいらして、何度機械を投げ飛ばそうとしたことだろうか・・(#^.^#)
というわけで、メトロノームを投げ飛ばさないためにも(違)、メトロノームを使う場合には、大きなふり幅で音を鳴らすようにすると良いだろう。たとえば、エリーゼのために、などであれば1小節単位などで良いだろう。つまり、一小節に一回”カチ“となる程度。先ほどの3秒の話と同じように、その中をどう使うかは演奏者の自由だ。モーツァルトのソナタなんかを想像しても、1小節1回ぐらい鳴らすので良いだろう。
そういう使い方のメトロノームなら、とても良いと思う。
もう一つ、メトロノームのとても良い使い方は、“比較”をする使い方。きれいなところを一生懸命歌って弾いているうちに、テンポがどんどん遅くなったりすることはよくある。でも人間ってすぐに慣れてしまうので、それに気が付かない。だから、ある部分を練習したら、そこをどれぐらいのメトロノームで弾いているか調べて、曲の冒頭など、どこか違うところに戻ってそのメトロノームを鳴らしてみる。そしてテンポがかけ離れていないか調べるわけだ。
ほら、自分では変わってないつもりでも、いつの間にか太ってたりするでしょう・・メトロノームと同じように、体重計で比較してみて、びっくり・・みたいな。指標があるというのはある程度大切だと思う。(説得力あるのかな、この例って・・・汗)
今度は
●メトロノームなしでの練習方法について。
メトロノームなしでも、脈拍の練習はできると思う。むしろ、もっと自然な練習方法かもしれない。それは、自分で歩きながら歌うこと。歩くことで自然な脈のベースを作り、歌いながら、多少時間をかけたいと感じた個所があれば、その部分で足の歩みを少しだけゆったり目にとるわけだ。でも、決して歩みがぎこちなくなったり、止まってはいけない。また、少し緊迫感を作りたいときは、少し早めに歩き、また先ほどの歩みに戻す。
決して軍隊のように歩くのではなく、ふわ、ふわっと柔軟に踊るように歩きながら、どういう歩みをしたら自分が自然に歌えるか探すわけだ。この方がさらに柔軟なテンポの枠づくりをするのに良いと思う。
インテンポ。たったの5文字ですが、奥が深いですね・・・。
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インテンポとメトロノーム (2)
テンポの話に戻ると、そういうわけで、インテンポだからと言って、メトロノームにあわせて無理にテンポで直進したところで、不自然極まりない。大切なことは
いかに“自然に”響くか
ということ。どんなにうまく作られたロボットでも、やはり本物の人間とは何かが違う。それは不自然だからじゃないのかな。
音楽は言葉と同じで、語っている。生きている。
言葉を話す時のことを考えてみよう。話し方が自然で魅力的なるカギは二つあると思う。
1) イントネーションと
2) 間(ま)
だ。
まずはイントネーション。言葉を話す時、隣り合わせのどんな文字も、決して同じように発音しないだろう。同じように発音した時点で,一気に棒読みになってしまう。逆に強調したいときは、イントネーションを誇張するときがある。
あの人、すぅっっっっごいんだよね!
とかね。笑
そういう激しいイントネーションとなると、周波数のふり幅も大きいわけだし、聴く側も発音する側も、無意識にそれを耳で追う“多少の”時間が必要になる。それが“自然なこと”なのに、無理に時間をかけず同じ調子で行ってしまうと、あわてているように聞こえてしまう。
違う例で説明すると、たとえば、ボールが目の前で心地よく弾んでいるとする。それが突然5メートルぐらいの高さにはずんだら、その動きを追うのに一瞬時間がかかるだろう。人間が目や耳で大きな動きや突然の変化を追うには、それなりの時間がかかるのが当たり前なのだ。
そう考えると、音楽で聴かせたい音やハーモニー、あるいは色などがある時は、大切なことをしゃべる時と同じように、知覚できないほどの<微妙な時間を操る>ことは当然あっていいことだ。メトロノームの問題は、そういった微妙な時間を無視して冷酷に進んでしまうことである。
たとえば、ショパンのソナタ第2番、1楽章。レシッドレシ、と2回続いた後、上に上がるレシ!という部分などまさにそうだろう。メトロノーム的に突っ込んだら、乱暴あるいはヒステリックに聞こえる典型的な例だ。
もう一点は、間(ま)。言葉の話に戻ると、たとえば、すごく長い文章を一気に話したいとき、どうするだろう?そう、話す前に多めの息を吸うだろう。
あるいは、緊張感を帯びた文章をしゃべりたい時はどうすれば良いだろう?たとえば、ひとつひとつの言葉をわざと少し詰めて発音して、その言葉と言葉の“間(ま)”を取る、という方法もある。例を挙げてみよう。
え、そうなの・・?
