前回までに書いたようにハーモニーを知ることは大切だ。ただ、気を付けなければいけないのは、ここがドミナント、ここが1度になっている、ということだけを知っていても音楽という言葉は語れないということだ。同じように、ここが何調、ここで違う調に行っていると転調箇所がわかっていただけでは音楽にならないのだ。ここをしっかり理解しなければいけない。
和声の勉強と音楽を決して切り離してはいけない。
いったいどうして和声がわかっているだけや、転調がわかっているだけでは音楽にならないのだろうか。
これも言葉でたとえてみよう。たとえば、誰かに物語を話してきかせてもらっているとする。まえがきがあり、そこから主人公が現れ、ほかの登場人物が加わる。でも、問題はそこから先だ。各登場人物が、それぞれ自分のしたいことをし、自分の話だけ語っていったところで、変化はあるかもしれないが話としてなりたたない。
転調やハーモに変化、それらの『何かが起きている場所』を見つけた後はそれを一つの作品として組み込まなければいけない。そのためには、絵を書くように一歩離れ、ピアノからもついでに離れ、全体を見る必要がある。きれいなお花、きれいな家、きれいな木、きれいな山を描いても、それがバランスよく互いを支え合っていないと一つの絵にはならないだろう。どれをメインにし、それを引き立てるために、ほかのものはどういう位置づけにしたらよいのか、それをピアノから離れてみていくことも大切だ。
そうじゃないと、たとえばバッハのフーガなどは、主題の場所はしっかりわかっていても、そればっかり出したところでテーマは聴こえつつ、とめどなく転調を繰り返し、終わってみたら何も構築されていなかったという演奏になってしまう。フーガというものは、一声から始まり、ハーモニーの変化を通りながら、レンガを一つずつ積み重ねていくように構築していく建造物なのだ。ハーモニーと全体を見ながら積み上げていくことで、フーガの最後で実はすばらしい建造物が出来上がっているというわけだ。
ハーモニーを見ること、構成を考えることが何の役に立つのか。それは紙の上の音の連なりから、いったいどこに向かって、どこで閉じているのか、文章のどこが強調されているのか、という道筋をみることができる。つまり音楽に道筋を与え、命を与え、平面から立体的にするのだ。
和音を分析すること、それだけが大切なのではなく、それを通していかに音楽を説得力があり、自然であり、作曲家の求めたものに忠実に表現できるかが大切なのだと思う。
テクニックを勉強することが大切なのではなく、そのテクニックを通していかに自分の求める音に近づけられるかが大切・・・それと同じだ。
すべては音楽のためにある。
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