「伝えたいこと」カテゴリーアーカイブ

遅すぎなんてない

クールシュヴェール夏期国際講習会で一ヶ月強、生徒さんとともに勉強させていただいた。
そんななか、とても驚いた会話があった。あるフランス人の生徒さんとのレッスンで、
演奏の基本となる根本の話でレッスンをした時のことだ。
-本当に本当に勉強になりました。長いこと、このような根本に返って考え直したレッスンを受けたかったのだけど、実は怖くて、そんな話を先生にできませんでした
と言う。私はものすごく驚いた。
私:怖くて・・・って何が怖かったの?
彼:こんなこと今更聞いたら恥ずかしいし、他の人より遅れをとってると思われてしまうかと思って。
彼は30歳だ。こんな年になって今更基礎をなんて恥ずかしく、先生に遅れているとみなされるのが怖かったという。
ふと、彼の発言で気になった。こんな風に感じている人が他にも実はたくさんいるのではないだろうか。私は、普段のレッスンでもそうだけれど、今回のCourchevelでも、根本に戻ることの大切さをいろんな人に話してきた。
基礎に返ることは、決して遅れることでも、戻ることでもない。むしろ不可欠で、定期的に基礎に戻った確認をしてほしいぐらいだ。基礎ができていなくて、何を表現できるというのだろう。音楽は音がすべて。音ですべてを表現する。その方法があいまいでは、いくら音楽性があると言ったところで、何にもならない。
その子にも、話したことだけれど、ここにも是非ひとこと書いておきたい。
今さら・・・なんてない。基礎を学ぶことに、遅すぎも早すぎもない。
本人が、今基礎を勉強しなければと自覚したときこそがベストタイミングなのだ
ということを。
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画用紙からはみ出したクレヨンの絵、きれいに書かれた鉛筆の下書き

レッスンってなんだろう。
私の役割ってなんだろう。そんなことをふと考える時期がある。
私が、レッスンで生徒さんから持ってきてもらいたいものは、もしこの2つの絵に例えると、どちらだろうか。
1)画用紙にきれいに描かれた下書きの絵。
それとも、
2)勢いあまって、画用紙からはみ出してしまっている、クレヨンの絵。
それは、 2)である。
でも実際は、きちんと整えられた下書きの絵を持ってきて、・・これにきれいに色をつけてください・・・とばかりに、レッスンで遠慮がちに弾いてくれる人が意外と多い。もちろん、それはそれで、色をつければ、絵になるだろう。
でも、それは”私”の絵でしかない。
私が欲しいのは生徒さん自身から出てくる絵。はみ出していても良い、斬新でも良い。整っていなくても良い。
伝えたい何かさえあれば。
もちろん、何を書いても良いというわけではない。音楽には、作曲家という生みの親がいる。私たちは演奏家の使命は、作曲家が紙の上に残した音に、命を吹き込むこと。
だから、好きなことをして良いというわけではない。生みの親が、”家“をテーマとしていたら、それは家でなければいけない。木の家なら木の家でなければいけない。でも、それさえ守っていれば、そこから、私たちの想像力をたくさん取り交ぜることができるのだ。
どんな大きさの家? どんな形?
丘の上にある? 森の中にある? それとも、都会?
お昼の家の様子? それとも夜? 
その家には、誰か住んでるの? 
・・・それは、私たちが想像をふくらませて良い場所なのだ。それこそが、個性。
個性、というものを“好きなように演奏して良い”・・と勘違いしている場合もある。でも、それは違う。家は家でなければいけない。つまり、楽譜に書いてあることには、忠実にならなければいけない。
その上で、自分で精いっぱい想像力をはたらかせて、自分にしか書けない絵を、自分にしかできない音楽を持ってきてほしい。そして、私は1観客の目、耳として、こうしたほうがもっと伝わるかもね、と、一緒に考えて、より作品をその子の伝えたいものに近づけることができたら、一番幸せだと思っている。
ちょっとぐらい、はみ出していても良い。だから、<自分にしか描けない絵>を持ってきてもらいたい・・。
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聴衆から学ぶ