というセリフがあるとする。
同じ3秒を使ってこの文章を話すとすると、えぇぇぇ、そうなのぉ?というと、なんだか
まったりとするが、<えっ>、と<そうなの>という単語自体をかなり詰めて鋭く発音して、その言葉同士の間の空白を長くとると、同じ3秒の文章でも、まったく違って聞こえるだろう。
えっっっっっっ、 そうなのっっっっっ」! という感じだろうか。
わかるかな?紙面で説明するって難しいですね。(^_^;)
というわけで、イントネーションと間(ま)、そしてタイミングというのは
<音楽が説得力を持つか>
という点で、非常に大切な要素になるわけだ。
(続く)
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イン、テンポとメトロノーム ~第1回~
次回はイン、テンポについてお話しします、なんて書いたのは去年の9月。\(゜ロ\)
それから決して放置していたわけではなく(汗)、自分でテーマを提示しておきながら、難しい議題を出してしまい苦戦しておりました・・。今も苦戦中ですが、今できるなりに説明してみようと思います。
イン、テンポ。これはどういう風に捉えたら良いのだろう。一番危険な間違いは、テンポ通り進まなきゃ、とメトロノームにあわせて練習することだ。
こう想像したら、すぐわかるんじゃないかな? アナウンサーが、原稿をメトロノームに合わせて読んでいるとイメージしてみよう。どうだろう?そう、間違いなく・・
お経
である。(^_^.) チーン
つまり、不自然だ。なぜだろう?それは、機械に作られた時間に基づいているだからじゃないだろうか。音楽は生き物だ。インテンポというのは、その“自然な呼吸”と捉える必要がある。実際は、同じテンポ、つまり同じ脈拍で進んでいる“ように”聴こえればよい。
音楽は多くの場合“幻覚”で成り立っている。どういうことか説明しよう。たとえば、囁く(ささやく)ように弾きたいとする。実際囁くように弾いたら、どうなるだろう?
全然、聴こえません。(^’^)
なので、囁くように聞こえるように、音の質や、その前後との関わり、ぺダリングなど、さまざまなものを用いて、囁いているかのように聴かせているだけだ。
緊張した音楽?いくらおまじないをかけたところで音が緊張するわけがない。緊張、といえば、漢字も示している通りぴーんと“張る”必要がある。休符でも同じ。だから、音なら、音自体を鋭めの打鍵にしたり、あるいは、逆に耳をすまして聴いているかのような緊張を作るために、周りにある音を遠ざけたりという手段だってある。休符なら、その休符に入るタイミングや、突然休符になった感じを作るペダルにするなど、様々だ。
このように、実際囁いているわけでも、緊張しているわけでもなく、あたかも・・・のように聴かせているだけなのである。
(続く)
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意味のある練習をする ~テンポ~
だいぶ前になってしまったけれど、以前2つのことを意外と多くの人がないがしろにしてしまっているのが気になると書いた。そのひとつとして前回指遣いの選び方について書いたので、今日はもうひとつの点について書いてみたい。それはテンポ。テンポ設定と言っても良いかもしれない。
初めて曲を勉強するとき、ついつい音を読み始めたくなるかもしれない。でも作曲家が残したものは音だけではない。テンポを含む表示の数々も大きな宝物なはず。楽語を調べないまま演奏している人も多く、この意味は?と聞くと答えられない事がある。“楽語”というと硬い響きになるけれど、作曲家からの大切なメッセージと思えばどうだろう?決してないがしろにできないはず。それを調べずに音を出す事など絶対にあってはいけないと思う。決して忘れないでほしい。
