こんなに、時間をとってもいいのですか?
これは、硬すぎませんか?
これだと小さすぎるのでは・・・
これ、音色変わってますか?
こういうことを最近よく耳にする。硬い音、大きすぎる音・・これらを恐れることからだんだんと、演奏が小さくなってしまうケースは多い。
“だめ”なことを恐れるがゆえ、無難になる・・・これは一番避けてほしい演奏の一つ。
こんなケースに私が言うこと:
<だめ>なことを試してみればいいじゃん!
固すぎる音を避ける前に、”硬い”音を出してみる。そこから、硬くならない限界ぎりぎりのところまで戻ってこればいい。小さすぎるピアニッシモ。小さすぎる音を出してみない限り、その限界はわからない。
スフォルツァアンドやアクセントが自然かどうか。
―もし、ここにスフォルツァンドなどがなかったとしたら、どうやって弾くか。
1度 ゛なし゛で弾いてみれば、意外と簡単に見つかるんじゃないかな。
少し難しいことになるが、和声が意外な展開をする場合。当然そこで色を変化をさせたい。
その場合にも、まず和声が変化しなかった場合の、普通の和声進行で弾いてみる。
たとえば、 ドミソ→ソシレ→ミ♭ラ♭ド という和音進行があったとしたら、
ミ♭ラ♭ドで突然ハ長調ではなくなりますよね。そこで色を変えたい。
まずは、これが”普通“だったら、どうなるかを弾いてみる。つまり ドミソ→ソシレ→ミソド。そしたらおのずと、どういう色をミ♭ラ♭ドに付けたいか、すこしは見えてくるのではないだろうか。
<だめ>を試す。それがないと、知らず知らずのうちに演奏が
“安全圏”に収まってしまう。あるいは、“先生”に判断してもらわない限り、
自然なのかどうか、硬いのかどうか、判断がきかなくなってしまう。
<だめ>を試すことで、自分の演奏できる“空間”が、思っていたよりもずっと広く感じられるのではないかな。知らないうちに、”安全”という窮屈な思いをしていないかな。
音楽が持つ空間は、魚が泳げる海の範囲のようなもの。自由に泳げるように空間を大きく大きく絶えず保っていてほしい。水槽の中は、守られているかもしれないけれど・・・。
月別アーカイブ: 2006年12月
こばなし編: 悟り?
男の人にとって、”はげる”ということはかなり深刻らしい。私の母は若いころ、父の薄くなり始めた頭を
”はげはイヤ、はげはイヤ”
と言いながらマッサージしていたという。←どんな母・・・
そんなある日、若かりし父は勇気を振りしぼり、はげをなんとか防げないかだろうか、と相談に専門医を訪れることにした。
そして診察室の扉を開けたその時、
父はすべてを悟ることになる。
―――先生がはげだったのである―――
はげの専門医がはげ・・・
そして父は、
<だれも自然には逆らえない>
ということを学び家へと帰ったそうな。
うちのぱぱの小話(実話です。笑)でした。
またひとつ
またひとつ、栄養を吸収しました。笑 一生勉強。それが私のモットー。
12月8日のソプラノリサイタル。初めての歌との共演で緊張と楽しみとが入り混じっての本番となった。
楽しかった!!これが一言目の率直な感想。楽器もすばらしく、松尾楽器の目を見張る調整も加わり、私が試したかったさまざまな事を舞台上で実現できて、あっという間の90分。
1人の演奏会ではないから、歌のかたが奏でる本番での“色”を聴きながらの私の色選び。バランス選び。本番中にしかできないことに、とても良い具合で集中できた。
本来、心臓が飛び出るほどのあがり症な私。でも、“あがってるんです”と言ったところでなにも始まらない、というのだけは、これまでの様々な経験から痛感。そんなこと、お客さんはどうでもいいわけで、あがっている状態で、それをどう楽しんで音楽に集中するかが、私の永遠の課題。またいつか、この件についてもブログを書きたいのだけど、いずれにしても “今日も、あがってる!”ということにあがってしまうのが、大半のパターンだと思うので、
―今日 “も” 上がってるじゃん、私。―
みたいに、上がっている自分を“本当の自分”とうけとめて舞台に出るようになってから、少しだけだけど楽にはなってきた。いつも同様、舞台上で手がぶるぶる震えていたけど、それをみながら、これが私の”普通”の状態、と思うというか・・・。
あがり症で・・・という人が生徒にもたくさんいる。私は、自信を持って(←自身持つところか? 笑)、
“私ほどあがるひとはいるのかな・・・“
というぐらいあがるタイプ。だから、どうにかして生徒にもそれをどうコントロールするかということを手助けしてあげられたらなと思っている。またいつかブログにしてみよっと。
新しい幕開け。歌との共演。このような場に声をかけてくださった北村さんに本当に感謝。あわせでは、多くを語らず、要点だけ ”こんな感じ・・・“と伝えてくれる。その内容が非常に的を得ていて、細かいことをたくさん指示されることが苦手な私には、この要点をついた、しかも非常に的を得ているひとことひとことが、大変勉強になった。これからの成長過程で、またひとつ大きな栄養をいただいた。
いよいよだ!
8日のソプラノ歌手との共演。私にとって初めてとなる歌との共演に向け、できるだけ多くのことを吸収したいと、これまでいろいろなことを試みて来た。今回に限らずだが、普段から、本番に向けて準備期間がマンネリ化しないためにも自分なりに目標を立てるようにしている。こうすると緊張しているときに、何かに集中できるので良いという点もあると思う。
今回追求したいことは、音楽の脈と色。脈は音楽にとっての心臓ともいえると思う。”脈”をいかに自然に音楽に浸透させるかは、ソロであっても非常に難しいと常々感じているが、共演となるとさらに難関であり、まさに不可欠な最重要事項のひとつだと思っている。脈をそろえようとか合わせようとするのではなく、<相手と一緒に呼吸できること>が理想だと思う。そうは言っても、二人の違う人間であり、しかも本番にどういう脈を彼女が生み出すかは、そのときにしか分からないので、スリルであり、楽しみでもある。
そして色。これも私が永遠の課題として取り組んでいることの一つ。あの黒い楽器には無数の色の可能性が潜んでいて、どれだけそれを引き出し、また混ぜ合わせることによって、新たな色を生み出せるかを追求することは、演奏家の使命だと思う。特にピアノの特徴であり魅力は、同時に多声部を鳴らせること。1人でオーケストラができる楽器とも言えるかもしれない。それだけ、同時に出せる色の種類が多いわけだから、それらを混ぜることによって生まれる色も無限に膨らむはずである。共演となる場合には、歌のかたの作り出す”絵” 全体の雰囲気が私が置いていく色ひとつで大きく変わることになるので、大変な責任を痛感している。
たとえば、真っ白の画用紙に書かれた”家“を想像してみてほしい。描かれた絵の背景を、山にするか海にするか、朝か、夜か、春なのか、冬なのか・・・。単純にそれだけでも、この画用紙の ”家”という名の作品がまったく違って見えるのは明らかだ。歌のかたが、本番にどんな”家“を描き出すかは、私にも未知で、そこに今の私にどんな色付けができるか、責任を痛感しつつ精一杯繊細に反応できればと願っている。
脈と色。音楽の”心臓”と”命”と言えるのではないだろうか。
演奏会は、12月8日、19時より。王子ホール(銀座)にて。