「まず音を弾けるようにして、それから表情や色彩を考えます。」
とある学生から、そんな答えがあった。絵で言えば下書きに色をつけていくイメージなのだろう。
でも実際ピアノでは「どんな音にしたいか」で「打鍵の種類」が変わるわけだ。つまり譜読みした「後で」表情や色彩を「つけている」ように感じているその作業は、実はあらためて別の種類の打鍵に変更しているだけ。つまりゼロから練習をやり直していることになる。
音を出す前に、どんな音にしたいかの音のイメージを頭の中で鳴らしていない限り、無駄な練習になる。
それだけではない。弾く前にイメージしている音がなければ、自分が出した音がそれに近いのかどうか比較し、判断する基準がない。
そうなると、練習で聴こえてくる音が良いのか悪いのかは、ミスタッチをしたかどうか、音が抜けたかどうか、ぐらいでしか判断できないことになる。そして音間違いのない、平凡な演奏が出来上がり、それをよし、としてしまう。
おそろしい悪循環。
最近のレッスンで気になるのは、どうしても思うような音が出なかったり、何か悩ましくてレッスンを受けに来ている人がほとんどいないことだ。むしろ彼らは、先生が自分の演奏をどう言ってくれるか、あるいは何か「アイディア」をくれるのではないか、といったものを求めていて、何かに「渇望して」レッスンに来ているわけではないことが非常に多い。
もっと端的にいうと、「自分の演奏にある程度満足している」状態に見えることが多い。
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とある生徒さんが、今年コンクールをいくつか受けたい、と相談してくれた。本心を伝えるか本当に迷ったが、きちんと理由を説明して、とりあえず1年間、まずはじっくり一緒に勉強して、成長が見えたら来年から少しずつコンクールを考えませんか、と提案した。コンクールを受け続ける人生を歩んできた中で、1年も受けないなんて、と焦る気持ちがあるだろうに、その子は、きちんと自分で考え、一緒に一度立ち止まり、じっくり勉強する道を選んでくれた。
こちらも、そうなるとその1年でいかに変化させられるかの大きな責任を背負うことになるが、「必要な時間」というものはかけざるを得ず、それをすっ飛ばせばいつかその子は壁にぶつかる。そう信じ、地道に毎週のレッスンを重ねている。
そうこうして数ヶ月。まだ本当に少しではあるけど、毎回のレッスンで何か変わりつつある様子が見えている。着実に何かを身につけていっていることは確かだ。私も焦らずじっくり育てたいと強く願っている。
一瞬立ち止まり、じっくり考え、そして新たに歩みだす一歩は、きっとその先の大きな手応えとなって戻ってくる。