パリの今

演奏会と合わせのため、久しぶりにパリに入った。EU内の移動では基本的に入国審査はない。パスポートの携帯は必須だが、ベルリンからパリの往復では搭乗時にパスポートで本人確認をしなことも多々あり。搭乗券だけを片手に電車に乗るような感覚で移動できる。
……はずだったが
今回は違った。パリの空港に着くなりいつもとは違う出口を案内され、そこにはずらっと並んだ入国審査官。緊張が感じられる。空港内にも、軍服を着た兵士がライフルをお腹の前に構え、あちこちに配備されている。数メートルに1人配備されているという場所もあった。
空港を出て街の中心部に入る。一見普段と変わらない様子だが、やはり違った。Nespressoのお店の前を通ると、お客さん一人一人の手荷物を来店時に確認しているのが見える。ユニクロなんかでもそうらしい。
それを目にするたび、体がふと引き締まる。
毎年演奏をさせていただいているパリのアンヴァリッド。そこもいつもとは違った。正門で入管の理由を聞かれ、手荷物検査。着ているコートのボタンをあけ、中に何か隠していないか確認。そしてやはりライフルを手にした兵士が数名いる。
たくさんの警備があることは安心でもあるが、危険のサインでもある。
今回の滞在ではパリの街をねり歩いてみた。毎日10キロは歩いただろう。この町は本当に美しい。道路はゴミだらけで、地下鉄は臭い…というには変わりないが、街自体が凛としている。気品にあふれている。おそらくその美しさは、建物の風貌だ。
高さと色のそろった建物。シンプルかつ品のある飾りを伴ったテラス。 南フランスに行くとテラスに赤やピンクの花を飾り、華やかになるところが、パリはシンプルかつクール。
気品に溢れている。
リストが住んでいたという、「リスト広場」をたまたま通った。そこには古い教会があり、当時リストがここを散策し、この階段に腰掛けていたかもしれないと思うと、なんとも言えぬ嬉しさを感じた。多くの芸術家がパリを愛し、その美に引き寄せられ、たくさんの名作が生まれた文化と教養が刻み込まれた街、パリ。 この街に兵士は似合わない。
ときに人間は、とても愚かなことに必死になる時がある。そんな時、ふと身の回りにある美にあらためて目を向けてみたい。もっと大切なもの、大切にしたいものが身の回りに溢れていないだろうか。
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集中力とは

