来年2月末に、韓国は JIRISANでマスタークラスをさせていただくことになりました。
詳しくはこちら
→ マスタークラス詳細
英語と韓国語しかありませんが、私にお問い合わせいただければ詳しい内容をご説明させていただきます。
私と期間中集中的にレッスンもあれば、私のクラスとほかの先生のクラス2クラス希望なども可能です。
ソウルおよび釜山から送迎バスも出ていて、すばらしいケアをされている講習会だと思います。
日本からは中井恒仁先生と武田美和子先生もご参加になられます。
詳しい内容をご希望の方は、私までメールでご連絡ください!
国立公園となっているJirisanでご一緒できればうれしいです。
村田理夏子
日別アーカイブ: 2016年11月21日
教育とは
ベルリンの学校での仕事、レクチャーの翻訳、日本でのレッスン、フランスの講習会。様々な環境で生徒たちに接する機会を得てずいぶん経つ。老若男女、レベル・・そういうものを超えて多くの人と接していくにつれ、今必要なことは何だろうと考えることが多くなった。
若い子からよく聞かれるのが
将来が不安
という言葉。学校を出ても何か保証されるわけでもなく、不安を感じるのはとてもよくわかる。
ではその不安を少しでも減らすために何をするか・・そこに大きな疑問を感じる。
若者との多くの会話でこんな思考回路が見られる。
将来が不安だ・・・(将来とは就職をさしているらしい)→就職をできるには経歴が必要だ→コンクールをあちこち受けてみよう→コンクールで賞をとれなくても、経験を積めばなんとかなるかも。
でも・・・自分を育てる時間は?音楽を育てる時間は?
コンクールで育てる?本人はそのつもりになっていても、はたから見ているとコンクールからコンクールの準備に追われて、せっかく持っている種を世話する時間がないぐらい忙しく動き回っているだけで、問題解決は後回し。コンクールや本番を経験にするのなら、受けたあとが肝心で、それを吟味し、再構築するべきなのに、コンクールの次はもう次のコンクール探しに目が向いている。
今の時代、いい学校を出たらいい就職ができる、そんな方程式は音楽以外の世界でも通じない。年老いた人をスピードが遅いからとリストラにし、使い捨てにするような非人間的なことが横行している世の中、不幸せな人が増えていると感じる。不幸せな人というより、何か満たされていないと感じている人が多い気がする。こんなに恵まれた先進国で、普通に生活ができ、何も不服がないはずなのに、不満ばかりが募っている。
学校という時間、学生という時間はこれから将来を幸せに生きていくために<備える>貴重な時期だと思う。何を備えるのか?それは経歴でもなんでもなく、”自分を”だ。幅広く勉強し、外の世界に目を向け、たくさんの人と出会い、そうして育てるべきは感受性と思考力。人間としての繊細な感受性を磨くことと、社会に出て出会うさまざまな状況の中で自分がどうあるべきかを判断できる判断力だ。幸せに生きていけるには、自分という人間が誰かに必要とされていると感じられる必要がある。それはビジネスとしての”必要”ではない。ビジネスで必要とされようとすると、有名にならなきゃ・・となり、大きく脱線していく危険がある。
人間として必要とされるということ。必要とされるには、人間としての魅力が必要で、そのためには中身が伴わないといけない。経歴ではない。中身だ。それが幸せに生きていくための第一歩になると私は思う。そしてその必要とされるのは、パートナーからでも良い。家族からでも友達でも良い。ペットからでも良いかもしれない・・ほんとに小さなことからスタートするのではないかと思う。
考える力を付ける・・・これは本当に大切だと思う。コンピュータの中にさまざまな情報が交錯し、クリックすれば情報が降ってきて、ぼけーっとしていても何かしらの情報が降り注いでくる。自分で買いに行ったり、自分で探しに行かなくても、ネットで注文したら勝手に届く。
先進国の世の中全体におそろしいほど消極化が多方面で進んでいる結果、思考力が大きく落ちているのを感じる。何かを ”じゃ、考えてみて?”とふってみると、その目が死んでいることが本当に多い。考える、という作業に慣れていない印象だ。みていて恐ろしい。
私もDも教育機関に勤めている。教育に携わるということは、今書いたような若者たちの”備え”を手助けすることが必要になる。
門下生には卒業までに何とかして”総合的に考える力”を身に付けてもらうよう導こうと試みている。それはとても大変な作業だ。即結果を求める傾向にある今の時代、我慢強く、目には見えない大切な部分の成長を途切れないように導くことは本当に難しい。難しい時代だからこそ、一人でも自分で考え、自分の幸せに向かって進める若者を増やしたい・・の一心だ。
それと同時に音楽家であること、芸術家であることの意味と意識を本当の意味で分かってほしいと願っている。音楽家は音楽があっての芸術家だ。音楽を追及する芸術家だ。音楽を育てずに、音楽を”手段”として
職や経歴を追及して指だけまわすのなら、指芸人と呼べば良い。”音楽”に純粋に興味を持っている人があまりにも少なくなってしまったとDが日々嘆いている。知らず知らずのうちに音楽に目を向けることを忘れて、音楽が何かを成し遂げる手段となっていないか、
一度自分の胸に手を当ててみる必要があるかもしれない。
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