ドイツに住んでからの12年、さまざまな体験や思いをしてきた。苦いこと、嬉しいこと、発見、驚き・・・すべてを栄養にしてきたつもりだし、これからもしていくつもりだ。
確実なことなんて何もない。むしろ、わかったと思ってしまったときが最後だと思っている。一生ずっと模索を続けるために人生があると思っているから。
日本で生粋の日本人として23年育ち、今ドイツで13年目を迎えている。その日々と体験を通して、今強く感じ、また自分というものを見失わないためにも確信を持って受け入れていることがひとつある。それは私は日本人だということ。最初のうち、外国人ぽくならなきゃ、とか、なんとかして外国人ぽく溶け込もうとしていた。でもそれは、から周りの地団太を踏むことになった。私は私。外国になじむために、私がその時必要だったことは外国人になろうとすることではなく、意外にも、自分が日本人であることを受け入れることだった。
日本にいたころやベルリンに移ってすぐ、外国人に引け目を感じていたことがある。外国人はすべてやることなすことスマートにみえ、立派に見え、何でも知っていて・・・それに引き換え自分がだめに見えたり・・。でもそれは、新しい人種、新しい文化、これまでに経験したことのないことにぶちあたるということであり、カルチャーショックといわれるものなのだろう。
問題はそこからで、そのカルチャーショックをどう受け入れていくか。そこはとても大切な過程だと思う。引け目を感じたり、それで自分がだめになることを恐れるがために、自分の殻に閉じこもったら、その時点で、傷はつかないかもしれない、でも広がる世界も限られてしまう。あるとき、自分が日本人であることを、そして自分はまだ知らないことだらけだということも認めることができ、それを自然に受け入れることができた時から、それは不思議と1つの誇りにもなり、
それから私は自然体となった。
それが私が大きく一歩変わった瞬間だった。そして、知らないということ、わからないということを恥とせず、学ぶ扉を大きくあけることとなっていた。
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外国人と接するとき、日本人であるからこその良さ、日本人であるからこそ難しさはたくさんある。でもそんな時、ふと考えてほしいことがある。
みんな人間なんだということ。
生活の過程で、それぞれの風習、それぞれの考え方があって当然で、だからこそ人生は面白い。お互いの風習の違いから、思わぬ事で傷つけたり、傷ついたりすることもある。でもそんな時、肌の色は違っても、習慣は違っても、そこで恐れて扉を閉ざさず、根本に
誰もが人間の“心”をもっている
ということに戻ることができたら、自分は違うんだと背中を向けず、相手を理解しようと心の扉が開くことになるはずだ。
外国ははっきりものを言うから、私も言おう。それを外国に住むということと履き違えてしまうと、ものをはっきりという、ただのわがままでしかない。自己主張とわがままは別のものだ。どんな国でも、どんな考え方でも、大切なことは、みんな人間だということ。表現の仕方は違っても、根本は 相手に対する思いやりを忘れず、その心をむやみに傷つける資格はないということ。
でも、傷つかないように、つけないように生きていくことで、すべてが丸くおさまっているように見えるのは表面だけ。それが美なのか・・・
バランスというものは本当に大切なものだと思う。そして同時にすごく難しいこと。欲望、思いやり、嫉妬心、プライド・・・すべて生きていく上で必要なものだと思うけれど、バランスを失った時点ですべてが崩れてしまうことがある。
はっきりとものをいう場合、言われる場合、それがどう作用するかは信頼関係にかかっている。本当の意図をつかんでくれることを祈って投げるボールは、本当に重たいものだ。思ったような信頼関係が築かれていなければ、その重いボールは、牙(きば)となって届く。そして相手も自分も傷つく。
投げてみたボールに託した思いは、どこまで届くんだろう。それが牙となって届いてしまったとき、信頼関係が成り立っていなかったことに気づき、さびしく思う。
こんなことを考えている私の春の日々です・・。
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