「伝えたいこと」カテゴリーアーカイブ

今やるべきこと

私はレッスンをさせていただくとき、1つ心掛けていることがある。それは、
その生徒さんにとって“今”必要なことを伝えること。
目先の目標があることはとても大切なことだ。でもそのせいで決して後回しにしてはいけないのは
<今やるべきこと>
テクニックを見直したり、音楽の意味を考え直したり・・・私が伝える内容はもちろん人によって違う。
それが何であれ<今>やるべきこと、を伝えたい。
誰でも自分の核心に目を向け、何かを根本から変えようとするということは、相当の時間と労力と忍耐力、そして何よりも大きな勇気が必要となる。
やらなきゃなぁ、とは思ってはいても、実際は日々に追われ、その時間を取る勇気を持たず、時間ばかりが過ぎてしまうケースを目にするのは本当にもどかしい。でも私が代わりに動き出すことはできない。
指の使い方、楽器について知ること、練習の仕方など基礎を見直すことを勧めることも頻繁にある。そんな話をすると、恥ずかしそうにする生徒さんがいる。でも大切なことを覚えておいてほしい。
基礎に目を向けることは、決して初歩に戻る事じゃない。心臓部に目を向けるだけのこと。

本物に近づくには避けて通れないことなのだ。恥ずかしくも何でもない。
だから、とてもレベルの高い人にでも、もう一度基礎を見直してほしいと伝えることが多々ある。
なかなか動いてくれないことも多いけど、私と過ごす時間がある限り、伝え続けてみたいと思っている。
今やるべきことに目を向けることの大切さを身に染みて感じて生きてきたから。
たった1つの音階を本当に美しく演奏できる人はどれだけいるのだろうか。
本物は尊くて、とても遠い・・・だから美しいし、追い続けるのかもしれない。
私のサイトFromBerlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

何よりも大切なこと

ドイツに住んでからの12年、さまざまな体験や思いをしてきた。苦いこと、嬉しいこと、発見、驚き・・・すべてを栄養にしてきたつもりだし、これからもしていくつもりだ。
確実なことなんて何もない。むしろ、わかったと思ってしまったときが最後だと思っている。一生ずっと模索を続けるために人生があると思っているから。
日本で生粋の日本人として23年育ち、今ドイツで13年目を迎えている。その日々と体験を通して、今強く感じ、また自分というものを見失わないためにも確信を持って受け入れていることがひとつある。それは私は日本人だということ。最初のうち、外国人ぽくならなきゃ、とか、なんとかして外国人ぽく溶け込もうとしていた。でもそれは、から周りの地団太を踏むことになった。私は私。外国になじむために、私がその時必要だったことは外国人になろうとすることではなく、意外にも、自分が日本人であることを受け入れることだった。
日本にいたころやベルリンに移ってすぐ、外国人に引け目を感じていたことがある。外国人はすべてやることなすことスマートにみえ、立派に見え、何でも知っていて・・・それに引き換え自分がだめに見えたり・・。でもそれは、新しい人種、新しい文化、これまでに経験したことのないことにぶちあたるということであり、カルチャーショックといわれるものなのだろう。
問題はそこからで、そのカルチャーショックをどう受け入れていくか。そこはとても大切な過程だと思う。引け目を感じたり、それで自分がだめになることを恐れるがために、自分の殻に閉じこもったら、その時点で、傷はつかないかもしれない、でも広がる世界も限られてしまう。あるとき、自分が日本人であることを、そして自分はまだ知らないことだらけだということも認めることができ、それを自然に受け入れることができた時から、それは不思議と1つの誇りにもなり、
それから私は自然体となった。
それが私が大きく一歩変わった瞬間だった。そして、知らないということ、わからないということを恥とせず、学ぶ扉を大きくあけることとなっていた。
*********
外国人と接するとき、日本人であるからこその良さ、日本人であるからこそ難しさはたくさんある。でもそんな時、ふと考えてほしいことがある。
みんな人間なんだということ。
生活の過程で、それぞれの風習、それぞれの考え方があって当然で、だからこそ人生は面白い。お互いの風習の違いから、思わぬ事で傷つけたり、傷ついたりすることもある。でもそんな時、肌の色は違っても、習慣は違っても、そこで恐れて扉を閉ざさず、根本に
誰もが人間の“心”をもっている
ということに戻ることができたら、自分は違うんだと背中を向けず、相手を理解しようと心の扉が開くことになるはずだ。
外国ははっきりものを言うから、私も言おう。それを外国に住むということと履き違えてしまうと、ものをはっきりという、ただのわがままでしかない。自己主張とわがままは別のものだ。どんな国でも、どんな考え方でも、大切なことは、みんな人間だということ。表現の仕方は違っても、根本は 相手に対する思いやりを忘れず、その心をむやみに傷つける資格はないということ。
でも、傷つかないように、つけないように生きていくことで、すべてが丸くおさまっているように見えるのは表面だけ。それが美なのか・・・
バランスというものは本当に大切なものだと思う。そして同時にすごく難しいこと。欲望、思いやり、嫉妬心、プライド・・・すべて生きていく上で必要なものだと思うけれど、バランスを失った時点ですべてが崩れてしまうことがある。
はっきりとものをいう場合、言われる場合、それがどう作用するかは信頼関係にかかっている。本当の意図をつかんでくれることを祈って投げるボールは、本当に重たいものだ。思ったような信頼関係が築かれていなければ、その重いボールは、牙(きば)となって届く。そして相手も自分も傷つく。
投げてみたボールに託した思いは、どこまで届くんだろう。それが牙となって届いてしまったとき、信頼関係が成り立っていなかったことに気づき、さびしく思う。
こんなことを考えている私の春の日々です・・。
私のサイトFromBerlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

