「MessageFromBerlin(ブログ編)」カテゴリーアーカイブ

~意味のある練習に向けて~  <Give and Take!>

ピアノを弾くこと=鍵盤をおろすこと   
ではない。
ペダルをつかう=ペダルを踏み込む 
ことでもない。
どうしても、弾く、踏む、という“Give”的な方向にばかり意識がいってしまうことが多い。でも、“踏む” なり “弾く”なりしたものの“後始末”をすることがいかに大切かと言うことを忘れてしまう。
考えてみれば、
部屋の片付けでもそう:出したらしまう。
会話でも:話し手にも聞き手にもなる
そして
恋愛では、7押して3引くんだそうな。(昔、同級生だった 軽~~~いノリの男の子が言っていた。笑)
↑全然参考にならない? (^^♪
いや・・・私が言いたかったのは、鍵盤をおろすことだけに注意を払うのではなく、下がった鍵盤をどう戻すか、ということに意識を持っていることの大切さ。ペダルも同じ。どうあげるか。
鍵盤をおろす。でも、それ以上いくら押しても意味がない。
ある公開レッスンで、
―音を歌わせるために、鍵盤の底に着いたら、そのまま指をヴィブラートさせて・・
といって鍵盤の底で指をぷるぷるさせていた人もいたっけ。 
だから、何も変わらないってば!
エェー、コホンッ!(;-o-)o” 失礼・・・
そうではなく、鍵盤をおろしたらそれをどう戻すか、ということにも強い意識を持ってほしい。
1本の指で鍵盤をおろす。そしてゆっくりと指を緩めると、鍵盤は自然とあがってくる。(決して指で“あげる”のではない。緩めるとあがって来る。これはすごく大切なこと!!)あがってくるスピードを指先で感じることで、そのピアノのアクションの具合が分かる。重いピアノ、軽いピアノ、と一般的に表現されるあの感覚である。たとえば、ゆっくりあがってくるということは、そのピアノは重く感じる。これをいかに瞬時に指先で感じ取ることができるかで、本番など前もって触ることのできない楽器で弾く場合にも、ある程度恐れずに弾くことができる。
大きい音を出したい、だから思いっきり弾く・・のでは、思った音が作り出せない。硬すぎて騒音になるか、がんばった割にはもの足りないなどとなってしまう。
鍵盤の戻りがどれぐらいの速さだから、それに対してこれぐらい・・という“必要な速さ”がある。それを入れる。それが “弾く“ことの基本。闇雲(やみくも)に早く打鍵したり、ピアニッシモにしたいからそっと打鍵しても、ぼこぼこの演奏になってしまうだけ。
また、戻りをコントロールするということは、<音の切れるところ>を自分で作る、ということにもなる。鍵盤を下げて、ゆっくりと戻しながら、ダンパー(弦の上にある白い綿たち)を見てみると良い。鍵盤をゆっくり戻すにつれて、ダンパーが弦の上に降りる。降りた瞬間に音が切れる。これも自分で”作り出し”ていなければいけない。ピアノは音が“出る”のでも”切れる”のでもなく、演奏者自身の手で、音を”作り”、”切る”のである。
<鍵盤の戻りを感じ、必要とされている速さと量を必要なタイミングで入れる。>
そのために、指先(指の腹の部分)の鋭敏な感覚を育てることと、鍵盤との絶え間ない接触が必要となる。
鍵盤との絶え間ない接触・・・難しい響きだけど、要するに 
近くから弾く
この言葉ならよく耳にしていると思う。近くから弾くように、といわれるわけは、これで少し分かってもらえただろうか。
ペダルもまったく同じ原理。Give and Take!
これについては次回のブログで書いてみよう。