話が脱線してしまったが、テンポについて。テンポって何だろう?それはいつも書いているように音楽にとっての心臓だ。みんなテンポをどうやって決めているのだろう?CDで聴いた時こんなテンポだったから?・・・それは一番まずい返事の一つだと思う。CDは誰かがそう弾いているだけであって作曲家自身でも何でもない。(もちろん作曲家自身のCDもあるけど)。でも意外と耳にする返事なんだよなぁ。この返事(・・;)
テンポを設定するとはどういうことだろう。それは、最初のテンポを決めるということではない。全体のバランスをみると言う事だ。絵を描く時に画用紙に描く前に大体どういう大きさでここに家を書いて、この辺に山を書くとイメージするだろう。そうじゃないと書いてみてから、あーーー山を書く場所がない、などということになってしまう。
テンポも全く同じ。この曲は途中でテンポが変わる曲なのか。Accel.やrit., meno mosso やpiu mossoもテンポが変わる要素の一つ。どこまで速くするaccelerandoなのか、どこまで遅い必要があるritなのか。 A tempoという表示があるなら、ちゃんとA tempo=元のテンポ、の “元の”テンポと同じになっていなければいけない。ということは元のテンポはどこを指しているのか・・・、そういうものを全てみていくと、大体全体がバランスのとれたテンポの関連が見えてくる。その骨組みが大体みえてから始めて譜読みをするのだ。
もうひとつ大切な事は拍子。たとえば曲の頭にAndanteと書いてあるとする。でもそれは4分の4のAndanteなのか2分の2のAndanteなのかでテンポ感は全く変わってしまう。なぜかわかるかな。
4分の4ということは、心臓の脈になるのは4分音符。でも2分の2は2分音符だ。
たとえば メトロノームで60位だとする。その60が♩=60なのか 二部音符=60なのかで全く速度が違ってくる。
テンポは音楽の柱。でも音楽は呼吸している生き物だから、まっすぐ機械みたいにテンポを刻む事がin tempoではない。in tempoってなんだろう。
メトロノームという機械がある。これはとてもありがたい機械であるが、使い方を間違うととても危険な魔物だ。次回はin tempo、メトロノームの正しい使い方・・・そんな点を考えてみたい。
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意味のある練習をする ~譜読みで注意する事(1)~
最近とても気になる事がある。
“あること”
への意識があまりにも薄いことだ。
意外にもかなり多くの生徒さんに共通しているのだが
それは、
1)指遣いの選び方
と
2)テンポの選び方。
まず指遣いについて書いてみたい。なんだかとても弾きにくそうにしている様子を見て、
私:どういう指遣いにしてるの?
と聞くと、
生徒:え?書いてある通りですけど。(゜o゜)
というあっけらかんとした返事。まるで私がクイズを出して、“答えならここに書いてありますよ?!”という感じだ。
私:書いてある指遣いで弾いてみてどうだった?良かった?
生徒:良かった?って書いてあるのは良くないんですか?
やはり楽譜に書いてある指遣いは、“答え”だと思っているようだ。
私:他にどんな指遣い試してみたの?