はがゆい

ピアノという職業を通して、私にできること、私がすべきこと。どこまでが私の役割なのか。ことあるごとに考えさせられる。愛情を持ち真剣に向かう分、傷もつく。でも、傷を恐れての妥協はしたくない。いつか一人一人の心に届くことを願いつつ、今は私の信じる方向で、まっすぐ走ってみたい。傷だらけになっても、後悔だけはしたくないから。

学生という日々

学生の時、毎日の学校生活に追われ、あまり考える余裕がなかった。
今、半人前ながら社会人となって、学生時代の宝の山だった有難い日々を痛感している。
私がベルリン芸大の学生だった時代、クラスで定期的に弾き合い会があった。毎回朝の10時、時には9時から始まり、夜の19時すぎまで・・・お昼休み1時間ぐらいを除いては、本当に1日中かかる勉強会だった。
クラスが集まり、演奏したい者が弾き、みんなでその演奏をどうすればもっと磨けるか、頭を悩ませ意見を交わし合う。面白くまた大切だったことは、先生が“こうだ”と教えるのではなく、生徒がみんなで意見を交換するということ。先生は必要があれば、言葉をはさむが、決して“答え”を述べるわけでもなんでもない。みんなで考える、という機会だ。決して人と比べるためではなく、もし今の演奏が自分だったら、どのようにこれを磨くべく練習していけばよいか、ということをいろんな意見を通して様々な角度から考えさせてもらえる貴重な機会だった。なるほど、そんな考え方もあるんだと気付かされたり、自分の意見を言おうと思っても、うまく説明できず、自分のあいまいさを痛感させられることもあった。何となくこうかな、とは思っても、実際言葉でそれを説明するということは非常に難しかった。あいまいでなく、明確な理解が必要とされるからだ。知らない曲もたくさん聴くことができ、新たな発見がたくさんあった。あの楽器から、こんな色も出るんだ・・と、色の可能性をさらに増やせる機会でもあった。頭も、耳も、心も・・・一度にたくさん勉強できた。
そして、レッスンをするようになった今、あの時の経験がどんなに役に立っていることか。
一生懸命ひたすらピアノの前で練習し、レッスンを受け、直してもらって帰る。これでは、卒業後は何も残らない。自分で理解し、消化し、活用していくためには、受け身ではどうしようもない。自発性、積極性そしてエネルギーが何よりも大切だ。
そして自分の練習だけにこもらず、仲間の演奏を聴いたり、仲間と話して栄養をもらったり・・・決して誰かと比べる為ではなく、栄養をたくさん吸収するために、そして自分の考えを方を豊かにするために仲間とともに勉強をする。いろんな人に、いろんな音に、いろんな考え方に触れてこそ、自分というものが熟成されていく。プロの演奏だけでなく、同じ世代の仲間の音楽、考え方に触れる・・・そんな貴重な機会の様に、学生だからこそできる、いや、学生の間しか充分に時間をとることができないことがたくさんある。
今しかない大切な時間。今しかできないことを、積極的にどんどん試みてほしい。決して間違いを恐れずに。
 
私のサイトFromBerlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

遅すぎなんてない

クールシュヴェール夏期国際講習会で一ヶ月強、生徒さんとともに勉強させていただいた。
そんななか、とても驚いた会話があった。あるフランス人の生徒さんとのレッスンで、
演奏の基本となる根本の話でレッスンをした時のことだ。
-本当に本当に勉強になりました。長いこと、このような根本に返って考え直したレッスンを受けたかったのだけど、実は怖くて、そんな話を先生にできませんでした
と言う。私はものすごく驚いた。
私:怖くて・・・って何が怖かったの?
彼:こんなこと今更聞いたら恥ずかしいし、他の人より遅れをとってると思われてしまうかと思って。
彼は30歳だ。こんな年になって今更基礎をなんて恥ずかしく、先生に遅れているとみなされるのが怖かったという。
ふと、彼の発言で気になった。こんな風に感じている人が他にも実はたくさんいるのではないだろうか。私は、普段のレッスンでもそうだけれど、今回のCourchevelでも、根本に戻ることの大切さをいろんな人に話してきた。
基礎に返ることは、決して遅れることでも、戻ることでもない。むしろ不可欠で、定期的に基礎に戻った確認をしてほしいぐらいだ。基礎ができていなくて、何を表現できるというのだろう。音楽は音がすべて。音ですべてを表現する。その方法があいまいでは、いくら音楽性があると言ったところで、何にもならない。
その子にも、話したことだけれど、ここにも是非ひとこと書いておきたい。
今さら・・・なんてない。基礎を学ぶことに、遅すぎも早すぎもない。
本人が、今基礎を勉強しなければと自覚したときこそがベストタイミングなのだ
ということを。
私のサイトFrom Berlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

