~意味のある練習に向けて~ レガート(2)<歩くこと>を考える

歩く。どうやって歩いている? そんなこと考えたことなかった。
右足が地面をつかみ、左足が前に出て、その足が地面をつかんだ時点でさっきの右足が地面から離れる。
簡単なようで、とても複雑なことを、実はなんにも考えずに普段からしている私たちってすごい!
でもこれって、ピアノのレガートとまったく同じなんです。
前回のブログではなした 五つの音のレガート。”言葉“と比較することでレガートと言う感覚を説明したが、今日は ”歩くこと“を考えることで、実際に指で行っていることを説明してみたい。
歩くこと・・・上記に書いたように、歩くとき、私たちは右足と左足の見事な受け渡しで、前へ前へ円を描くように足を次々と出していく。反対に“すり足”で歩くことをイメージしたら”円を描くよう“という表現は分かってもらえると思う。
ところがピアノになると、レガートを弾きたいと思うがゆえに、1つの音を弾くと、その指を爪が白くなるぐらい鍵盤にしっかり押して、次の指が来るまでしがみついているというのをよく見かける。
でも、足の場合を考えてみる。歩くとき、地面を捉えた足は、そのまま地面にしがみついてはいない。足が地面と接触して、離れないだけで、ふんばってはいない。足の指も、がんばってはいない。ただ、その足には自然な体の重さが乗っているので、足をぐにゃぐにゃにすると倒れてしまう。だから倒れない程度に、足の裏が地面を感じて支えている。
指もまったく同じ。弾いたら次の足である“指”が来るまで、鍵盤とのコンタクトを保っていればいいだけ。しがみつく必要はなく、自然な重さを今弾いている指の腹にのせて、指が崩れないように鍵盤を感じながら支えていれば十分だ。
歩くことに戻ってみよう。次の足が来る。次の足が地面を捉えた瞬間、前の足は地面から離れている。離れているだけでなく、離れたと同時に次の一歩へむけてもう準備に入っている。
ここでも指はまったく同じことをする必要がある。ところがある音を弾いてから、次の音の準備に入ってしまう人がとてもが多い。つまり、ある音を弾いてから、その次の指の準備をする。そうすると、ジェスチャーがひとつ余計に入ることになり、ギクシャクしてしまう。
分かりやすいように、たとえば右手の2,3,4の指で順番にレミファとレガートで弾くとする。
2の指(レ)を弾いたと<同時に>、既に3の指の準備ができている必要がある。レを弾いてから、よいしょと3の指をあげていては遅い。2の指を弾いたと<同時に>3の指を上げる。確認してみてほしい。これって以外とできていないもの。
その次、3の指でミを弾くときが大事。ミを弾いた<瞬間>にしていなければならないことが3つある。
1)2の指を即座に緩める。
2)今弾いた3の指を、打鍵したと同時に緩める。この際、指の腹はと鍵盤とのコンタクトを感じているだけで、必要以上に押し付けない。
3)4の指(ファ)を準備する。
繰り返しになるが、これらが、ミを弾いた“瞬間”に、一度に<全部!!>できていないといけない。
1)ができていないと、歩くときに、次の足がもう地面についているのに、前の足もまだ引きずっていることになる。
2)ができていないと、いちいち地面に足を貼り付けて、ふんばりながら歩いていることになる。
そして
3)ができていないと、転んでしまう。
歩くことに例えると、簡単にイメージできると思う。歩くときと同様、前の足(指)から次の足(指)への受け渡しを、決して動きをとめることなく、円を描くように円滑に続けなければいけない。
そしてもうひとつ。歩くとき、次の足が地面に着く<直前>まで、その前の足に重心がまだ乗っているのはわかるだろうか。指でも同じ。次の指を準備はするものの、弾く瞬間までその前の指に重心を乗せている。そして、少しずつ次の指に移すのではなく、“一度”に移す。そうでないと、はっきりと次の音が発音されず、もやもやと口の中で言葉を話しているのと同じことになってしまう。
ここまで、2回にわたってレガートについて説明してみた。こうやって文章にするととてもややこしく感じられるかもしれない。でも家で歩いてみて、どうやって足を運んでいるか是非自分で見てほしい。完璧な足のレガートを。
歩くこと、話すこと。日常生活を見れば、レガートは誰もが自然にできていること。レガート教えてくれる先生は、ほかでもない、自分の体にあるのです!

