光る ということ

先日、フランスで国際コンクールの審査をさせていただく機会があった。つい数年前まで、目の前の舞台の上で悪戦苦闘する参加者側に自分自身がいたことを考えると、舞台上での演奏者の気持ちと熱意が痛いほどわかり、気を引き締めて真摯な気持ちで臨んだ。
舞台上と審査席。距離にすると5メートルもない場所の違いだったが、座る場所が違うだけで、非常にさまざまなことを考えさせられる機会となった。
これまで、自分が参加していた時、なんでこの演奏でだめだったんだろうと思うこともあったが、逆になんでこんな演奏で通ったんだ? という場合も多々あった。よく弾けたと思ったらだめで、失敗したと思ったら褒められた・・。こんな経験をした人は結構いるのではないかな。私はよくそれで苦しんでいた。
あるいは、コンクールの後で審査委員に話を聞かせてもらい、良かったんだけどねぇ・・・といわれ、良かったのに何で通らないの!と勝手に腹を立てたこともあった。そういう人も少なからずいるだろう。
もちろん、答えはないけれど、こういった今までの私の疑問が、今回の経験でうーん、なるほど・・・と少し納得いった部分がある。そういう点について、書いてみたい。
今回のコンクールは一次予選形式。つまり参加者がそれぞれ30分ずつ弾き、それで結果が出るというもの。2次予選などはない。審査には、コンクールによってさまざまなやり方がある。すべての参加者に各審査委員が20点満点などで点数をつけるもの、すべてを聴いてから、良かったと思った10名の名前をあげ(順列は付けず)、ある程度絞った参加者から話し合うもの。あるいは1位、2位、3位にしたい人の名前を挙げるだけのもの・・・。
その形態によって、でてくる結果も少なからず変わるであろう。点数をつけるとなると、減点のしづらい、無難な者が通る場合もあるかもしれない。今回の審査方法は残念ながら公開できないけれど、ただ今回のように一次予選のみで、比較的長めの時間聴かせていただく場合、私に起きた現象は
自然と、<光るもの>に惹かれていく・・・・
というものだった。無難な“よくできた“演奏なら、ピアニストは山のようにいるわけだから、これ以上必要ない。素晴らしい録音もいくらでもあるからCDを聴けば良いことになる。でも、この人にしかできない何か光ったものが一瞬でも見えたなら、それを評価したいと望むようになった。たとえば、
‐この楽器をここまで美しくならした人はいない,という美しい音。
‐難しいところは弾きかねているけれど、このゆっくりの部分で、こんなにも、私の心を感動させてくれた、という演奏。
‐体からみなぎるエネルギーで音楽が<湧き出る>瞬間が見えたひと。
‐息をのむような美しい弱音の世界で、会場が凍りつく瞬間を垣間見た演奏
など、何でも良い、30分ずっと素晴らしく居続けなくても、一瞬なにかきらっと光ったとしたら、それは宝ものだ。砂の中から、きらっと光った一粒の宝石は本当に美しい。その人にしかできないもの、それこそが審査席からは何よりも魅力に見えた。
もちろん、だからと言って他のところが傷だらけでは仕方がない、コンクールだから。でも、光るものが強ければ、多少の傷は、本当に気にならないものだった。
私がコンクールに参加していた頃、たとえば、大きく傷をしてしまった場合、何でこんな演奏で通ったんだろう、と思ったこともあった。でも、傷を作ったからこそ、残りの部分で何とかしたいと、必死で自分の音楽を表現しようとしていたのかもしれない。
または、ふぅ、うまくいった・・・と思ったとき。それは傷こそなかったかもしれないが、光もなかったのかもしれない・・と今となっては思う。
自分にしかできないもの。それを見つめ直すことは決して悪くないだろう。体が小さくて、どうしても体格のがっちりした男性のような音が出なくても、あるいは、手が小さくて、大きな和音が聞かせられなくても、あるいは、難しいところが速くばりばり弾けなくても・・・・でも自分だからこそできるものがあるはずだ。自分にしかできないもの。それを一度考えてみると良いかもしれない。悪いところを直すことばかりが練習でなく、自分の長所を見つめ直し、その長所をより磨き輝かせるということが、見落としがちな、でも非常に重要な要素だという気がした。
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