~意味のある練習に向けて~ <親指>

手をじっと見つめると、“あなた、生えてくるところ間違えたんじゃない?”とつぶやきたくなってしまうのが親指。この指だけが、なぜか手のかなり下のほうから生えている。
足の指なんて5本ともそろっているのに・・・笑
こんなに短く、しかも引っ込んだところから出ているのに、遠慮がちかと思いきや、この親指こそが、私たちの演奏に大きく左右する主なのである。
親指の使い方に関しては、いろいろ既に先生たちから言われていると思うので、私は、他の視点から書こうと思う。
手首が高い、と言われたことはないだろうか。私の生徒たちで最近よく見る問題の1つが、手首が高く、手の甲がつぶれている形の弾き方。もちろん、形から入ることが大切なわけではないので、最終的に思うような音が出せるのならこだわらなくていいとは思うのだけど、大半の場合は、そのせいで演奏の妨げになってしまっている。
―手の甲を山型にして、手首を下げてね。
こう伝えたところで当然直るものではない。私も昔、手首がかなり高く、下げようとすると、どうしても不自然になって苦労した。鏡を横に置いて、外見からは良さそうなポジションにしてみても、体の感覚としては、どうも不自然に感じられる。これでは外見から直しても無理だと思い、何が原因で手首が上がってしまうのか、“犯人”を探すことにした。
そして、長い道のりを経て見つけたのが親指。この指が木の棒のようになってしまっていたのだ。つまり、親指がまっすぐ受身で“待っている”状態になり、腕から押すことで、手が鍵盤に近づき、指が鍵盤を押すので音が鳴る、という具合になってしまっていた。
こうなると、どういうことになるかというと・・・
親指が受身になる→親指と小指を結ぶ手のひら側のラインの支えがなくなる→手のひらを支える橋がなくなり手の甲がつぶれてしまう。
実際は親指が腕で押されて弾くのではなく、指自身で弾く必要がある。親指を他の指と同様、付け根(親指の場合は手首のところ)から使おうとすると、手首が自然と降りてくる。手首が高いと、”突く”しかない状態なのだ。それが分かって、親指への意識をかなり高めて練習しているうちに、不思議と手首が降りてきた。<下げる>のではなく、<降りてきた>。だからとても自然に感じられる。こうなることで、親指と小指を結ぶ線の手のひら側の支え(これが本当に大事!橋の橋脚のような役割になるため)ができ、手の甲も支えられると言うわけ。
手首を下げようとするのではなく、なぜあがってしまうのかを考える。
いつだったかのブログに書いた、“犯人探し”は、ここでも役に立ったと言うわけだ。
むむむ、親指め。あなどれない・・・