生徒:いえ、これしかやっていません。
私:(・・)シーン
このやりとりは、本当に多い。そしてとても深刻な現実問題だと思う・・。
指使いというのは、何か。それは<表現するための手段>だ。このことを忘れてはいけない。絵を描くなら筆や鉛筆、ペン、クレヨン。物を切るならカッターやナイフ、のこぎり、はさみ。何をするにもその時の用途に合わせて都合の良い大きさや部品を選ぶ。
ピアノを弾く時、もちろん“手”が1つの大きな素材になるわけだけど、その手は千差万別。みんな違う。大きさ、柔らかさ、広さ、長さ、厚み・・・すべて全く同じ手などないだろう。同じ人物でも左右だって多少違うかもしれない。
楽譜に書いてある指遣いには二種類ある。1つは作曲家自身が書いたもの、そしてもう一つは出版社や編集段階で関係者の方が加えているもの。
作曲家自身が書いている場合、音楽的にこうしてほしい・・・という特別なメッセージの場合もある。特にショパンがそうだ。たとえば
右手で降りてくる“ソ-ファ#-ファ♮”という3つの音に5-4-5などという使い方を書くのは彼の典型的な例だ。触れるような、あるいは撫でるようなデリケートさが欲しいときなどに書かれている。そういう特殊な場合を除いては、これが弾き易いであろうと言う参考までに書かれているケースが多い。
指遣いを選ぶ時、一番の目的であるべきことは
1)表現したい音や表情づくりを可能にするもの
そして
2)自分の手にとって自然である事
だと思う。ただ単に”弾き易い“という理由での選び方はもちろん一番まずい。たとえば弾き易いからといって選んだものの、レガートにならない指遣いなどは問題外である。まずは<音楽>が目的であるべきだ。
楽譜に書いてある指使いを試してみる事ももちろん不可欠。ただ、それに加えて<音楽>と<自分の手>の両方にふさわしい指遣いが他にないか、あれこれ試してみるということは、絶対に欠かせない作業だ。
音楽に“1つの答え”はない。この色もきれいだけど、あの色でも良いかもしれない。指遣いも同じで、あれこれ試して自分の手を知る事、自分の手に耳を傾けることを忘れないでほしい。
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意味のある練習をする ~暗譜(3)最終回
先ほど、
“その道中にある、一つ一つの家の形、門の大きさ、色、あるいは看板・・・そんなこと全部覚えているだろうか。それがなければ到着できないだろうか。もちろんそうではない。つまり、無意識に“いくつかのポイント”に絞って道を覚えているわけだ。“
と書いた。だからと言って、目印以外は覚える必要がないといっているのではない。すべての音が必要不可欠で大切である。ただ、いちいちここが何の音・・何度、何調・・・そんなことを頭で追っていたら間に合わないので、目印を抑える、ということ。さっきの道の例で考えてみよう。道を歩いていて、目印としていた建物ではなくても、今までにあったお店がなくなっていたら、それに気が付くし、だからといって道に迷わない。それは必要なだけ全体が把握できているからだ。あの角に薬屋さんのビルがある。それがわかっていれば良い。何階建てで何色の看板がかかってて・・・そんなところまでは確認しながら歩く必要はない。良い意味でのバランスをつかむことがとても大切なのだ。
またすごく速いパッセージなどでは、一つ一つ頭で音を考える時間はない。ここでは、指の感覚としての記憶が必要になる。(指の記憶) 全部の音は丁寧に聴きとりながら(耳での記憶)同時に指が覚えていると、いちいち頭で考えずに弾くことができる。つまり練習のときに、ゆっくり目のテンポをとり、耳で一つずつ音をキャッチできる癖をつけ、同時に指の感覚を体に入れることが必要になる。目で見て狙い撃ちするのではなく、指から指へ移す感覚だ。
たとえばテレビゲーム。(すぐ例がぶっとんでしまいスミマセン・・・)
昔何回もやったゲームをしばらく遊んでいなかったとする。数年後にもう一度リモコンを握ったら、説明書を読まなくてもなぜか手が覚えてるっていうことないかな。
もっとまともな例を出せって? うーん。(^▽^;)
じゃあ、携帯電話でのショートメッセージとかテレビのリモコンとか、自分の機械なら0から9までの数字をいちいち目で見なくても打てるでしょう?!