~意味のある練習に向けて~ レガート(1)<こんにちは>から学ぶ

レガート・・・これは、私たちにとって永遠の課題だ。
レガートができない生徒が本当に多く、これをどうやって伝えたら一番分かりやすいか、長年頭を悩ませているというのが本音。まだ模索の途中ではあるが、今の時点で一番しっくりくる方法で説明してみよう。
レガートとは何か。ちょっとピアノを離れてみよう。日常生活に目を向けたとき、”完璧な“レガートと言えることを私たちは、なんてことなく誰もがおこなっている。それは
1) 言葉を話すこと
そして
2) 歩くこと。
今日はまず ”言葉“の例で、レガートととはどういうことかを説明してみよう。
<こんにちは>と発音してみる。これは完璧なレガート。みごとになめらかにつながっている。でも、なめらかにつなげているのに、こ、ん、に、ち、は という五つのことばは1つずつきちんと発音している。
そして、1つずつきちんと発音しているが、決して<棒読み>ではない。言葉がなめらかな<曲線>を描いているのは自然と分かるだろう。
ピアノでも同じこと。ドレミファソでレガートをするとしよう。
“滑らかにつなぐために、前の音を少し残して次の音を弾く”
という人がいる。
でも、そんなことは、言葉ではしていない。<こ>と<ん>や<ん>と<に>を一緒になんて言っていない(いえない・・・笑)のに、見事なレガートになっている。つまり第1にレガートの基本は
<一つずつの音をきちんと発音する>
滑らかにしたいために、ふにゃっとした音を出したり、次の音を重ねて弾いていても、きれいなレガートになるわけではない。言葉と同じで、一つ一つをはっきり発音しないと、何を言っているかわからない。
次に、<こんにちは>をまず、棒読みで発音してみて、それから正しく発音してみると分かると思うが、ほんの少しではあるが“にち”あたりに向かっていて、”は“で閉じている。つまり第2のポイントは
<決して五つの音を ”平ら“には発音していない。>
音と音を結ぶ線が<曲線>を描かなければいけない。五つ平等につなげばいいというわけではなく、そうすると言葉で言う“棒読み”と同じ結果になってしまう。
そして、もうひとつ、とても大切なポイント。
<こんにちは>に戻ってみると:
“こ”と発音した後、次の“ん”を発音するまで“こ”を責任もって発音していることに意識をしてみてほしい。“ん”が来るぎりぎりまで、“こ”といい続けている。同じように“に”というまで “ん”を発音している。かならず次の音が来るまで、前の言葉を発音し続けている。ここで第3のポイント
<発音した音を次の音が来るまで聴き、運び続ける>
ここで問題になるのが、ピアノという楽器。弦楽器や、管楽器、歌であれば、息や弓を使って次の音まで運び続けることができる。でもピアノは一度出した音は、だんだん小さくなっていく。
そこで ”耳“の出番!!!
出した音を耳で追って、消えていくその音に段差がつかないように次の音をおいていく。段差がなければいいのだから、必ずしもその前の消えていく音より小さい音を弾く必要はない。大きめの音を重ねることだって当然できる。大事なことは、
―音と音を結ぶ線が、曲線を描くこと。
次の音をいくら気をつけても、耳が今出ている音から離れてしまった時点で、決してつながらない。前回のブログのように、”一つ前の音が鍵”というのがここでも言える。耳の意識が前の音から離れてしまうと、
 こっんっにっちっはっ
と、とぎれとぎれに言っているようになってしまうか、こ”ん”にちは。や、こん”に”ちは といったように、へんなイントネーションの言葉になってしまう。
レガートという“感覚”を言葉に置き換えてみることで、少しは身近に感じられるのではないかな。部屋にこもって“こんにちは”と何回かつぶやいてみてほしい。きれいなレガートでしょう!
次回のブログで続けて、今度は ”歩くこと“を通して,レガートを実現するテクニックを説明してみたい。

あけましておめでとうございます!