~意味のある練習に向けて~ レガート(2)<歩くこと>を考える

歩く。どうやって歩いている? そんなこと考えたことなかった。
右足が地面をつかみ、左足が前に出て、その足が地面をつかんだ時点でさっきの右足が地面から離れる。
簡単なようで、とても複雑なことを、実はなんにも考えずに普段からしている私たちってすごい!
でもこれって、ピアノのレガートとまったく同じなんです。
前回のブログではなした 五つの音のレガート。”言葉“と比較することでレガートと言う感覚を説明したが、今日は ”歩くこと“を考えることで、実際に指で行っていることを説明してみたい。
歩くこと・・・上記に書いたように、歩くとき、私たちは右足と左足の見事な受け渡しで、前へ前へ円を描くように足を次々と出していく。反対に“すり足”で歩くことをイメージしたら”円を描くよう“という表現は分かってもらえると思う。
ところがピアノになると、レガートを弾きたいと思うがゆえに、1つの音を弾くと、その指を爪が白くなるぐらい鍵盤にしっかり押して、次の指が来るまでしがみついているというのをよく見かける。
でも、足の場合を考えてみる。歩くとき、地面を捉えた足は、そのまま地面にしがみついてはいない。足が地面と接触して、離れないだけで、ふんばってはいない。足の指も、がんばってはいない。ただ、その足には自然な体の重さが乗っているので、足をぐにゃぐにゃにすると倒れてしまう。だから倒れない程度に、足の裏が地面を感じて支えている。
指もまったく同じ。弾いたら次の足である“指”が来るまで、鍵盤とのコンタクトを保っていればいいだけ。しがみつく必要はなく、自然な重さを今弾いている指の腹にのせて、指が崩れないように鍵盤を感じながら支えていれば十分だ。
歩くことに戻ってみよう。次の足が来る。次の足が地面を捉えた瞬間、前の足は地面から離れている。離れているだけでなく、離れたと同時に次の一歩へむけてもう準備に入っている。
ここでも指はまったく同じことをする必要がある。ところがある音を弾いてから、次の音の準備に入ってしまう人がとてもが多い。つまり、ある音を弾いてから、その次の指の準備をする。そうすると、ジェスチャーがひとつ余計に入ることになり、ギクシャクしてしまう。
分かりやすいように、たとえば右手の2,3,4の指で順番にレミファとレガートで弾くとする。
2の指(レ)を弾いたと<同時に>、既に3の指の準備ができている必要がある。レを弾いてから、よいしょと3の指をあげていては遅い。2の指を弾いたと<同時に>3の指を上げる。確認してみてほしい。これって以外とできていないもの。
その次、3の指でミを弾くときが大事。ミを弾いた<瞬間>にしていなければならないことが3つある。
1)2の指を即座に緩める。
2)今弾いた3の指を、打鍵したと同時に緩める。この際、指の腹はと鍵盤とのコンタクトを感じているだけで、必要以上に押し付けない。
3)4の指(ファ)を準備する。
繰り返しになるが、これらが、ミを弾いた“瞬間”に、一度に<全部!!>できていないといけない。
1)ができていないと、歩くときに、次の足がもう地面についているのに、前の足もまだ引きずっていることになる。
2)ができていないと、いちいち地面に足を貼り付けて、ふんばりながら歩いていることになる。
そして
3)ができていないと、転んでしまう。
歩くことに例えると、簡単にイメージできると思う。歩くときと同様、前の足(指)から次の足(指)への受け渡しを、決して動きをとめることなく、円を描くように円滑に続けなければいけない。
そしてもうひとつ。歩くとき、次の足が地面に着く<直前>まで、その前の足に重心がまだ乗っているのはわかるだろうか。指でも同じ。次の指を準備はするものの、弾く瞬間までその前の指に重心を乗せている。そして、少しずつ次の指に移すのではなく、“一度”に移す。そうでないと、はっきりと次の音が発音されず、もやもやと口の中で言葉を話しているのと同じことになってしまう。
ここまで、2回にわたってレガートについて説明してみた。こうやって文章にするととてもややこしく感じられるかもしれない。でも家で歩いてみて、どうやって足を運んでいるか是非自分で見てほしい。完璧な足のレガートを。
歩くこと、話すこと。日常生活を見れば、レガートは誰もが自然にできていること。レガート教えてくれる先生は、ほかでもない、自分の体にあるのです!