画用紙からはみ出したクレヨンの絵、きれいに書かれた鉛筆の下書き

レッスンってなんだろう。
私の役割ってなんだろう。そんなことをふと考える時期がある。
私が、レッスンで生徒さんから持ってきてもらいたいものは、もしこの2つの絵に例えると、どちらだろうか。
1)画用紙にきれいに描かれた下書きの絵。
それとも、
2)勢いあまって、画用紙からはみ出してしまっている、クレヨンの絵。
それは、 2)である。
でも実際は、きちんと整えられた下書きの絵を持ってきて、・・これにきれいに色をつけてください・・・とばかりに、レッスンで遠慮がちに弾いてくれる人が意外と多い。もちろん、それはそれで、色をつければ、絵になるだろう。
でも、それは”私”の絵でしかない。
私が欲しいのは生徒さん自身から出てくる絵。はみ出していても良い、斬新でも良い。整っていなくても良い。
伝えたい何かさえあれば。
もちろん、何を書いても良いというわけではない。音楽には、作曲家という生みの親がいる。私たちは演奏家の使命は、作曲家が紙の上に残した音に、命を吹き込むこと。
だから、好きなことをして良いというわけではない。生みの親が、”家“をテーマとしていたら、それは家でなければいけない。木の家なら木の家でなければいけない。でも、それさえ守っていれば、そこから、私たちの想像力をたくさん取り交ぜることができるのだ。
どんな大きさの家? どんな形?
丘の上にある? 森の中にある? それとも、都会?
お昼の家の様子? それとも夜? 
その家には、誰か住んでるの? 
・・・それは、私たちが想像をふくらませて良い場所なのだ。それこそが、個性。
個性、というものを“好きなように演奏して良い”・・と勘違いしている場合もある。でも、それは違う。家は家でなければいけない。つまり、楽譜に書いてあることには、忠実にならなければいけない。
その上で、自分で精いっぱい想像力をはたらかせて、自分にしか書けない絵を、自分にしかできない音楽を持ってきてほしい。そして、私は1観客の目、耳として、こうしたほうがもっと伝わるかもね、と、一緒に考えて、より作品をその子の伝えたいものに近づけることができたら、一番幸せだと思っている。
ちょっとぐらい、はみ出していても良い。だから、<自分にしか描けない絵>を持ってきてもらいたい・・。
私のサイトMessageFromBerlinは
こちらから http://www.rikakomurata.com

聴衆から学ぶ

先日、とある本番でピアノコンチェルトを弾いた。ど緊張で舞台に出て行き、ピアノの椅子に座ると、なんといすの高さが一番高いところになっていた。普段は朝のリハーサルの時のまま、私にちょうど良い高さになっていることが多いのに。
ただでさえ、背が高い私がその椅子に座ると、高すぎるのは一目瞭然。
普段、椅子は低めの位置で弾いているため、オーケストラからもお客さんからも360度から見られている中で、上から下まで椅子を下さなければいけない羽目になった。
椅子は、左右に回すものがついているタイプ。緊張も重なって、回しても上がってるのか下がっているのか判断がつかず、結局、立ち上がって椅子の後ろへまわり、しゃがんで椅子を回し始めた。
すると、2000人を超えるお客さんから、笑いの渦が起きたのだ。まだ緊張が解けない私は、早く椅子を下げないと・・・と必死で取っ手を回すのだが、それを見てまた大爆笑。
さらに椅子に座って高さを確かめたところ、まだ高いので、首をかしげてまた調節しようと椅子の横の回すところに手をかけると、またまた、わっはっはとまでの笑い声。
前の方の席の人など、笑いすぎて、ぜぇぜぇ、ひぃーひぃーとまで言っている。それにあわせて、後ろの席からは会場に拍手まで起きてしまった。
そこでふと、私は
あ・・・そうなんだ、みんなエンタテイメントとして演奏会に来てるんだった。
楽しみ来てるんだよな。
と気づかされた。ちゃんと弾けるか、そんなことを見に来てるわけじゃない。お客さんは、安らぎと美しい音楽を求めて、娯楽を求めて来てるんだと。
すると、すぅっと緊張が和らいだ。
私の役割は、オーケストラと一体になって、“音楽”をホールいっぱいに奏でることなんだと。
ちゃんと弾けるかどうか・・・、大切なのはそんなことではない。
私の感じる音楽を、私の言葉で、この楽器から1つずつ“語っていけば良い”のだと
とはいっても、ホール全体から笑いを取る予定ではなかったため(笑)、ちょっとびっくりして、私の方の集中力が不十分な状態から演奏に入ってしまったけれど、本当にありがたいことを教えてもらった。またひとつ、本番を通してお客さんから勉強させていただいた。
私のサイトFromBerlinへは
こちらからhttp://www.rikakomurata.com

