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面白い!!

Devoyonによるテクニック講座最終回は2月28日。KAWAI表参道で行われる。その翻訳を今おこなっているのだが、これが・・・ものすごく!!!面白い。今回のテーマは
テンポと緊張、暗譜、ピアノに向かって。
テクニックに直結しそうでもなく、タイトルをみただけでは、いったいどんな話になるのかわからないなあ?と思っていたら、出来上がった原稿は、趣味の方も専門的に学ぶ方も、演奏者、指導者、誰にとっても驚くほど面白い内容になっていた。
テーマ①テンポとは何か? 音楽の緊張って?
わかっているようで意外とあいまい、でも私たちにとって理解することが不可欠なポイントが、日常生活を例にあげることで、とってもわかりやすく説明されている。
そして何よりも誰もが気になるテーマ
②暗譜!
これについては、緊張をどうやって乗り越えるかとか、なんとか生き残れるおまじないを考えるのではなく、
1) いったいどうして記憶があやしくなるんだろう?
2) 考えてみれば、脳っていったいどういう仕組みで記憶をしてくれているのか?
3) それならこうやって練習したほうが良い
という、納得のプロセス。
特に、その脳の話が本当に面白い!
③ピアノに向かって
普段時間のないDevoyon先生は、いったいどうやってテクニックの質などを維持されているのでしょうか?何かヒントはありますか?というご質問をいただき、どんな答えが出るのか、これまた必聴です。
目から鱗だらけの最終回。学生さんも、音楽愛好家も、指導者の方も、是非ご参加いただきたい会になりそうです。

脱力について (2)

(続き)
そして、もうひとつ、ピアニストに不可欠なのに、かなりないがしろにされているものがある。それは背中。背中といっても、肩甲骨の周りにある大きな筋肉だ。腕というのは、鳥の羽と同じく背中の肩甲骨のところから生えている。肩からではない。肩はただの通り道だ。だから肩を上下させると、背中から指までの道筋を邪魔するだけなので、何の役にも立たない。
その背中が働いていない人が本当に多い。猫背や前かがみというのは、背中の筋肉が休んでしまっているので、腕を支えていない状況になる。そうすると、腕は完全に弛緩をしてしまっているから、当然ずしっと重さが指先にかかる。そうなると、速い個所や軽い個所などは当然弾きにくい。なんとなく重くて弾きにくいぞというからだからの本能を受け取った本人は、なんとか腕を軽く感じたくて、肘を横に張り出したり、肩をあげたり、肘から肩の間の腕を無理に持ち上げたり、という癖がついていく。こういう人が本当に多い。
肘から弛緩なんてしない。膝から弛緩して歩くだろうか? 変な歩き方になってしまう。膝は、柔軟にしておくことで、足の動きについて来ているだけだ。膝から足を出しているのでも、膝から緩めているのでもない。肘も同じ。肘から何かをしているのではない。
ピアノを演奏するとき、よほどの音量を要する箇所でない限り、腕全体や体全体の重さなどが求められることは少ない。肘から先の前腕までで十分なことが多い。つまり、それ以上の重さがかからないために、実は背中で腕を始終支えているのだ。私はこのことが分かってから、かなり演奏が変わった。つい最近のことだ。背中で支えることを覚えてから、以前よりかなり自在にコントロールができるようになった。楽になったのだ。
本当の意味の弛緩。つまり必要なものは働き、必要ないものを除く感覚がつかめた生徒はみな、「こんなに楽なんですか?」という。耳や頭、集中力は本当にきついが、体力的には思っているより楽な作業でなければいけない。そうじゃなきゃ、2時間のプログラムどころか、連日本番のあるプロの人など、体がもたないことは明らかだろう。
脱力・・・この言葉が悪いのかもしれないが、これをつかむかどうかは本当に大きな転機となるだろう。私が出会うひとに、我慢強く、伝えていけたらと願っている。
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脱力について (1)