~意味のある練習に向けて~ レガート(1)<こんにちは>から学ぶ

レガート・・・これは、私たちにとって永遠の課題だ。
レガートができない生徒が本当に多く、これをどうやって伝えたら一番分かりやすいか、長年頭を悩ませているというのが本音。まだ模索の途中ではあるが、今の時点で一番しっくりくる方法で説明してみよう。
レガートとは何か。ちょっとピアノを離れてみよう。日常生活に目を向けたとき、”完璧な“レガートと言えることを私たちは、なんてことなく誰もがおこなっている。それは
1) 言葉を話すこと
そして
2) 歩くこと。
今日はまず ”言葉“の例で、レガートととはどういうことかを説明してみよう。
<こんにちは>と発音してみる。これは完璧なレガート。みごとになめらかにつながっている。でも、なめらかにつなげているのに、こ、ん、に、ち、は という五つのことばは1つずつきちんと発音している。
そして、1つずつきちんと発音しているが、決して<棒読み>ではない。言葉がなめらかな<曲線>を描いているのは自然と分かるだろう。
ピアノでも同じこと。ドレミファソでレガートをするとしよう。
“滑らかにつなぐために、前の音を少し残して次の音を弾く”
という人がいる。
でも、そんなことは、言葉ではしていない。<こ>と<ん>や<ん>と<に>を一緒になんて言っていない(いえない・・・笑)のに、見事なレガートになっている。つまり第1にレガートの基本は
<一つずつの音をきちんと発音する>
滑らかにしたいために、ふにゃっとした音を出したり、次の音を重ねて弾いていても、きれいなレガートになるわけではない。言葉と同じで、一つ一つをはっきり発音しないと、何を言っているかわからない。
次に、<こんにちは>をまず、棒読みで発音してみて、それから正しく発音してみると分かると思うが、ほんの少しではあるが“にち”あたりに向かっていて、”は“で閉じている。つまり第2のポイントは
<決して五つの音を ”平ら“には発音していない。>
音と音を結ぶ線が<曲線>を描かなければいけない。五つ平等につなげばいいというわけではなく、そうすると言葉で言う“棒読み”と同じ結果になってしまう。
そして、もうひとつ、とても大切なポイント。
<こんにちは>に戻ってみると:
“こ”と発音した後、次の“ん”を発音するまで“こ”を責任もって発音していることに意識をしてみてほしい。“ん”が来るぎりぎりまで、“こ”といい続けている。同じように“に”というまで “ん”を発音している。かならず次の音が来るまで、前の言葉を発音し続けている。ここで第3のポイント
<発音した音を次の音が来るまで聴き、運び続ける>
ここで問題になるのが、ピアノという楽器。弦楽器や、管楽器、歌であれば、息や弓を使って次の音まで運び続けることができる。でもピアノは一度出した音は、だんだん小さくなっていく。
そこで ”耳“の出番!!!
出した音を耳で追って、消えていくその音に段差がつかないように次の音をおいていく。段差がなければいいのだから、必ずしもその前の消えていく音より小さい音を弾く必要はない。大きめの音を重ねることだって当然できる。大事なことは、
―音と音を結ぶ線が、曲線を描くこと。
次の音をいくら気をつけても、耳が今出ている音から離れてしまった時点で、決してつながらない。前回のブログのように、”一つ前の音が鍵”というのがここでも言える。耳の意識が前の音から離れてしまうと、
 こっんっにっちっはっ
と、とぎれとぎれに言っているようになってしまうか、こ”ん”にちは。や、こん”に”ちは といったように、へんなイントネーションの言葉になってしまう。
レガートという“感覚”を言葉に置き換えてみることで、少しは身近に感じられるのではないかな。部屋にこもって“こんにちは”と何回かつぶやいてみてほしい。きれいなレガートでしょう!
次回のブログで続けて、今度は ”歩くこと“を通して,レガートを実現するテクニックを説明してみたい。