指の感覚での記憶力って本当にすごい。触っただけで紙か金属か・・など見なくても判断がつく。
1)指先に脳がある。
そして
2)脳は鍛えなければ育たない。
この2つを忘れないでほしい。
いずれにしても、譜読みの時点での徹底した分析と暗譜,これが確実で最短な譜読みと暗譜の手段だと私は思う。
全体像を見ないまま、音をパラパラと鳴らして譜読みすることほど危険なものはないことを覚えておいてほしい。
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意味のある練習をする ~暗譜(2)
前回書いた“目印となるポイント”とは何か。それは例えば調が変わるところ、或いはさっきと同じ形なのに良く見ると、一回目とは少しだけ変化している音など何かが起きているところ。つまりここで大まかなハーモニーや調性のアナリーゼが役立つわけだ。その細かな変化のうえで非常に大切になるのが左手だけ或いは内声の暗譜。これは必要不可欠だ。左手や内声、そういう一瞬脇役に見えるところが、実はハーモニーや調がかわるきっかけ(=キーワード!)になっていることが非常に多いからだ。
先ほどの4種類(目、頭、耳、指)の記憶のうちどれをどう使うかという話だが、まず楽譜上でこの辺でページが変わる、この辺に音が多い・・・などの視覚的な記憶は、ぼんやりとでいいけれど、かなり大切だ。今自分がいる位置が漠然と把握できるうえに、一部で何か起きてしまった時に今の自分の居場所が分かると対処しやすい。(目の記憶)
そして、前述のハーモニーが変わるところなど、和声の変化。これは良く誤解しているケースがある。もちろん、ここからC-durになる、ここは5度から6度になる・・・そういった大まかなアナリーゼをしていることは不可欠だ。(頭での記憶)でも、それだけで十分ではない。時々私の生徒さんから、
何が何度に行くとか、ちゃんとわかっているはずなのに通して弾くとわからなくなるんです・・・
という言葉を耳にする。でも、頭でC-durになるとか5度から6度になる、2回目は<ソ>ではなく<ラ>になる・・・なんて思っていても実際弾いているときに間に合わないし、そんなことばかり考えていたら分析を聴いているような演奏になってしまう。楽譜にはちゃんと生徒自身によるアナリーゼが書いてあるのに、実際暗譜になるとだめだというケースも多々見ている。私たちは演奏家を目指している。試験をしているのではない。演奏から“生きた音楽”を求めているわけだから、アナリーゼをそのまま記憶するのではなく、演奏するうえでキャラクターや色に役立てなければ何の意味もない。変化が起きる場所は、その変化を耳で覚える。変化するところでは、何が何度になる・・・ではなく、<キャラクター、表情、色などの変化を耳で覚える>のだ。(耳での記憶)
(続く)
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意味のある練習をする ~暗譜~ (1)
永遠の課題ですねぇ、あんぷって。どうしてまたこう入らないんだろう・・・と最近苦心しております。赤ちゃんの吸収能力から比べたら、脳みその柔らかさの違いは明らかにあるよなぁ・・・。ガーン(* ̄□ ̄*;
しかーし、だからと言ってあきらめるわけにはいかず、私は私なりに、なんとかしなければいけないのであります。(←自分に言い聞かせているって?汗)
そういうわけで、暗譜というものを、できる限り確実にいれるためにいろいろと模索し続けて数年。今思うところをちょっと書いてみたいと思います。
暗譜というのは、目と指、頭、そして耳の4種類をうまく使ってするものだというのが私の今の時点での結論。この“うまく使って”というのがミソ。どれをどう使うかがかなり大事な気がしている。
まず、音楽から離れて暗譜というもののイメージを考え直してみよう。たとえば、道を歩いているとき。自分の家から歩いて10分ほどの行き慣れたお店に行くことを考えてみよう。その道のりというのは、当然慣れた近所だから、行き方はちゃんとわかる。でも、その道中にある、一つ一つの家の形、門の大きさ、色、あるいは看板・・・そんなこと全部覚えているだろうか。それがなければ到着できないだろうか。もちろんそうではない。つまり、無意識に“いくつかのポイント”に絞って道を覚えているわけだ。無意識??? 本当に? そう、それは無意識ではなく、もう慣れているから。でも初めて住んだときには、どうしただろう。一つ一つ見てみよう。