ピアノを演奏する際の”脱力”は永遠の課題ではないかと感じるほど、伝えるのも、理解してもらうのも難しい。ひとことで要約すると、脱力とは、”必要のない”緊張をほどくことだ。つまり必要のある緊張は残しておかないといけない。でも、必要な緊張って何?
ここが難しい・・・(´・ω・`)
歩くことでたとえてみよう。例えば足。足首が本当に脱力していると足はどうなるか。そう、ぬいぐるみの足のように、だらっとぶら下がる。これでは歩けない。つまり
足首が足を支えていないと歩けない。
ピアノも同じで、手首は手を支えていなければならない。そうでないとぶらっと落ちるので、指は完全にティッシュペーパーのようになってしまい、使い物にならない。結構このティッシュペーパーフィンガーで何とか弾いてやれ、と育ってきてしまった人が多く、そうなると
音を鳴らすために、腕や肘を押し込んだり、前かがみになったり、と労力は大きいが音が鳴らない、という非常に疲れるピアノの演奏法を覚えてしまう。そしていくらがんばっても、周りから大きいホールで印象が薄い、とか音が届かない、と言われてしまうのだ。
ピアノは打って鳴らす楽器だ。ティッシュペーパーフィンガーでは鍵盤に速度を送り込めない。速度が送り込めないと、ハンマーが音を飛ばしてくれない。腕で押し込んでも、速度はあがらないのだ。だから、腕をいくら押し込んでも音が実は遠くに飛んでいかず、自分の前で音が鳴っているようなのに、遠くに通らない。
ピアノを弾く際の手首の大きな役割の一つは、手を支えることなのだ。脱力しなければと、手首をふらふらさせようとするのは、正反対の結果を生んでしまう。手首は実は、たえず仕事をしている。
そして、もうひとつ、ピアニストに不可欠なのに、かなりないがしろにされているものがある。(続く)

MusicAlp2016

今年も無事にMusicAlpの講習会が終了した。私は、人数としては42名のレッスンをさせていただく機会となった。その中には、レッスン回数1回の人から、5回の人まであり。様々な人間と出会うことで、私にとって毎年はかりしれない貴重な機会になっている。
今年強く残った印象は、大半の生徒さんが心の扉をすぐに開いてくれたこと。これはレッスンの核心にすぐに入るために欠かせないプロセスだ。各自から学びたい意思が強く感じられ、心の扉が開いていたことは、とてもありがたかった。
そんな向上心あふれる若者だが、共通して不足していると感じたことが2点あった。ひとつは、テクニック面での模索。もうひとつは、楽譜の中から読み取る能力。
テクニックに関しては、何かおかしいと感じながらも、その原因をじっくり考える時間をとらず、肘を動かしてみたり、体をうねらせてみたり、なんとかカバーするという要素で回避しようとしている生徒が多くみられた。その結果、変な姿勢で無理をしていても、それが本人にとっては”慣れた”ポジションとなってしまい、無理がかかっていることに気が付かなくなる。今後のことを考えると、今、それを治すことが緊急だと感じた生徒には、そのことに絞ってレッスンをするケースも作ってみた。
基本的に私は、自分で考えてもらう力を養ってもらう方向でレッスンを進めるようにしている。私がどうこうアドヴァイスをするより、自分で考えたほうがあとにしっかり記憶として残るからだ。そういったレッスンの過程で”考える”ということ、いや、”考えつくす”ということに慣れていないと、ほぼ全員に対して感じた。少し考えてみることはあっても、つきつめていない。そのうち、考えることに疲れてしまい、私があまり質問すると、集中力が切れていく。
楽譜の中から読み取る力に関しても、同じことがいえた。ああしたい、こうしたい、という欲望があることはすばらしいのだが、なぜそうしたいのか、どうしてそう感じたのかを楽譜の中から見つけることができない。それがないと自分の感性に裏付けがないまま演奏するので、中途半端になってしまう。フランス音楽では、Crescendoはどれぐらいかけていいのでしょうか・・そんな質問をされたこともうなづける。どれぐらい・・など答えることはできないはず。というより、答えは楽譜の中にある。こういう理由で、こんなクレッシェンドを作りたい、そんな確信を楽譜から見つけられれば、おのずとCrescendoは生まれる。
楽譜の中にたくさんの落とし物をしていることに気が付いてくれた生徒は、目が輝いていった。逆に、考えることに慣れず、与えられるのを待つことに慣れてしまっている生徒は、楽譜の中にたくさんの落とし物をしていることに気付くと、やる気が薄れていくように感じることもあった。楽譜や楽器から生まれる音にはたくさんの宝物があり、無限の可能性をああでもない、こうでもないと何年もかけて探っていく。その作業が楽しいと感じるなら、続ければよい。面倒くさいと感じるなら、芸術家には向いていない。という言葉をかけざるを得ない時があった。芸術家たるものを目指すからには、そのことに今こそ気付いてほしいと感じたからだ。
この夏、私にとっては転機となる経験があった。あえて言えば決して良い経験ではない。
まさにどん底につき落とされるようなものだった。でもそこから、もう一度自分が何をしたいのか、何をすべきか、何ができるのか・・そんなことを考える機会になっている。まだはっきりとした答えは出ていない。まだしっかり立ち直れてもいない。でも、私は自分のためにも、生徒のためにも、全力で考え抜くことが好きだということだけは間違いない。そうすごした時間は決して後悔はない。だからこそ、いま目の前にある機会に全力を注ぎつつ、次の一歩は何を踏み出せばいいのか、考えている毎日だ。そういう意味で今年のMusicAlpも私にたくさんのことを考えさせてくれている。