あけましておめでとうございます!
ベルリンでの新年は、除夜の鐘で迎える静かな日本とは真反対の、爆竹の嵐。
外は戦場と化す。
でもこの爆竹が、やってみると面白い。もう10年近く前だけど友達と爆竹に参加してみた。手元の花火に火をつけては、道に投げる。
周りのひとたちも負けじと投げ返す。これを体験した人の中では、“怖い”派と“やめられない”派に分かれるらしい。私は、“やめられない”派だった。笑
今年は、どんな年になるかな。やりたいことがたくさんある。ひとつひとつこなしていけたらいいな。

~意味のある練習に向けて~  ―<だめ>を試す―

こんなに、時間をとってもいいのですか?
これは、硬すぎませんか?
これだと小さすぎるのでは・・・
これ、音色変わってますか?
こういうことを最近よく耳にする。硬い音、大きすぎる音・・これらを恐れることからだんだんと、演奏が小さくなってしまうケースは多い。
“だめ”なことを恐れるがゆえ、無難になる・・・これは一番避けてほしい演奏の一つ。
こんなケースに私が言うこと:
<だめ>なことを試してみればいいじゃん!
固すぎる音を避ける前に、”硬い”音を出してみる。そこから、硬くならない限界ぎりぎりのところまで戻ってこればいい。小さすぎるピアニッシモ。小さすぎる音を出してみない限り、その限界はわからない。
スフォルツァアンドやアクセントが自然かどうか。
―もし、ここにスフォルツァンドなどがなかったとしたら、どうやって弾くか。
1度 ゛なし゛で弾いてみれば、意外と簡単に見つかるんじゃないかな。
少し難しいことになるが、和声が意外な展開をする場合。当然そこで色を変化をさせたい。
その場合にも、まず和声が変化しなかった場合の、普通の和声進行で弾いてみる。
たとえば、 ドミソ→ソシレ→ミ♭ラ♭ド という和音進行があったとしたら、
ミ♭ラ♭ドで突然ハ長調ではなくなりますよね。そこで色を変えたい。
まずは、これが”普通“だったら、どうなるかを弾いてみる。つまり ドミソ→ソシレ→ミソド。そしたらおのずと、どういう色をミ♭ラ♭ドに付けたいか、すこしは見えてくるのではないだろうか。
<だめ>を試す。それがないと、知らず知らずのうちに演奏が
“安全圏”に収まってしまう。あるいは、“先生”に判断してもらわない限り、
自然なのかどうか、硬いのかどうか、判断がきかなくなってしまう。
<だめ>を試すことで、自分の演奏できる“空間”が、思っていたよりもずっと広く感じられるのではないかな。知らないうちに、”安全”という窮屈な思いをしていないかな。
音楽が持つ空間は、魚が泳げる海の範囲のようなもの。自由に泳げるように空間を大きく大きく絶えず保っていてほしい。水槽の中は、守られているかもしれないけれど・・・。