まず、家から10分程度、そして大体の方角として、あっちの方にある店という方向をインプットする。
ポイント1)新しく住んだとき=譜読みの時点 で、全体の構成と大まかな構造(ABAなど)の枠組みを頭にインプットする。
それから、さらに具体的にこの角の薬屋さんを曲がって、二つ目を左で・・といくつかの目印を覚えたはずである。
ポイント2)譜読みの時点 で、すでに目印となるものを意識的に覚えさせていく。
ここで一言:
≪何回も弾いているうちに頭に漠然と入った暗譜ほど、のちのち恐ろしいものはない。≫
↑この歳にして断言!!(=`^´=)エッヘン
入っているつもり・・・が本番で悪魔となって邪魔しに来るんだな・・・これが。
その“目印となるポイント”とは何か。それは例えば調が変わるところ、或いはさっきと同じ形なのに良く見ると、一回目とは少しだけ変化している音など何かが起きているところ。つまりここで大まかなハーモニーや調性のアナリーゼが役立つわけだ。その細かな変化のうえで非常に大切になるのが左手だけ或いは内声の暗譜。これは必要不可欠だ。左手や内声、そういう一瞬脇役に見えるところが、実はハーモニーや調がかわるきっかけ(キーワード!)になっていることが非常に多いからだ。
続きは次回・・・・
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意味のある練習をする ~軽さ(3)
ふたの上と鍵盤でのギャップの話に戻ろう。ふたの上でできたなら、鍵盤でもできるはず。そのためには、こういう練習が良いと思う。
1)まず、ふたの上で素早く軽い打鍵でソファミレドと弾いてみて、感覚を見つける。
2)ふたを開け、ピアノの中央より1オクターヴ高いところのソファミレドの鍵盤を、左手で下までおろす。(写真ではファミレド)
3)下ろしたまま(つまり鍵盤が動かないようにして)、右手でソファミレドを弾く。―この時、ふたの上での感覚と同じ感覚を鍵盤の底で感じてみる。
4)感じられたら、左手を放し、普通に弾くが、鍵盤の表面ではなく《底に》意識を集中させて、鍵盤の動きに惑わされず底を<ふたの上の時と同じように感じて>打鍵する。
これを繰り返すと、鍵盤の動きに惑わされず底を打鍵する感覚がわかるのではないだろうか。決して押し込むのではなく、底を“ぽん”とつかむだけ。
また、ふたの上で弾く時とは違い、鍵盤が上に戻ろうとする力があるので、
ふたの上で弾いた時よりも、若干だが<速い>打鍵が必要とされることに気がついたのではないかな。そうでないと、鍵盤からの戻りの力に負けて、浮いた感覚になってしまうのだ。水圧に負けて、足がプールの底につかないようなものである。
軽く弾こうとするためにしていまう大きな間違いの一つは、指先を抜いてしまうこと。そうすることで、鍵盤の戻りに負けて、浮足立ってしまうケースが多い。反対に、指先をしっかりさせ、短く速い打鍵を鍵盤の底に送り込むことが必要だったわけだ。
そして、もうひとつ軽い音の連続を弾く時に、指や体がうわずってくるのを避ける大切なポイントは、耳も指も“メロディックに追うこと”。もう少し詳しく説明してみよう。
軽くしかも速い打鍵をするとき、どちらかというとノンレガートのような打鍵に近くなる。そうすることで、指から指へと移す感覚が切れてしまい、いつもつま先立ちしているような印象になりがちだ。それが不安定さ、つまり”怖い・・”と印象を生むことになる。それを避ける為に、実際はスタッカートで鍵盤から指が離れている場所ですらも、鍵盤の底をメロディックに、つまり横に追ってみよう。そうすることで感覚としては、実際に指が残っていようがスタッカートで切れていようが、先ほどの練習で得た“鍵盤の底のラインを追って弾いている”ように感じられたらかなりの安心感が出るはず。みなさん一緒に探してみましょう!
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