集中力とは

もし「演奏中、集中力を保つようにね!」と言われたら、どう解釈するの?と生徒さんに聞いてみると、意外とあいまいな解釈をしているのだなと感じた。
生徒:暗譜が飛ばないように、あそこで転調して、あそこであーなって・・・、再現部はこうなる・・・。などと考えることで集中する・・・??
とんでもない。自転車で観光に出かけたり、歩いて長い距離を散策するとき、行先までの道のりを大体頭に入れて出発する。でもいざ出発したあと、あと300メートルで左に行って、そのあと右に行って、それから信号を見落とさないように・・なんて思っていたら、たどり着くだろうが散策どころじゃない。なにも味わえない。
本番の演奏では、たどり着くかどうかの競争をしているのではないのだ。
もちろん前述の道のりを把握し、大体の目印を知っておくことは当然しなければいけない。そして細かな音作りや、細かなテクニック・・・様々な詳細を丁寧に練習しておく必要性は言うまでもない。でも実際舞台で演奏するときは、それを”再現”しようとしたり、”練習した通りに”出そうと思っていたら、まずうまくいかないだろう。
なぜ?
何よりもまず、人間は機械ではない。準備した通りになんて出せない。まったく同じ音色を人生で2度出せるかと言われたら、出せないかもしれないとさえ思う。
それに、本番というのは、練習とは違う環境で演奏するからだ。もし練習していたところと同じ会場で本番を弾くとしても、緊張も違えば、客数も違う。気温も違えば、光も違う。響きも違えば、出てくる音も違う。すべてがそのときだけの雰囲気なのだから。
たとえばリンゴを描こうとする。こんな感じと思って書き始めたところ、書き出しの太さが思ったより違ったとしたら、それは”失敗”ではない。思ったより違った太さででたら、そこからリンゴになるように整えればよいだけだ。ただ、リンゴのつもりが家を書き始めた、など、あまりに想定外のことが起きないように、あらかじめ何をどういう風に描きたいのか、準備というものをしておくだけだ。
演奏中集中するということは、何よりもまず、いま生み出した音のいく末を追いかけることにあるだろう。どのように音が伸び、どのように消えていこうとしているのか。音の意思を聴きながら、次の音を置いていく。
耳を研ぎ澄ませて、生まれ行く音のいくすえを聴き続けることで、演奏家には集中が生まれ、音楽に緊張が生まれる。
では、速い音が並ぶところはどうだろう。当然いちいち一音ずつ追っていたら、どんどんテンポが遅くなっていってしまう。そこで大切なことは、音楽の”言葉”だ。日常の言葉でも、たとえば ”音楽大学” ということばをしゃべってみるとき、お ん が く だ い が く
と一つずつ確認しながらしゃべったら、当然不自然になる。頭の中に潜在する、まとまりを作るという能力を用いて、音楽大学 というものを一つのまとまりとして認識する。抑揚が生まれ、なんというか、言葉のリズムのようなものがあるだろう。
音楽も同じだ。たとえばショパンの作品10-8のエチュードで、右手を
