たとえばこの曲:
右手のメロディーだけをみていたら、曲がシーソーとはじまった時、ソにやや向かったあとは、ファソファミの方へすっーと降りてくるのが自然だろう。
でも左手の赤で丸をした和音を見てみると、この和音は、この曲の主調である変ホ長調からみると、ちょっと変わった和音だ。だからこそ臨時記号がついている。(おまけ:臨時記号は文字通り”臨時”になにか起きる時に付くので、ハーモニーや転調を探すときのサインになることも多い。)
この赤丸の音が何かが起きた場所だ、とわかったあと、これをどのように用いるか、どんなイメージをするかは、ある程度は演奏者の自由だと思う。でも何らかの形でこの一風変わった和音の箇所に音楽的な緊張が生まれないといけない。それが作曲家が私たちにハーモニーを通して示したサインだからだ。ここのケースでいえば、右手の伸びているソの音に続くファソの音のところで、まだ緊張を緩めないでくださいね、と赤丸の和音が示してくれていることになる。
同じようにその先の青い丸。青い丸の直前にはヘ短調の5度(属七)の和音がある。本来は五度から普通に1度になって閉じるのがルールだが、その前に、ワンバウンドするかのように、この青丸の和音を挟んでいる。さっきも書いたように、このワンバウンドにどんなイメージをするか、たとえば『何か自分に説得するようにうなずくような感じ』とか『ちょっと訴えるような感じ』とか・・どう解釈するかは演奏者の自由である部分も大きい。(自由と言っても前の記事に書いたように、ショパンはショパンでなければいけないので、その中での”自由”だけど。)ただ、この和音が音楽的に何かを色づけていなければいけないことには変わりない。
それが音楽にあらわれていないと、いくら和音がわかっていても、先生に ”ここは何の和音?”と質問されることになるのだ。つまり先生は、ハーモニーを確認したくて質問しているわけではなく、音楽として現れていませんよ、というメッセージを送っているわけだ。
ハーモニーは音楽の道しるべでもあり、特別な和音がある時などは、作曲家が音楽的に何かを求めているサインでもある。それを知るために、ハーモニーを見ることはとても大切になる。でも、ハーモニーをみれば充分なのだろうか…?
(続く)
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