伝えたいこと(4) 練習に必要なこと

いつのまにかマンネリ化してしまうことがある=練習がつまらない。こういう悪循環になるときは、知らないうちに何かが欠けてしまっていて、それに気がつかず、ただやらなきゃという使命感だけでおし進めてしまい、結局は空回りしてしまっていることが多い。
何が欠けているんだろう。
“本当の意味での”練習に必要なこととして、私はこの3つを上げる。
1) 向上心
2) 忍耐力
そして
3) 好奇心
1) は、<上手になりたい><ここを弾けるようにしたい>など何でも良い。きっと
さまざまな形で、みんな多かれ少なかれ持っているだろう。
2) は、曲の続きがどうなるのかが気になるとか、通して弾きたい、このかっこいいクライマックスまで弾きたいなど、つい通し練習が増えてしまう場合。または、少し弾けないところがあっても、ちょっとそこを弾き直したらすぐ先に行こうとしてしまうケース。そんな先へ進みたい欲望をぐっと抑えて、今練習しているこの場所がしっかり手に入るまで練習する必要性を忘れないでほしい。大体できたら次に行く、だと、結局また戻ってしまう。そして、できたと思ったら、確認の意味も含めて<更に>磨く。あわてず、丁寧に深く練習。これが一番の近道。
  本にたとえてみよう。話の先が気になって、ざっと読み進めてしまうことがある。でも結局、登場人物や状況が把握できなくなって数ページ戻って読み直すことになるという経験はないだろうか。
そして最も大切なのは
3) 好奇心。
ひとつのイメージがあるとする。それが音にできたと思っても満足せず、ほかの可能性はないだろうかと探してみる。たとえば、劇であるセリフを読むとき、うれしそうな表情が欲しいとする。うれしさがあふれるように、早口に読んでも良い。声の質を明るくしてもよい。でもうれしさをあえてこらえ様としているような感じでも面白いかもしれない。あふれているというより、満たされた安心感、満足感の漂う嬉しさかもしれない、あるいはその前になにか緊張することがあって、それが緩むほっとしたうれしさはどうだろう。イメージひとつでも、たくさんの可能性がある。
または指使い:楽譜に書いてあるのを試してみる。しっくりいったとしても、もしかしたらほかにもっと良い方法があるかもしれない。でも弾きやすくても、音楽的な表情をだすためには、あえて弾きにくい方の指使いの方がよいかもしれない。10本の指があるのだから、あれこれ試してみたい。
ある作曲家の曲を弾くとする。そういえば、この人ってほかにどんな曲を書いたんだろう。ピアノに限らず、室内楽、シンフォニー、歌曲、管楽器・・・たくさん聴いてみるのは不可欠だ。ベートーヴェンのソナタなら、自分の与えられた曲だけではなく、ほかの曲を弾いてみるのも良いだろう。
可能性を増やすのは、自身の“好奇心”。
私も初心に戻って、がんばろっと。
私のサイト、FromBerlinへは こちらからhttp://www.rikakomurata.com

伝えたいこと (3) 泥んこになる

なんか・・・・最近いろんな生徒たちを見ていて、強く感じることがある。
―とてもじれったい。もどかしい。
レッスンをするということは、想像していた以上にとても難しい。痛感している難しさの1つが、生徒とのバランスを見つけること。
どんな状況でも絶対に手を抜かず、全力投球しているつもりだ。もっと高いものを望んで欲しい、もっとがんばって欲しい、そんな思いを伝えたくて、必死で向かっている。でもふと私だけが必死になっているんじゃないかと感じることがある。相手はそこまで望んでいないのかな。と疑問がよぎる。教えていて、一番さびしい瞬間だ。
もっと美しい音がないのだろうか、もっとこの部分に違う可能性がないのかな。もっといろんな曲を知りたい。もっと成長したい・・・。失敗しても、恥をかいても、間違えた方向でも何でも良い。私が留学を始めた頃、なんかもっともっと突っ走っていた。私だけではなく、周りもみんなそうだった気がする。限られた数年の留学で、ひとつでも多く学びたいと、1つ1つのレッスン、1つ1つの言葉、一つ一つの機会を絶対に漏らさないように、必死だった。
まさに、
がむしゃら。
がむしゃらに突っ走る分、壁にどっかんどっかんぶちあたった。あたれば方向を変えればよい。あたったぶん痛いし苦しいけど、なにか身についているはず。そう信じて突っ走った。
スマートに生きたい。早くうまくなれるように近道を見つけたい。落ち込んでいるところを見られたくない。恥をかきたくない。格好悪いところを見られたくない。ある程度はもう自分でできるところを見せたい。こんなこと先生に聞いたら恥ずかしいかな。
生徒たちにそんな思いが渦巻いているように見える。
中学や高校の頃、体育祭で走るとき、一生懸命走る姿を恥ずかしがって、手を抜いて走る女の子がたくさんいた。どっちが格好悪いのかな。良いのかな、本当にそれで。
泥んこになってほしい。
子供のときのように、無心で突っ走ってみればよいのに。無茶をして突っ走る。それができるのは、学生である今しかないのに。