ラソファドラソファドと1音ずつ思っていたら、弾けたもんじゃない。少なくとも8つの16分音符、さらには1小節分(16分音符16個)ぐらいをひとつの単語のように感じないといけない。たとえば音楽大学という言葉を我々が話す場合、そのことばを一息で、きれいな抑揚に響かせるよう頭の中で曲線のように言葉をイメージする。そして一つ一つ強調しないものの、どの文字も抜けず、そのイメージの曲線に乗るように何度か繰り返して発音することで、すらっと”音楽大学”と発音できるようにしみこませたわけだ。そしてしみこんだものを発音するとき、当然いちいち唇の動き、舌がどこにあたっているかなど考えない。
音楽も同じで、まずは ら そ ふぁ ど ら そ ふぁ どと一つずつきちんと発音できるようにして、それから音同士の縫い合わせ作業に入る。まずは4つ。らそふぁど をどう並べたら曲想にあう、柔軟でなめらかな曲線に響くか想像してみて、音色、抑揚を選びぬいあわせていく。
それができたら、らそふぁど らそふぁど の2グループをいかにつなげることで、コピー貼り付けの2回ではなく、一つの言葉に聞こえるか探してみる・・・そのようにして、1小節が一つの単語かのように作っていくのだ。
そして、いざ実際演奏するときは、”音楽大学”という言葉と同様、つくりあげた一つの音の言葉を全体として聞きながら弾く。全体のバランスを聴きながら弾いていくといえばよいだろうか。最初の音が思ったより大きかったら、そこから美しい曲線になるようほかの音をつじつまを合わせて並べればよい。 
集中=とぎすまされた耳
こんなあいまいな理解はたくさん見られる。その一つとして ”大きな音””緊張のある音”・・・音 についてだ。これについては 3月に行うDevoyons’ Villageの特別講座(3/27)でお話をさせていただく予定なので、興味のある方は是非。
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なぜ必要なの?(おまけ) 音楽以外の勉強・・数学、国語、地理・・など。

私は大学で音大に行くまでは普通の学校に通ってきた。思春期の私は、ときどき
――なんでこんな授業を受ける必要があるのかなあー。
とぶーたれながら授業を受けていた時期もあった。音楽やるのに、なぜ物理?なぜ哲学??
数学が好きだった私は、証明の授業とか、確率とか、熱心に勉強してきたし、物理や化学も大好きだった。歴史関係は全然覚えられず、大の苦手だったけど・・・。
でも、今となっては円周率すら忘れ、面積の出し方も完璧に忘れた。忘れるのも、ものすごく早いのだ、私は。( ̄^ ̄) エッヘン
どうせ忘れるなら、その勉強は無駄だったのだろうか。面積の出し方を覚えたところで、人生に役立たないのだろうか。
それは違う・・・・その一生懸命やってきた時間は、思考力や、客観的な物の見方、応用力など、人間として生きていく上で必要なものを養ってくれていたのだ。おさない私はそんなことに、学校を出て、だいぶ後になって気が付いた。
もっとちゃんとやっておくんだった・・・(‘〇’ 😉
人生に無駄なものなど一つもない。自分がするすべてに全力を注いでほしい。
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なぜ必要なの?(3) 構成を考えること