もし「演奏中、集中力を保つようにね!」と言われたら、どう解釈するの?と生徒さんに聞いてみると、意外とあいまいな解釈をしているのだなと感じた。
生徒:暗譜が飛ばないように、あそこで転調して、あそこであーなって・・・、再現部はこうなる・・・。などと考えることで集中する・・・??
とんでもない。自転車で観光に出かけたり、歩いて長い距離を散策するとき、行先までの道のりを大体頭に入れて出発する。でもいざ出発したあと、あと300メートルで左に行って、そのあと右に行って、それから信号を見落とさないように・・なんて思っていたら、たどり着くだろうが散策どころじゃない。なにも味わえない。
本番の演奏では、たどり着くかどうかの競争をしているのではないのだ。
もちろん前述の道のりを把握し、大体の目印を知っておくことは当然しなければいけない。そして細かな音作りや、細かなテクニック・・・様々な詳細を丁寧に練習しておく必要性は言うまでもない。でも実際舞台で演奏するときは、それを”再現”しようとしたり、”練習した通りに”出そうと思っていたら、まずうまくいかないだろう。
なぜ?
何よりもまず、人間は機械ではない。準備した通りになんて出せない。まったく同じ音色を人生で2度出せるかと言われたら、出せないかもしれないとさえ思う。
それに、本番というのは、練習とは違う環境で演奏するからだ。もし練習していたところと同じ会場で本番を弾くとしても、緊張も違えば、客数も違う。気温も違えば、光も違う。響きも違えば、出てくる音も違う。すべてがそのときだけの雰囲気なのだから。
たとえばリンゴを描こうとする。こんな感じと思って書き始めたところ、書き出しの太さが思ったより違ったとしたら、それは”失敗”ではない。思ったより違った太さででたら、そこからリンゴになるように整えればよいだけだ。ただ、リンゴのつもりが家を書き始めた、など、あまりに想定外のことが起きないように、あらかじめ何をどういう風に描きたいのか、準備というものをしておくだけだ。
演奏中集中するということは、何よりもまず、いま生み出した音のいく末を追いかけることにあるだろう。どのように音が伸び、どのように消えていこうとしているのか。音の意思を聴きながら、次の音を置いていく。
耳を研ぎ澄ませて、生まれ行く音のいくすえを聴き続けることで、演奏家には集中が生まれ、音楽に緊張が生まれる。
では、速い音が並ぶところはどうだろう。当然いちいち一音ずつ追っていたら、どんどんテンポが遅くなっていってしまう。そこで大切なことは、音楽の”言葉”だ。日常の言葉でも、たとえば ”音楽大学” ということばをしゃべってみるとき、お ん が く だ い が く
と一つずつ確認しながらしゃべったら、当然不自然になる。頭の中に潜在する、まとまりを作るという能力を用いて、音楽大学 というものを一つのまとまりとして認識する。抑揚が生まれ、なんというか、言葉のリズムのようなものがあるだろう。
音楽も同じだ。たとえばショパンの作品10-8のエチュードで、右手を
ラソファドラソファドと1音ずつ思っていたら、弾けたもんじゃない。少なくとも8つの16分音符、さらには1小節分(16分音符16個)ぐらいをひとつの単語のように感じないといけない。たとえば音楽大学という言葉を我々が話す場合、そのことばを一息で、きれいな抑揚に響かせるよう頭の中で曲線のように言葉をイメージする。そして一つ一つ強調しないものの、どの文字も抜けず、そのイメージの曲線に乗るように何度か繰り返して発音することで、すらっと”音楽大学”と発音できるようにしみこませたわけだ。そしてしみこんだものを発音するとき、当然いちいち唇の動き、舌がどこにあたっているかなど考えない。
音楽も同じで、まずは ら そ ふぁ ど ら そ ふぁ どと一つずつきちんと発音できるようにして、それから音同士の縫い合わせ作業に入る。まずは4つ。らそふぁど をどう並べたら曲想にあう、柔軟でなめらかな曲線に響くか想像してみて、音色、抑揚を選びぬいあわせていく。
それができたら、らそふぁど らそふぁど の2グループをいかにつなげることで、コピー貼り付けの2回ではなく、一つの言葉に聞こえるか探してみる・・・そのようにして、1小節が一つの単語かのように作っていくのだ。
そして、いざ実際演奏するときは、”音楽大学”という言葉と同様、つくりあげた一つの音の言葉を全体として聞きながら弾く。全体のバランスを聴きながら弾いていくといえばよいだろうか。最初の音が思ったより大きかったら、そこから美しい曲線になるようほかの音をつじつまを合わせて並べればよい。 
集中=とぎすまされた耳
こんなあいまいな理解はたくさん見られる。その一つとして ”大きな音””緊張のある音”・・・音 についてだ。これについては 3月に行うDevoyons’ Villageの特別講座(3/27)でお話をさせていただく予定なので、興味のある方は是非。
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Devoyons’ Village 春のコース 学生クラス、大人クラス 聴講生募集中!

健康診断に引き続き、上記2クラスでも聴講を募集します。
音楽はこれからともに人生を歩んでいく一生のもの。客観的に聴き、判断する耳が、何よりも最終的に一生自分を育ててくれる先生となります。そしてもう一つの先生は考える力。そんな耳と考える力を養うには、一歩離れてみるのも大切な時間です。聴講というのは、他人の物を聴く時間ではありません。自分の中に耳を向け、自分を見つめなおし、考え直す。聴講という鏡を通して、自分をみる貴重な時間です。それがわかるまで私もずいぶん時間を要しました。
村では、そんな仲間との時間を大切にしています。一度ふらっと覗きに来てみませんか?
詳しくはVillage公式サイトをどうぞ。

ドイツ人はきっちり?