先日、とある本番でピアノコンチェルトを弾いた。ど緊張で舞台に出て行き、ピアノの椅子に座ると、なんといすの高さが一番高いところになっていた。普段は朝のリハーサルの時のまま、私にちょうど良い高さになっていることが多いのに。
ただでさえ、背が高い私がその椅子に座ると、高すぎるのは一目瞭然。
普段、椅子は低めの位置で弾いているため、オーケストラからもお客さんからも360度から見られている中で、上から下まで椅子を下さなければいけない羽目になった。
椅子は、左右に回すものがついているタイプ。緊張も重なって、回しても上がってるのか下がっているのか判断がつかず、結局、立ち上がって椅子の後ろへまわり、しゃがんで椅子を回し始めた。
すると、2000人を超えるお客さんから、笑いの渦が起きたのだ。まだ緊張が解けない私は、早く椅子を下げないと・・・と必死で取っ手を回すのだが、それを見てまた大爆笑。
さらに椅子に座って高さを確かめたところ、まだ高いので、首をかしげてまた調節しようと椅子の横の回すところに手をかけると、またまた、わっはっはとまでの笑い声。
前の方の席の人など、笑いすぎて、ぜぇぜぇ、ひぃーひぃーとまで言っている。それにあわせて、後ろの席からは会場に拍手まで起きてしまった。
そこでふと、私は
あ・・・そうなんだ、みんなエンタテイメントとして演奏会に来てるんだった。
楽しみ来てるんだよな。
と気づかされた。ちゃんと弾けるか、そんなことを見に来てるわけじゃない。お客さんは、安らぎと美しい音楽を求めて、娯楽を求めて来てるんだと。
すると、すぅっと緊張が和らいだ。
私の役割は、オーケストラと一体になって、“音楽”をホールいっぱいに奏でることなんだと。
ちゃんと弾けるかどうか・・・、大切なのはそんなことではない。
私の感じる音楽を、私の言葉で、この楽器から1つずつ“語っていけば良い”のだと
とはいっても、ホール全体から笑いを取る予定ではなかったため(笑)、ちょっとびっくりして、私の方の集中力が不十分な状態から演奏に入ってしまったけれど、本当にありがたいことを教えてもらった。またひとつ、本番を通してお客さんから勉強させていただいた。
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伝えたいこと(4) 練習に必要なこと

いつのまにかマンネリ化してしまうことがある=練習がつまらない。こういう悪循環になるときは、知らないうちに何かが欠けてしまっていて、それに気がつかず、ただやらなきゃという使命感だけでおし進めてしまい、結局は空回りしてしまっていることが多い。
何が欠けているんだろう。
“本当の意味での”練習に必要なこととして、私はこの3つを上げる。
1) 向上心
2) 忍耐力
そして
3) 好奇心
1) は、<上手になりたい><ここを弾けるようにしたい>など何でも良い。きっと
さまざまな形で、みんな多かれ少なかれ持っているだろう。
2) は、曲の続きがどうなるのかが気になるとか、通して弾きたい、このかっこいいクライマックスまで弾きたいなど、つい通し練習が増えてしまう場合。または、少し弾けないところがあっても、ちょっとそこを弾き直したらすぐ先に行こうとしてしまうケース。そんな先へ進みたい欲望をぐっと抑えて、今練習しているこの場所がしっかり手に入るまで練習する必要性を忘れないでほしい。大体できたら次に行く、だと、結局また戻ってしまう。そして、できたと思ったら、確認の意味も含めて<更に>磨く。あわてず、丁寧に深く練習。これが一番の近道。
  本にたとえてみよう。話の先が気になって、ざっと読み進めてしまうことがある。でも結局、登場人物や状況が把握できなくなって数ページ戻って読み直すことになるという経験はないだろうか。
そして最も大切なのは
3) 好奇心。
ひとつのイメージがあるとする。それが音にできたと思っても満足せず、ほかの可能性はないだろうかと探してみる。たとえば、劇であるセリフを読むとき、うれしそうな表情が欲しいとする。うれしさがあふれるように、早口に読んでも良い。声の質を明るくしてもよい。でもうれしさをあえてこらえ様としているような感じでも面白いかもしれない。あふれているというより、満たされた安心感、満足感の漂う嬉しさかもしれない、あるいはその前になにか緊張することがあって、それが緩むほっとしたうれしさはどうだろう。イメージひとつでも、たくさんの可能性がある。
または指使い:楽譜に書いてあるのを試してみる。しっくりいったとしても、もしかしたらほかにもっと良い方法があるかもしれない。でも弾きやすくても、音楽的な表情をだすためには、あえて弾きにくい方の指使いの方がよいかもしれない。10本の指があるのだから、あれこれ試してみたい。
ある作曲家の曲を弾くとする。そういえば、この人ってほかにどんな曲を書いたんだろう。ピアノに限らず、室内楽、シンフォニー、歌曲、管楽器・・・たくさん聴いてみるのは不可欠だ。ベートーヴェンのソナタなら、自分の与えられた曲だけではなく、ほかの曲を弾いてみるのも良いだろう。
可能性を増やすのは、自身の“好奇心”。
私も初心に戻って、がんばろっと。
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伝えたいこと (3) 泥んこになる