~意味のある練習に向けて~  ―<だめ>を試す―

こんなに、時間をとってもいいのですか?
これは、硬すぎませんか?
これだと小さすぎるのでは・・・
これ、音色変わってますか?
こういうことを最近よく耳にする。硬い音、大きすぎる音・・これらを恐れることからだんだんと、演奏が小さくなってしまうケースは多い。
“だめ”なことを恐れるがゆえ、無難になる・・・これは一番避けてほしい演奏の一つ。
こんなケースに私が言うこと:
<だめ>なことを試してみればいいじゃん!
固すぎる音を避ける前に、”硬い”音を出してみる。そこから、硬くならない限界ぎりぎりのところまで戻ってこればいい。小さすぎるピアニッシモ。小さすぎる音を出してみない限り、その限界はわからない。
スフォルツァアンドやアクセントが自然かどうか。
―もし、ここにスフォルツァンドなどがなかったとしたら、どうやって弾くか。
1度 ゛なし゛で弾いてみれば、意外と簡単に見つかるんじゃないかな。
少し難しいことになるが、和声が意外な展開をする場合。当然そこで色を変化をさせたい。
その場合にも、まず和声が変化しなかった場合の、普通の和声進行で弾いてみる。
たとえば、 ドミソ→ソシレ→ミ♭ラ♭ド という和音進行があったとしたら、
ミ♭ラ♭ドで突然ハ長調ではなくなりますよね。そこで色を変えたい。
まずは、これが”普通“だったら、どうなるかを弾いてみる。つまり ドミソ→ソシレ→ミソド。そしたらおのずと、どういう色をミ♭ラ♭ドに付けたいか、すこしは見えてくるのではないだろうか。
<だめ>を試す。それがないと、知らず知らずのうちに演奏が
“安全圏”に収まってしまう。あるいは、“先生”に判断してもらわない限り、
自然なのかどうか、硬いのかどうか、判断がきかなくなってしまう。
<だめ>を試すことで、自分の演奏できる“空間”が、思っていたよりもずっと広く感じられるのではないかな。知らないうちに、”安全”という窮屈な思いをしていないかな。
音楽が持つ空間は、魚が泳げる海の範囲のようなもの。自由に泳げるように空間を大きく大きく絶えず保っていてほしい。水槽の中は、守られているかもしれないけれど・・・。