~意味のある練習に向けて~  ―カギは一つ前の音―

この12月から、MessageFromBerlinと題して、日本でプライベートレッスンを開始させていただいた。レッスンでは私の方がたくさんのことを生徒さんから学ばせてもらえて、非常に楽しみにしている。
これにあわせて、ブログ上でも私の日ごろの模索から気がついたことを、書いてみようかなと思いついた。勉強の過程での“思いつき”だから、また10年後には違うことを書いているかもしれない。でも、ま、それもいいかなと・・・。
というわけで、今回のテーマは、“鍵は一つ前の音”。
私の生徒を見ていて、特に多く見られることの一つは、”できないところを何度もただ繰り返して練習する“こと。これは、とても危険なことだと思う。”このへん“が弾けない、という場所を繰り返して弾くうちに、なんとなく正しく弾ける確率が増えてくるので、”弾けるようになってきた“と解釈して次へ進む。そりゃ、誰でも何回も繰り返したらその瞬間は、正しい音に命中する確率は増えますって。
ところが、翌日にはまた大体しか弾けず、
“先生、いつまでたってもここが弾けるようになりません”
ということになる。
たまに、
“先生、ここ、どうしても汚くなるんでどうにかしてください”
という人もいる。美容院か、私は・・・
練習をする上で、不可欠なことは、“原因を突き止める”こと。“このあたり”が弾けないのではなく、はっきりと“どの音”が原因なのか。大半の場合、ひとつ ”こいつのせいだ!“という犯人が潜んでいる。私も、自分の練習で弾けないパッセージを見つけると、まず犯人捜しに取り掛かる。この犯人、なかなか手ごわい。となりの音に濡れ衣を着せている場合が多い。ふっふっふっ、みつけたぞ。お前だなあー犯人は。
みたいな、とても怪しい練習をしている私・・・。
たとえば、右手の親指で真ん中の”ド“を弾き、すぐに小指で2オクターブうえの”ド“を
弾かなければいけないとする。
よくレッスン中に見る光景が、この2音を弾いて、飛んだ先の小指をはずしてしまい、生徒はそのまま、はずしてしまった、上の“ド”を、
にっくきヤツ、あんなに練習したのに、こいつこいつーとばかりに、“ドドドドドド”と連打。そして、そのまま先に進んでしまうのである。
あら・・・
上の“ド”は、大半の場合、無実です。かわいそうに・・・。
で、誰のせいかといえば、いろいろ可能性はあると思いますが、
(1)飛ぶ前の最初の“ド”。飛ぶことに頭が行ってしまい、この“ド”をちゃんと弾かないまま飛ぼうとすると、それは地面をちゃんと蹴らないがうえにできない鉄棒の<逆上がり>みたいなもので。
(2)二つの“ド”の間の“移動係”。えらい怠け者のせいで、移動が遅い。
ただ、(2)は、(1)が原因になって移動が<遅くなってしまう>ことが多いので、やっぱり犯人は(1)かな。
などと、考える作業が、練習の一番の基本。やみくもに弾く前に、考える。それから、それに見合った練習方法を考える。
大半の場合、”弾けない”箇所、つまりよくはずしてしまう箇所は、その”一つ前“の音が原因のことが多い。ということは、念頭においてほしい。考えずに、同じ場所を繰り返し弾くことは、
間違えたテクニックを体に記憶させてしまうことにもなり、弾けるようにならないだけでなくて、逆効果にすらなってしまう。事態を悪化させる可能性が高いので、とても気をつけてほしいと思っている。
私がよく言うことの一つ、
”がまんする”ということを覚えてほしい。
弾いてしまわず、ちょっとまって考えること。
“一つ前がカギ”
これは、”音色を変える”
場合にもいえる。
よく、
―そこ、もっと変えて―
と言われることが私もあった。ただ、変えてと言われても、え、どうやって・・・みたいな。私も随分頭を悩ませた。色を変えるためには、思ってるよりもたくさんの手段がある。これは、また次回以降のブログにまわすとして、その“たくさんの手段”のなかの一つが“一つ前の音”になるということだけ書いておきたいと思う。
色を変えるということは、どういうこと?
<変える>
つまり、これは<何かに比べて>変わっている必要がある。つまり少なくとも、二つの音がなければ ”変わった”ことにはならない。変えたいと思う音だけを一生懸命、あぁでもないこぅでもないと、弾いていても、仕方ないわけで、もっとも単純に言ってしまえば、その<前の音>と変わっていれば、色が変わったことになるということ。つまり、前の音がカギになる。前の音を責任を持って作る、聴く。このことがポイントになる。どうしても、変えようと思う音のほうに意識が言ってしまうせいで、その前がないがしろになることが多い気がする。
もう一つ、”休符“。
―休符に緊張感をもって-
これもまた、私も苦労をしたシロモノ。
あるとき、<休符に緊張感ってどうやったらできると思う?>と生徒の1人に聞いてみた。
―えっと、体も動かさないとか?-
といってその彼女は両手に、にぎりこぶしを作り、表情もみじんも動かない様子を見せてくれた。
・・・・・それって、あなた自身が緊張してるだけでしょぉ・・・(-_-#)
と、からかってみたものの、休符に命を吹き込むことは難しいことの一つ。
たとえば、お芝居で
“ねえ、きいて”
という台本をもらったとする。その後に来る文章が、どうでもいい話の場合には、
ねーきいてよぉー、彼氏がサーぁ・・・
みたいに、語尾がだらっとなるのではないかな。男の子なら、”俺サー“みたいな。
でも、なにかとても緊張した話のとき、“ね、きいてっ!!!”って私なら言うかな。
同じセリフでも、どう言葉の終わりを処理するかで、その後にくる緊張感が変わる。
まったく同じことがピアノでも言えると思う。
休符の一つ前の音。これをどう切るか。ペダルに任せず、自分で責任を持って切る。これだけでも、そのあとにある休符に命が吹き込まれる。
休符は、音の一つだと思ってほしいと、いつも生徒に言っている。休みではない。
私のレッスンのモットーは、
“どうやって”
も説明すること。深い音出して、暗い音出して、という指示だけでは、最初のうちは難しいと思う。そのためにどうすれば良いか、これを生徒と知り合って最初のうちは説明することが必要だと思っている。ただ、それはかなり難しいこと。これからの課題でもある。がんばろう・・・
MessageFromBerlinプライベートレッスン、もうすぐ12月コース終了。次回は3月。
がんばって勉強しなきゃ。