前回までに書いたようにハーモニーを知ることは大切だ。ただ、気を付けなければいけないのは、ここがドミナント、ここが1度になっている、ということだけを知っていても音楽という言葉は語れないということだ。同じように、ここが何調、ここで違う調に行っていると転調箇所がわかっていただけでは音楽にならないのだ。ここをしっかり理解しなければいけない。
和声の勉強と音楽を決して切り離してはいけない。
いったいどうして和声がわかっているだけや、転調がわかっているだけでは音楽にならないのだろうか。
これも言葉でたとえてみよう。たとえば、誰かに物語を話してきかせてもらっているとする。まえがきがあり、そこから主人公が現れ、ほかの登場人物が加わる。でも、問題はそこから先だ。各登場人物が、それぞれ自分のしたいことをし、自分の話だけ語っていったところで、変化はあるかもしれないが話としてなりたたない。
転調やハーモに変化、それらの『何かが起きている場所』を見つけた後はそれを一つの作品として組み込まなければいけない。そのためには、絵を書くように一歩離れ、ピアノからもついでに離れ、全体を見る必要がある。きれいなお花、きれいな家、きれいな木、きれいな山を描いても、それがバランスよく互いを支え合っていないと一つの絵にはならないだろう。どれをメインにし、それを引き立てるために、ほかのものはどういう位置づけにしたらよいのか、それをピアノから離れてみていくことも大切だ。
そうじゃないと、たとえばバッハのフーガなどは、主題の場所はしっかりわかっていても、そればっかり出したところでテーマは聴こえつつ、とめどなく転調を繰り返し、終わってみたら何も構築されていなかったという演奏になってしまう。フーガというものは、一声から始まり、ハーモニーの変化を通りながら、レンガを一つずつ積み重ねていくように構築していく建造物なのだ。ハーモニーと全体を見ながら積み上げていくことで、フーガの最後で実はすばらしい建造物が出来上がっているというわけだ。
ハーモニーを見ること、構成を考えることが何の役に立つのか。それは紙の上の音の連なりから、いったいどこに向かって、どこで閉じているのか、文章のどこが強調されているのか、という道筋をみることができる。つまり音楽に道筋を与え、命を与え、平面から立体的にするのだ。
和音を分析すること、それだけが大切なのではなく、それを通していかに音楽を説得力があり、自然であり、作曲家の求めたものに忠実に表現できるかが大切なのだと思う。
テクニックを勉強することが大切なのではなく、そのテクニックを通していかに自分の求める音に近づけられるかが大切・・・それと同じだ。
すべては音楽のためにある。
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なぜ必要なの?  その② ハーモニーを知ること ~前回の続き

たとえばこの曲:
Chopin Op9-2Edit.jpg
右手のメロディーだけをみていたら、曲がシーソーとはじまった時、ソにやや向かったあとは、ファソファミの方へすっーと降りてくるのが自然だろう。
でも左手の赤で丸をした和音を見てみると、この和音は、この曲の主調である変ホ長調からみると、ちょっと変わった和音だ。だからこそ臨時記号がついている。(おまけ:臨時記号は文字通り”臨時”になにか起きる時に付くので、ハーモニーや転調を探すときのサインになることも多い。)
この赤丸の音が何かが起きた場所だ、とわかったあと、これをどのように用いるか、どんなイメージをするかは、ある程度は演奏者の自由だと思う。でも何らかの形でこの一風変わった和音の箇所に音楽的な緊張が生まれないといけない。それが作曲家が私たちにハーモニーを通して示したサインだからだ。ここのケースでいえば、右手の伸びているソの音に続くファソの音のところで、まだ緊張を緩めないでくださいね、と赤丸の和音が示してくれていることになる。
同じようにその先の青い丸。青い丸の直前にはヘ短調の5度(属七)の和音がある。本来は五度から普通に1度になって閉じるのがルールだが、その前に、ワンバウンドするかのように、この青丸の和音を挟んでいる。さっきも書いたように、このワンバウンドにどんなイメージをするか、たとえば『何か自分に説得するようにうなずくような感じ』とか『ちょっと訴えるような感じ』とか・・どう解釈するかは演奏者の自由である部分も大きい。(自由と言っても前の記事に書いたように、ショパンはショパンでなければいけないので、その中での”自由”だけど。)ただ、この和音が音楽的に何かを色づけていなければいけないことには変わりない。
それが音楽にあらわれていないと、いくら和音がわかっていても、先生に ”ここは何の和音?”と質問されることになるのだ。つまり先生は、ハーモニーを確認したくて質問しているわけではなく、音楽として現れていませんよ、というメッセージを送っているわけだ。
ハーモニーは音楽の道しるべでもあり、特別な和音がある時などは、作曲家が音楽的に何かを求めているサインでもある。それを知るために、ハーモニーを見ることはとても大切になる。でも、ハーモニーをみれば充分なのだろうか…?
(続く)
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なぜ必要なの?  その② ハーモニーを知ること