なんか・・・・最近いろんな生徒たちを見ていて、強く感じることがある。
―とてもじれったい。もどかしい。
レッスンをするということは、想像していた以上にとても難しい。痛感している難しさの1つが、生徒とのバランスを見つけること。
どんな状況でも絶対に手を抜かず、全力投球しているつもりだ。もっと高いものを望んで欲しい、もっとがんばって欲しい、そんな思いを伝えたくて、必死で向かっている。でもふと私だけが必死になっているんじゃないかと感じることがある。相手はそこまで望んでいないのかな。と疑問がよぎる。教えていて、一番さびしい瞬間だ。
もっと美しい音がないのだろうか、もっとこの部分に違う可能性がないのかな。もっといろんな曲を知りたい。もっと成長したい・・・。失敗しても、恥をかいても、間違えた方向でも何でも良い。私が留学を始めた頃、なんかもっともっと突っ走っていた。私だけではなく、周りもみんなそうだった気がする。限られた数年の留学で、ひとつでも多く学びたいと、1つ1つのレッスン、1つ1つの言葉、一つ一つの機会を絶対に漏らさないように、必死だった。
まさに、
がむしゃら。
がむしゃらに突っ走る分、壁にどっかんどっかんぶちあたった。あたれば方向を変えればよい。あたったぶん痛いし苦しいけど、なにか身についているはず。そう信じて突っ走った。
スマートに生きたい。早くうまくなれるように近道を見つけたい。落ち込んでいるところを見られたくない。恥をかきたくない。格好悪いところを見られたくない。ある程度はもう自分でできるところを見せたい。こんなこと先生に聞いたら恥ずかしいかな。
生徒たちにそんな思いが渦巻いているように見える。
中学や高校の頃、体育祭で走るとき、一生懸命走る姿を恥ずかしがって、手を抜いて走る女の子がたくさんいた。どっちが格好悪いのかな。良いのかな、本当にそれで。
泥んこになってほしい。
子供のときのように、無心で突っ走ってみればよいのに。無茶をして突っ走る。それができるのは、学生である今しかないのに。