こばなし編: 悟り?

男の人にとって、”はげる”ということはかなり深刻らしい。私の母は若いころ、父の薄くなり始めた頭を
”はげはイヤ、はげはイヤ”
と言いながらマッサージしていたという。←どんな母・・・
そんなある日、若かりし父は勇気を振りしぼり、はげをなんとか防げないかだろうか、と相談に専門医を訪れることにした。
そして診察室の扉を開けたその時、
父はすべてを悟ることになる。
       ―――先生がはげだったのである―――
はげの専門医がはげ・・・
そして父は、
<だれも自然には逆らえない>
ということを学び家へと帰ったそうな。
うちのぱぱの小話(実話です。笑)でした。

またひとつ

またひとつ、栄養を吸収しました。笑 一生勉強。それが私のモットー。
12月8日のソプラノリサイタル。初めての歌との共演で緊張と楽しみとが入り混じっての本番となった。
楽しかった!!これが一言目の率直な感想。楽器もすばらしく、松尾楽器の目を見張る調整も加わり、私が試したかったさまざまな事を舞台上で実現できて、あっという間の90分。
1人の演奏会ではないから、歌のかたが奏でる本番での“色”を聴きながらの私の色選び。バランス選び。本番中にしかできないことに、とても良い具合で集中できた。
本来、心臓が飛び出るほどのあがり症な私。でも、“あがってるんです”と言ったところでなにも始まらない、というのだけは、これまでの様々な経験から痛感。そんなこと、お客さんはどうでもいいわけで、あがっている状態で、それをどう楽しんで音楽に集中するかが、私の永遠の課題。またいつか、この件についてもブログを書きたいのだけど、いずれにしても “今日も、あがってる!”ということにあがってしまうのが、大半のパターンだと思うので、 
―今日 “も” 上がってるじゃん、私。―
みたいに、上がっている自分を“本当の自分”とうけとめて舞台に出るようになってから、少しだけだけど楽にはなってきた。いつも同様、舞台上で手がぶるぶる震えていたけど、それをみながら、これが私の”普通”の状態、と思うというか・・・。
あがり症で・・・という人が生徒にもたくさんいる。私は、自信を持って(←自身持つところか? 笑)、
 “私ほどあがるひとはいるのかな・・・“
というぐらいあがるタイプ。だから、どうにかして生徒にもそれをどうコントロールするかということを手助けしてあげられたらなと思っている。またいつかブログにしてみよっと。
新しい幕開け。歌との共演。このような場に声をかけてくださった北村さんに本当に感謝。あわせでは、多くを語らず、要点だけ ”こんな感じ・・・“と伝えてくれる。その内容が非常に的を得ていて、細かいことをたくさん指示されることが苦手な私には、この要点をついた、しかも非常に的を得ているひとことひとことが、大変勉強になった。これからの成長過程で、またひとつ大きな栄養をいただいた。

いよいよだ!