最近はよく、ハーモニーは?という質問を耳にすることが多いのか、楽譜にV, I、IIなどと細かく書き込んである楽譜や、ここのハーモニーは?と聞くと、属七、などスムーズに答えられる生徒さんを目にすることも多くなった。
でも、ふと考えてみて欲しい。ハーモニーがちゃんとわかっているのに、なぜレッスンで先生に、ここのハーモニーは何? と質問されたのだろうか。
そもそも、演奏するうえでどうしてハーモニーを知る必要があるのだろうか。
____________
音楽は 「音で語りかける言葉」だ。言葉と同じように、
-文章のはじめや終わりがあり、
-文法と同じようにルールがあり、
-抑揚がある。
だから
-呼吸も必要だ。
私たちが日常で言葉を話すとき、生まれた時からの積み重ねで、ちょっとした文章なら、
さっと目にすればどのように抑揚をつけてしゃべったら良いかわかる。
『今日学校に行くとき、近所の人に会いました。』
こんな文章は、大体の場合、見てすぐ普通に抑揚をつけてしゃべることができるだろう。もちろん例外的に、
ある単語を強調して話さなければならない時は別だけど。
でも少し知っている程度の外国語だったらどうだろう。ちょっと考えて頭で文章を作り、頭の中でイントネーションを考えつつ話すだろう。
西洋音楽は私たちにとって外国語だ。だから、最初はハーモニーがわからなくても恥ずかしくなんてない。でも外国語と同じく
1つずつ丁寧に学ぶ必要がある。その時、音でできた一つの文章をどんな抑揚で語ったら良いのか、
それを考える時に、ハーモニーというものがその目印になる。
(続く)
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なぜ必要なの?  その① 音楽を聴くこと  ~前回の続き~

前回のブログで脱線ということを書いた。でも実はただ脱線というだけではすまされない。
たとえば、私をよく知らない誰かが、もし
りかこさんって、ふりふりのレースが付いた、かわいい洋服とか似合う人なのかなあ (゜.゜)
と聞いたら、私を知るみんなのリアクションは
 
” ( ̄w ̄) ぷっ”
であろう。
これを読みながらうなずいたア・ナ・タ、

失礼だ。(-o-)(-o-)(-o-)

ま、確かにその通りだけど…………..( _ _)σ
でも私に会ったことがない人は、私のことをそう想像することだって可能なわけだ。
音楽もそうで、何も知らなければ、ドビュッシーをブラームスのように澄まして弾けてしまったり、ショパンがリストになっていたりという、結果として『ぷっ』と笑われてしまうような間違いをしていることになる。
実際、日常では”恥ずかしい”と感じるこのような”勘違い”も、音楽では平気で恥ずかしい演奏をやってしまっていることになるのだ。
恥ずかしいだけではなく、私たち音楽家は、作曲家に対して責任があることも忘れてはいけない。
ドビュッシーとブラームスはまだ遠いとしても、
ハイドンとモーツァルト
プロコフィエフとバルトーク
ドビュッシーとラヴェル
などを弾き分けられるかというと、少し難しくなってくるだろう。
これらの違いは、ことばで説明するよりも、身体で感じるのが一番。だからこそ、たくさん聴くことが必要になるのだ。
知らないということは、時に恐ろしい。
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