伝えたいこと (2) 2006年夏

この夏も、フランスのクールシュベール夏期国際音楽祭で指導をさせていただいた。
日本人の生徒さんをお世話させていただく機会が多いので、ファッションのように、音楽にも毎年違った、はやりの演奏傾向が見えて面白い面もある。
ここ数年、個性という名のもとか、非常に<はみ出した>演奏が多い。体を大きく動かし、楽譜の指示に沿わない演奏をする。とても心配であり、残念な傾向だと思う。個性ということは、楽譜に書いてあることとは違うことをする、ということではない。むしろ楽譜に書いてあることにできる限り忠実に演奏することは、一番大切なことのひとつだと私は思っている。ただ、書いてあることに忠実ということが、フォルテだから大きく、デクレッシェンドと書いてあるから小さくする、ということではない。なぜフォルテと書いたか、なぜ、アクセントと記入したのか・・・。作曲家の意思は楽譜の上にすべて記されている。その読み取りは非常に難しいと同時に、私たちに課された使命でもあり、どう解釈するかで演奏に“個性”の差が出るともいえると思う。
考えること、聴くこと。この不足が顕著に見える。ベルリンでも同じ傾向にある。先生の指示を待つ、いわゆる“受身”の生徒が非常に多い。今弾いた演奏がいいのか悪いのか。自分で判断できない限り、どうやって練習するのだろう。
もうひとつ、とても気になったのは、楽器を鳴らすことができない生徒がほとんどだということ。大きく鳴らすという意味ではない。楽器が持つ最大の美しい音を出せないひとが非常に多い。むしろ大半といえた。あの黒い楽器には、無数の色が潜んでいる。ピアニストにとって”音“は表現の唯一の手段である。ジェスチャーでもなければ、大きさや速さでもない。私たちは”音“を使って表現する芸術家であることを忘れないでほしい。
絵の具が少なければ混ぜてできる色も少ない。パレットの上に、美しいおとを増やさない限り、いくら心に音楽があっても伝えることはできないということ痛感してほしい。
私がよく言う言葉がある。
<音は命。どんなにひどい楽器だったとしても、楽器を批判する前に、それがもつ最大限の美しい音を引き出すように。>と。
そのためには、なによりも楽器のことをもっと知る必要がある。その上で
余計なジェスチャーをできるだけ避け、頭の中にある音にできるだけ近い音を作れるよう、耳を最大に使って模索する必要がある。
このところ考えていることがある。日本でも生徒を持ってみようか、ということ。最近、日本に帰国するたびにレッスンをしてくれないか、という依頼をいただくことがあり、どのようなスタイルが一番有効か、考え始めていたところだった。
私の生徒には、音楽の原点に戻った一番根本の大切なところを教えたい。そのためには、数日ではなくある程度長期にわたるレッスンの必要性を感じている。来年3月ぐらいから、人数を限定して生徒を募集し、年間数回帰国して、一年にわたって一緒に勉強してみようかな・・・。どうでしょう・・・

伝えたいこと・・・(1)

好きではじめたはずの音楽。
音大に入りたい、プロになりたい、留学したい。入学試験、コンクール・・・
趣味からプロへの道には、試験、コンクールなどさまざまな乗り越えなければならないものがある。でも、乗り越える過程で、“好きで”はじめたはずの音楽が、苦しみになっていく。うまく弾かなきゃ・・・。これに合格しなきゃ・・・。
必死に練習し、必死にあがいているうち、目的がそれ、楽しみや音楽に接する喜びがどこかにいってしまっていないだろうか。表現 “したい”のではなく、“しなければ”になっていないだろうか・・・。
私がまさにそうだった。好きなのに、本番に行くと戦いになっている。震える自分との戦い。最近になって、目覚めた気がする。コンクールには遅い年齢になり、入試などの試験からも開放され、やっと自分が音楽と向き合えた今。戦いで通り過ぎた20代を複雑な思いで振り返っている。もっと違う見方ができていたら・・・。
両手一緒にひくのがやっとなうちのパパ。ときどき、思い出したようにピアノに座り、誰の曲でもないメロディーを、淡々と奏でることがある。自分の感じるままに、音を並べていく。指が動かなくても、上手に弾けなくても、好きで奏でている。この姿こそが本当の音楽家の源ではないのかな。
30代になり、指導する立場から見るようになって数年。
私が接している今の若い才能ある生徒たち。今の時点で方向を間違えてほしくない。コンクールは反対しない。私はコンクールからもたくさん学んだ。ただ、音楽に接した瞬間、ピアノの前に向かった瞬間から、それがコンクールであれ、演奏会であれ、あるいは練習であれ、本来あったはずの喜びを忘れないでほしい。プロを目指すなら、競争ではなく、戦いでもなく、本物の ”音楽“を目指して模索してほしい。
私が生徒によく言う言葉がある。
-ひとつでも音を出す以上、意味のない、心のない音は出さないで。
私もこれから、一生をかけて勉強し続けていこう。