8日のソプラノ歌手との共演。私にとって初めてとなる歌との共演に向け、できるだけ多くのことを吸収したいと、これまでいろいろなことを試みて来た。今回に限らずだが、普段から、本番に向けて準備期間がマンネリ化しないためにも自分なりに目標を立てるようにしている。こうすると緊張しているときに、何かに集中できるので良いという点もあると思う。
今回追求したいことは、音楽の脈と色。脈は音楽にとっての心臓ともいえると思う。”脈”をいかに自然に音楽に浸透させるかは、ソロであっても非常に難しいと常々感じているが、共演となるとさらに難関であり、まさに不可欠な最重要事項のひとつだと思っている。脈をそろえようとか合わせようとするのではなく、<相手と一緒に呼吸できること>が理想だと思う。そうは言っても、二人の違う人間であり、しかも本番にどういう脈を彼女が生み出すかは、そのときにしか分からないので、スリルであり、楽しみでもある。
そして色。これも私が永遠の課題として取り組んでいることの一つ。あの黒い楽器には無数の色の可能性が潜んでいて、どれだけそれを引き出し、また混ぜ合わせることによって、新たな色を生み出せるかを追求することは、演奏家の使命だと思う。特にピアノの特徴であり魅力は、同時に多声部を鳴らせること。1人でオーケストラができる楽器とも言えるかもしれない。それだけ、同時に出せる色の種類が多いわけだから、それらを混ぜることによって生まれる色も無限に膨らむはずである。共演となる場合には、歌のかたの作り出す”絵” 全体の雰囲気が私が置いていく色ひとつで大きく変わることになるので、大変な責任を痛感している。
たとえば、真っ白の画用紙に書かれた”家“を想像してみてほしい。描かれた絵の背景を、山にするか海にするか、朝か、夜か、春なのか、冬なのか・・・。単純にそれだけでも、この画用紙の ”家”という名の作品がまったく違って見えるのは明らかだ。歌のかたが、本番にどんな”家“を描き出すかは、私にも未知で、そこに今の私にどんな色付けができるか、責任を痛感しつつ精一杯繊細に反応できればと願っている。
脈と色。音楽の”心臓”と”命”と言えるのではないだろうか。
演奏会は、12月8日、19時より。王子ホール(銀座)にて。