ベルリンの自宅近くのカフェにDとランチに入った時の事。モーニングメニュー(ベルリンでは、モーニングメニューと称してお昼の時間も食べれたりするのだ)
で、”スモークサーモンとパンのセット”というのが目に入り、これにしよう♪と決めて着席。
とっても寒い日で、カフェは満席。人のよさそうなお店のおばさんが注文を取る。
私:スモークサーモンのセットと、ダージリンティー二つで。クロワッサンも一つ追加していただこうかな。
おばさん:セットにはパンがついてるわよ。クロワッサンもいる?
私:じゃあ、まずはパンだけで様子を見て、あとで追加するか決めます!
おばさん:わかったわ♪
・・・・
とんとんと決まり、
D&私:いい感じのお店だねえ♪
とにっこり。
・・・10秒後・・・
おばさん:あら、お飲み物はどうするんだったっかしら?
私:ダージリンティーです。(*_*;
ムム・・・たよりないなあ。大丈夫かなあ。ちょっと心配。
Dと私は食事を待ちつつ、まったり会話を始めた。
そして待つこと3分ぐらい
おばさん:(´・ω・`) ごめんなさい、どうしましょう・・・
今ね、裏を見てきたら、サーモンが・・・・凍ってるのよぉ
私( ;∀;) 凍ってる?
昨日仕入れたのに、今見たら凍ってるの。まぁ、どうしようかしら。ごめんなさいね。
本当に情けない・・わーーどうしましょう。ガッチガチなの。
と混乱中。その様子に、なんだか笑ってしまい、結局はほかのメニューを注文。
この適当さ、さすがベルリン。
きっちりしてそうなドイツ人ですが、実は結構・・・
テキトー
です。
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Devoyons’ Village 健康診断 聴講生募集中!

いつのまにやら7回目。Dと村田が数年前から細々と種をまき続けているVillage。
仲間とともに学ぶことの大切さ、そして仲間から学ぶことの大きさを信じて、
グループレッスンにこだわって企画をしています。
健康診断は一年に一度開催しており、Villageのグループレッスンの前に、まずは個人レッスン形式で
様子を見たい・・という方や、本番前にひとことアドヴァイスがほしい、などという方のために
要点を絞ってのレッスン(村田担当)をするタイプです。受講生はレッスン後メールにて
恐怖の 診断書 を受け取ります。
あなたは・・・症候群!・・・ボケ・・重症・・・
などなど、ズバッと書かせていただきますぞ。ふふふ。
その健康診断でも聴講生を募集しています。というのも、限られた時間の中で
今学ぶべきポイントを絞ってのレッスンをさせていただく、というスタイルから、客観的に
判断する方法に興味がある方、教えるときの村田のやり方に興味のある方、
客観的に聞くことに興味のある方にとっても、とても刺激のある時間だからです。
私自身、たくさん学んでいます。
村は、みなさんがあってこそ耕されていきます。ぜひお越しください!
詳しくは
Devoyons’ Village公式サイト
からどうぞ!

されど外人

ほうじ茶をすすり、ふぅぅ (-。-) と安らぎ、暑い湯船に浸かって、はぁ〜〜最高 ヽ(´o`; と
くつろぐ、どう見ても日本人精神のD。
そんなDが、日本のとあるカフェに入った時のこと。
閉店間際でケーキ類がほぼなく、がっかりしていたら、そっと無言でしまっていたケーキを
ケースに幾つか出してくれたやさしい女性の店員さん。
陳列ケースが一気に華やかになり、Dはにっこり。(^-^)
Dは元来、とにかく好奇心旺盛。 新しいものや珍しいものはなんでも試したい性格。
たとえばチョコレートの詰め合わせの箱を開けてみて、一つだけアルミに包まれて、
中身が見えないものがあると、最初に手にするのは絶対にそれである。
並んだケーキを子犬のごとく物色し、ミルクレープ(だったと思う)とやらを発見。クレープ生地がミルフィーユのようにうすく何枚にも重なっていて、とても綺麗。
そのケーキをじーーーーと直近でガン見し、これ何? と聞くので、その様子を微笑ましく見守ってくれた店員さんに質問。
クレープの生地を薄く重ねて、なかにカスタードどのようなクリームを………
と事細かに説明してくれた。
たいそう満足したDは、なるほど〜 とまたご満悦。(^-^)
じゃ、私はこれにしようかな、と私が言うと、
D: あ、僕は食べないよ ♪ (゜-゜)
私:え? Σ(゚д゚lll)
(心の声) 食べんのかい o(`ω´ )o
あんなにケーキを観察し、説明をしてもらったのは、

とても気になったので、知りたい♪

という純粋な好奇心発揮だったらしい。
注文しないのを心配したやさしい店員さんは
店員: もしかして、アレルギーとかでいらっしゃいますか?
こんなに心配してもらって、肩身の狭い私…。Dはこういうとこは外人度100%発揮。わざわざケーキを出してくれて、
説明までしてくれたので買わなきゃ。。なんていう日本人精神はゼロ。
私:……いえ、あのぅ……
とためらったあと、
いえ、ただ興味深かったのだと思います(._.)
と答え、失笑をかったのでした。omz
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑧ 最終