~意味のある練習に向けて~  ―カギは一つ前の音―

この12月から、MessageFromBerlinと題して、日本でプライベートレッスンを開始させていただいた。レッスンでは私の方がたくさんのことを生徒さんから学ばせてもらえて、非常に楽しみにしている。
これにあわせて、ブログ上でも私の日ごろの模索から気がついたことを、書いてみようかなと思いついた。勉強の過程での“思いつき”だから、また10年後には違うことを書いているかもしれない。でも、ま、それもいいかなと・・・。
というわけで、今回のテーマは、“鍵は一つ前の音”。
私の生徒を見ていて、特に多く見られることの一つは、”できないところを何度もただ繰り返して練習する“こと。これは、とても危険なことだと思う。”このへん“が弾けない、という場所を繰り返して弾くうちに、なんとなく正しく弾ける確率が増えてくるので、”弾けるようになってきた“と解釈して次へ進む。そりゃ、誰でも何回も繰り返したらその瞬間は、正しい音に命中する確率は増えますって。
ところが、翌日にはまた大体しか弾けず、
“先生、いつまでたってもここが弾けるようになりません”
ということになる。
たまに、
“先生、ここ、どうしても汚くなるんでどうにかしてください”
という人もいる。美容院か、私は・・・
練習をする上で、不可欠なことは、“原因を突き止める”こと。“このあたり”が弾けないのではなく、はっきりと“どの音”が原因なのか。大半の場合、ひとつ ”こいつのせいだ!“という犯人が潜んでいる。私も、自分の練習で弾けないパッセージを見つけると、まず犯人捜しに取り掛かる。この犯人、なかなか手ごわい。となりの音に濡れ衣を着せている場合が多い。ふっふっふっ、みつけたぞ。お前だなあー犯人は。
みたいな、とても怪しい練習をしている私・・・。
たとえば、右手の親指で真ん中の”ド“を弾き、すぐに小指で2オクターブうえの”ド“を
弾かなければいけないとする。
よくレッスン中に見る光景が、この2音を弾いて、飛んだ先の小指をはずしてしまい、生徒はそのまま、はずしてしまった、上の“ド”を、
にっくきヤツ、あんなに練習したのに、こいつこいつーとばかりに、“ドドドドドド”と連打。そして、そのまま先に進んでしまうのである。
あら・・・
上の“ド”は、大半の場合、無実です。かわいそうに・・・。
で、誰のせいかといえば、いろいろ可能性はあると思いますが、
(1)飛ぶ前の最初の“ド”。飛ぶことに頭が行ってしまい、この“ド”をちゃんと弾かないまま飛ぼうとすると、それは地面をちゃんと蹴らないがうえにできない鉄棒の<逆上がり>みたいなもので。
(2)二つの“ド”の間の“移動係”。えらい怠け者のせいで、移動が遅い。
ただ、(2)は、(1)が原因になって移動が<遅くなってしまう>ことが多いので、やっぱり犯人は(1)かな。
などと、考える作業が、練習の一番の基本。やみくもに弾く前に、考える。それから、それに見合った練習方法を考える。
大半の場合、”弾けない”箇所、つまりよくはずしてしまう箇所は、その”一つ前“の音が原因のことが多い。ということは、念頭においてほしい。考えずに、同じ場所を繰り返し弾くことは、
間違えたテクニックを体に記憶させてしまうことにもなり、弾けるようにならないだけでなくて、逆効果にすらなってしまう。事態を悪化させる可能性が高いので、とても気をつけてほしいと思っている。
私がよく言うことの一つ、
”がまんする”ということを覚えてほしい。
弾いてしまわず、ちょっとまって考えること。
“一つ前がカギ”
これは、”音色を変える”
場合にもいえる。
よく、
―そこ、もっと変えて―
と言われることが私もあった。ただ、変えてと言われても、え、どうやって・・・みたいな。私も随分頭を悩ませた。色を変えるためには、思ってるよりもたくさんの手段がある。これは、また次回以降のブログにまわすとして、その“たくさんの手段”のなかの一つが“一つ前の音”になるということだけ書いておきたいと思う。
色を変えるということは、どういうこと?
<変える>
つまり、これは<何かに比べて>変わっている必要がある。つまり少なくとも、二つの音がなければ ”変わった”ことにはならない。変えたいと思う音だけを一生懸命、あぁでもないこぅでもないと、弾いていても、仕方ないわけで、もっとも単純に言ってしまえば、その<前の音>と変わっていれば、色が変わったことになるということ。つまり、前の音がカギになる。前の音を責任を持って作る、聴く。このことがポイントになる。どうしても、変えようと思う音のほうに意識が言ってしまうせいで、その前がないがしろになることが多い気がする。
もう一つ、”休符“。
―休符に緊張感をもって-
これもまた、私も苦労をしたシロモノ。
あるとき、<休符に緊張感ってどうやったらできると思う?>と生徒の1人に聞いてみた。
―えっと、体も動かさないとか?-
といってその彼女は両手に、にぎりこぶしを作り、表情もみじんも動かない様子を見せてくれた。
・・・・・それって、あなた自身が緊張してるだけでしょぉ・・・(-_-#)
と、からかってみたものの、休符に命を吹き込むことは難しいことの一つ。
たとえば、お芝居で
“ねえ、きいて”
という台本をもらったとする。その後に来る文章が、どうでもいい話の場合には、
ねーきいてよぉー、彼氏がサーぁ・・・
みたいに、語尾がだらっとなるのではないかな。男の子なら、”俺サー“みたいな。
でも、なにかとても緊張した話のとき、“ね、きいてっ!!!”って私なら言うかな。
同じセリフでも、どう言葉の終わりを処理するかで、その後にくる緊張感が変わる。
まったく同じことがピアノでも言えると思う。
休符の一つ前の音。これをどう切るか。ペダルに任せず、自分で責任を持って切る。これだけでも、そのあとにある休符に命が吹き込まれる。
休符は、音の一つだと思ってほしいと、いつも生徒に言っている。休みではない。
私のレッスンのモットーは、
“どうやって”
も説明すること。深い音出して、暗い音出して、という指示だけでは、最初のうちは難しいと思う。そのためにどうすれば良いか、これを生徒と知り合って最初のうちは説明することが必要だと思っている。ただ、それはかなり難しいこと。これからの課題でもある。がんばろう・・・
MessageFromBerlinプライベートレッスン、もうすぐ12月コース終了。次回は3月。
がんばって勉強しなきゃ。