持つべきものは・・・

持つべきものは・・・・
“友”というべきか・・・私が日ごろ仲良くしてもらっているうちの1人、H子。
彼女は頭の切れがよく、さばさばしていて面白い。私の仲良くなる人は、それであってどこか<ひとくせ>ある場合が多く、H子も例に漏れない。笑
彼女は、本をよく読むこともあって話題が豊富。話題が豊富な人は、好奇心が旺盛であることが多く、彼女もその1人だと思う。だから一緒にいて楽しい。(^.^)
ただ、問題は・・・
好奇心は抱くのだけど、疑問を持ったことを自分で調べない。気になることだけを、ぽろっと私にもちかけ、去っていくのである。たとえば
― ぐうの音も出ない、の“ぐう”って何なんでしょうねー。(・o・)
そういわれてみればそうだ。ぐうってなんだろう・・・。言われればやっぱり気になり、彼女と別れた後、早速調べて彼女にメール。インターネットというものはすばらしく、調べればちゃーんと載ってるんですよね。
そして、次にH子に会うと:
―そういえば、ふと思ったんですけど、けちょんけちょんって、すごい言葉だと思いません? あ、ついでに “ぎゃふん”とかも気になったんですけど・・・(^^♪
って、“けちょんけちょん”を “ふと”思いつくという彼女の生活も何かと思いますが・・・。
・・・・・・それでもH子は絶対に調べない。・・・・・(-o-)
ふと、気になったんですけど・・・と言い残して去っていく。
そしてまた私はインターネット。調べた結果をメールで送信。
世の中には “語源由来辞典”というすばらしい辞書があり、けちょんけちょん といれただけでそのサイトが出てくるんですねぇ、またこれが。 
その彼女、昨日もまたひとつ。
―にっちもさっちも って、変な言葉ですよねー。
あのなぁ。(-_-#) 自分で調べろ。
そういえば、私のもうひとり仲良しの友達にW子というのがいる。彼女も、
<理夏子ちゃん、これおいしそうだから作ってー>
と、日本のレシピの本を抱えてうちに来たことがある。
だから自分で作れって・・・(- -;)
でも、この温かい(?)友達たちのおかげで、私のレシピは増え、語彙も増えているわけだから、有難いと思うべきなのだろうか。←つとめてポジティブ シンキング。
持つべきものは、友か、それとも語源由来辞典か・・・
ちなみに、今出てきた言葉の語源はというと:
●けちょんけちょんの語源は、和歌山県日高郡の「けちょに」という方言。
「けちょに」は、「非常に」という意味で使われていた。
「けちょに」が使われる地域が広がるうちに、「けちょんけちょん」と言うようになり、現在の意味も持つようになった。
また、難癖をつける意味の「けちをつける」の「けち」が語源とも言われるが、「けち」から「けちょん」への変化が考え難い。
ただし、「けちょに」が「けちょんけちょん」となり、現在の意味となる過程で「けち」の連想が含まれていた可能性はある。
ぎゃふんの語源は、二つの感動詞「ぎゃ」と「ふん」である。
「ぎゃ」は驚き叫ぶさまを意味し、「ふん」は「ふむ」と同じ承諾を意味する。
ぎゃふんは、明治時代以降に見られる言葉で、江戸時代には「ぎょふん」と言われていた。
「ぎょふん」は、「魚粉」や「魚糞」といった意味ではなく、ぎゃふんの「ぎゃ」と同じ、「ぎょ」という感動詞である。
また、1837年に大塩平八郎が捕らえられた際、逢坂奉行町田有衛門に対し「義や噴なり、義や噴なり、悔しきかな」と訴え、この「義や噴なり」が転じて「ぎゃふん」になったとする説もある。しかし、それ以前から「ぎゃふん」と同じ意味で「ぎょふん」が使われているため、大塩平八郎の言葉が転じたとする説は考え難い。
ぐうの音もでない:詰問されたり、非を指摘された時などに、一言も反論ができないこと。 「ぐう」は、苦しいときや苦境に追い込まれたときに発する声の擬音語。 
● にっちもさっちもは、算盤(そろばん)用語が語源である。
「にっち」は「二進(にしん)」、「さっち」は「三進(さんしん)」の音が変化した語。
「二進」とは2割る2、「三進」とは3割る3のことで、ともに割り切れ、商に1が立って計算が出来ることを意味していた。
そこから、2や3でも割り切れないことを「二進も三進も行かない」と言うようになり、しだいに計算が合わないことを意味するようになった。
さらに、商売が金銭面でうまく行かないことの意味になり、身動きがとれない意味へと変化した。
だそうです。こう見ると面白いでしょ。言葉も深いですねー。

帰国レッスン“Message from Berlin” 第1回2006年 11月-12月

前回のブログで多少触れたように、長年温めてきた帰国レッスンの企画を
来年から本格的に実行してみたいと思います。それに先立ち、次回の11月の帰国にあわせて下記の要領で5名に絞り生徒を募集させていただくことにしました。留学を考えていらっしゃる方、そうでない方、どちらでももちろん結構です。ご興味のある方は、メールにて rikakomurata@aol.comにお問い合わせください。
なお、第2回目の帰国レッスン予定は、2007年3月です。
趣旨  :1)“意味のある練習”を学ぶ
     2)ベルリン芸術大学 傾向と対策 (留学を考えていらっしゃる方)
期間  :11月末―12月中旬
レッスン:原則として 期間中3回(各回1時間程度)
場所  :東京を予定
人数  :5名
1回のみのレッスンもお受付いたしますので、お問い合わせください。

日常、遭遇したこと、思ったこと・・・を飾らず気ままに書いて行きたいと思います。