そんな知識や自分の体をとおして感じた感情、欲望。それをなんとか音にしようとするときに一つ必要になるのが「判断力」。これは、本当に大きく欠けていると感じる。
それにはいくつかの理由がある。1つは前述の知識不足。何が良いのかがあいまいなために、今の演奏が良いのか悪いのかの判断基準がなく、わからない。
でもそれよりも危機感を感じるのは、判断しようとする意志の衰えだ。判断できるには、まず出したい音のイメージ、欲望があり、それを音にしてみて、耳で聴き、思った音が出たか判断するというプロセスを通る。
イメージし、身体で感じ、音にだし、聴いてみて、考えるのだから、かなりのエネルギーを要する。
レッスンで演奏してくれたあと、今のは自分でどう思う?と尋ねると、
んー (゜.゜)
と首をかしげるのは私が良く見るケースだ。でも、さらに怖いのは、んーといってるだけで、実は全然考えようとしていないケースが本当に多く目立つことだ。
目がビー玉みたいになっている。
先生が答えをくれるのを待っている、というシチュエーションに慣れているのか、脳を動かすことを忘れてしまっている。自分で調べ、自分で考える、自分で動くことへの喜びがない。コンピュータの前に座り、あふれ注がれる情報を浴びて、知ったつもりになって満足する。
これは怖いことだ。
判断するには、頭もいるが、耳もいる。そのどちらも自分で知らず知らずのうちに消極的に育ててしまっていると、何が良くて何がわからないかわからず、とりあえずいろいろニュアンスを付けて 偽”音楽的”なものを作り、それで本番に上がろうとする。当然、結果は見えているが、本人はなぜだめなのか、わからない。
脳は年齢で退化するのではなく、訓練次第だという。つまり自分次第だ。
私は生徒にいつも、
自分の一番の先生は、自分の耳。だから卒業までに、なんとか自分で判断できる耳を育てないといけないんだよ
と口を酸っぱくして言っている。でも、在学中はおおむね危機感がない。口では不安だといいながら、動かない。
自分でできることは思っているよりも山ほどあるのに。
普段からいろいろな言葉でボールを投げ、積極性を目覚めさせられないものかと試みているつもりだが、本当に難しい。危機感がないというのは、ある意味幼い部分があるのだろうから、人間的な成長と共にバランスよく育たないといけないのかもしれない。
指導するというのは、本当に難しい。
知識、欲望、判断力のトライアングル。これには生徒の自発性も、指導者側の忍耐強い繰り返しも必要になる。そして、ブログで書くだけでもわかるように、ものすごく時間を要する。ひとつひとつのプロセスが本当に大切なのだ。
そういった意味で、リーズでの記事(ショパン11月号)にコンクールをはしごする危険をひとこと書かせていただいた。バランスの良い成長を大切にしたい。
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑦

脳だ。人間には、”想像する”という素晴らしい才能がある。頭の中で想像し、体で感じることができるのだ。2か月も待った郵便の返事が来た時の嬉しさ。郵便馬車が近づいてきたときのたまらない緊張。時には、経験したことのないものもあるだろう。今ではありえないものもある。だからこそ、本を読んだり、映画を見たり、美術を堪能したり・・さまざまな機会をとおして、自分のイマジネーションを豊富に、そして新鮮にしていく必要がある。
私が中学の頃、とある日本人の先生のレッスンを受ける機会があった。
「あなたね、泣くっていうのはね、涙をながしてしくしくばかりじゃないの。大声で叫ぶように泣くことだってあるの。こぶしを握って大声でね。本を読みなさい」と言われた。
最近よく、”ここは張り裂けるような痛みのように弾きたいんです♪”(*^_^*) と、キラキラした目でいわれることがある。
んー (¨ )
そのきらきらした目に、死を前にした痛みって、どんなものか体で想像できているのだろうか、と疑問に思うことがある。だから、”どうやってその痛みを音に出そうとしているの?”と尋ねてみると、説得力のある返事が来ないことが多い。
 
若いから?
それは違う。いかに想像力を持つかの問題だ。
「本をたくさん読みなさいというのはね、作曲家について、いろいろ調べなさいということだけじゃないんだよ。想像力を養うためなんだ。全然関係ない小説なんかを読むのもいい。そこから想像力を豊かにするんだよ」
そんなことを先日桐朋のグループレッスンでDが高校生のグループに伝えていた。
はぁ~なるほど・・・。この歳にして私も感心してしまった。そして、Dが普段からあさるように映画を見るわけも理解できた。
この、想像力を養うこと、に関しては、教える側としては、単にどんな風に弾きたいの?と尋ねるだけではなく、それがどういう感情なのか自分の心で想像させ、音にする前に心で音楽を生かすことの大切さを伝え続ける必要があるように思う。
こうしたい、ああしたいという心からの欲望をいつも燃やし続けさせる。
そうして初めて、その感情を楽譜のどこから感じるのか、楽譜に目を向け、分析し、どのようにして実際聴衆に音で伝えられるかの模索に入っていける。
続く
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑥

次に「欲望」。私が話しているのは、もちろん”こういう音楽を表現したい”という欲望、感性についての話だ。有名になりたい、将来音楽で職を見つけたい・・そんなレベルの話ではない。
人間は感性というものを持って生まれる。その持って生まれた感性や感情は、それからの人生で様々に変化していく。それを押し殺したり、こらえたり、そんな必要性だって当然社会で生きていく上で生まれてくる。日常ではそれを押し殺したりしていくこともあるからこそ、少なくとも芸術を学ぶその瞬間、芸術の国に入った瞬間からは、それに火をともし続けなければいけない。
嬉しい・・でも、どんな嬉しさなのか。たとえば日常で、嬉しくて嬉しくてたまらなくて、道端ではじけて、わー♪♪って叫びながら走り出したら、子供でないかぎり、ものすごい怪しげな眼で見られるだろう。でも芸術の国では、嬉しくてはじけてあふれ出そうで、子供のように”音”を介してはじけ出したって良いのだ。ひとしれず、子供の頃に戻ったっていい。
涙する・・・めそめそ泣くだけではなく、声にもならない嗚咽もあれば、号泣もある。
普段決してひとまえで涙を見せないひとが、音楽で心の涙を流すことだってあっていい。
自分の感情を、感性を、もちろん作曲家が求める範囲ではあるものの、奔放にぶつけて良い。そんな自由で魅力的な国は芸術以外にないかもしれない。
少し脱線するが、”作曲家が求める範囲で”と書いた理由について書いておく。
芸術の国では創造主はあくまで作曲家であり、演奏者自身の人生を描くのではない。自分の人生や感覚と照らし合わせてみたりするのは、作曲家が刻み込んだ感情なり表現なりを、演奏側は、自分の経験や体験から想像可能な範囲で、できるかぎり強く体感してみる、という意味だ。いちいち自分の人生を重ねていたら、ひとりよがりの安っぽさにつながる危険があると私は思う。
私は日ごろから生徒に、「演奏者は 良き俳優でなければいけない」と言っている。
話を戻すと、
感情とは、もちろん、そんなロマンチックな感情ばかりではない。何かものすごい美を目の前にし、心が洗われていくような崇高な感動もあれば、何とも言えない内なる平穏もあるだろう。
様々な感情、表情を音として表現できるためには、自分というフィルターを通して、そういった感情を日頃から常に鮮明に感じ、感性を目覚めさせ続ける不断の努力をしなければいけない、ということを教える必要があるのではないだろうか。
感性は磨かないと鈍くなっていく
知らず知らずに、最終目的が脱線し、目指す芸術を体で感じないまま、指を動かして音楽をしているつもりになる、ということが起きないように。
頭だけではなく、心で感じる
そこには人間の持つ、もう一つの先天的な能力が必要となる。
続く
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑤

・・・そして、それからの道のりは長かった。
ささっと学べることではなく、要するにゼロからの積み重ねが求められたからだ。
読むも、聴くも、片っ端からいろんな曲を見て譜読みして見るのも、今までおたまじゃくししか目に入っていなかった楽譜の中を目を皿のようにして見るのも・・・何から何まで必要なわけで、ものすごい時間とエネルギーを要した・・いや、今も要している。
音楽を学ぶ、ということの意味を初めて考えた時だった。
だから、私のような幼稚な生徒を育てないためにも、教えるという立場に立った今は、生徒に、ピアノを弾くことだけではなく、作曲家についてや曲についてなど自分で調べたり、自分で弾いている曲だけではなく、いろいろなもの、とくにほかの編成のもの(歌、室内楽、オーケストラ作品)などを聴くように、繰り返し繰り返し伝え続けることが必要だと思っている。指を動かす練習は、芸術のためにやっているのであって、芸術でいったい何を作り上げるのかを前もって知らずに、指を動かして、なんとなく歌って、リンゴもバナナもすべて同じにして”弾けた”と思っているのは大変な、そして深刻な間違いだからだ。
続く

日常、遭遇したこと、思ったこと・・・を飾らず気ままに書いて行きたいと思います。