伝えたいこと (2) 2006年夏

この夏も、フランスのクールシュベール夏期国際音楽祭で指導をさせていただいた。
日本人の生徒さんをお世話させていただく機会が多いので、ファッションのように、音楽にも毎年違った、はやりの演奏傾向が見えて面白い面もある。
ここ数年、個性という名のもとか、非常に<はみ出した>演奏が多い。体を大きく動かし、楽譜の指示に沿わない演奏をする。とても心配であり、残念な傾向だと思う。個性ということは、楽譜に書いてあることとは違うことをする、ということではない。むしろ楽譜に書いてあることにできる限り忠実に演奏することは、一番大切なことのひとつだと私は思っている。ただ、書いてあることに忠実ということが、フォルテだから大きく、デクレッシェンドと書いてあるから小さくする、ということではない。なぜフォルテと書いたか、なぜ、アクセントと記入したのか・・・。作曲家の意思は楽譜の上にすべて記されている。その読み取りは非常に難しいと同時に、私たちに課された使命でもあり、どう解釈するかで演奏に“個性”の差が出るともいえると思う。
考えること、聴くこと。この不足が顕著に見える。ベルリンでも同じ傾向にある。先生の指示を待つ、いわゆる“受身”の生徒が非常に多い。今弾いた演奏がいいのか悪いのか。自分で判断できない限り、どうやって練習するのだろう。
もうひとつ、とても気になったのは、楽器を鳴らすことができない生徒がほとんどだということ。大きく鳴らすという意味ではない。楽器が持つ最大の美しい音を出せないひとが非常に多い。むしろ大半といえた。あの黒い楽器には、無数の色が潜んでいる。ピアニストにとって”音“は表現の唯一の手段である。ジェスチャーでもなければ、大きさや速さでもない。私たちは”音“を使って表現する芸術家であることを忘れないでほしい。
絵の具が少なければ混ぜてできる色も少ない。パレットの上に、美しいおとを増やさない限り、いくら心に音楽があっても伝えることはできないということ痛感してほしい。
私がよく言う言葉がある。
<音は命。どんなにひどい楽器だったとしても、楽器を批判する前に、それがもつ最大限の美しい音を引き出すように。>と。
そのためには、なによりも楽器のことをもっと知る必要がある。その上で
余計なジェスチャーをできるだけ避け、頭の中にある音にできるだけ近い音を作れるよう、耳を最大に使って模索する必要がある。
このところ考えていることがある。日本でも生徒を持ってみようか、ということ。最近、日本に帰国するたびにレッスンをしてくれないか、という依頼をいただくことがあり、どのようなスタイルが一番有効か、考え始めていたところだった。
私の生徒には、音楽の原点に戻った一番根本の大切なところを教えたい。そのためには、数日ではなくある程度長期にわたるレッスンの必要性を感じている。来年3月ぐらいから、人数を限定して生徒を募集し、年間数回帰国して、一年にわたって一緒に勉強してみようかな・・・。どうでしょう・・・