ひそかな疑問

Dの名前はパスカル。外国ではよくある名前だ。そのパスカルが、別のパスカルと
昨晩、一緒にご飯を食べたらしい。
私に、
D:明日の夜 パスカルとご飯するから♪ (^^)/
と言われ、なんだか変な感じ。私だったら
Rikakoという友達とご飯するとき、Rikakoと行くからというと、すごく違和感がある気がする。おそらく、同じ名前ならあだ名をつけて、別の呼び名を決めるだろう。
だってご飯の時の会話も、
「Pascalさあ、あのことどう思う?」
「そうだね、僕はこう思うけど・・。でもPascalはどう思う?」
となったら・・・
ウ ザ イ (-_-)
というわけで、一体どうやって会話してるのか、帰ってきたら聞いてみよっと。(・。・)
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パリの今

演奏会と合わせのため、久しぶりにパリに入った。EU内の移動では基本的に入国審査はない。パスポートの携帯は必須だが、ベルリンからパリの往復では搭乗時にパスポートで本人確認をしなことも多々あり。搭乗券だけを片手に電車に乗るような感覚で移動できる。
……はずだったが
今回は違った。パリの空港に着くなりいつもとは違う出口を案内され、そこにはずらっと並んだ入国審査官。緊張が感じられる。空港内にも、軍服を着た兵士がライフルをお腹の前に構え、あちこちに配備されている。数メートルに1人配備されているという場所もあった。
空港を出て街の中心部に入る。一見普段と変わらない様子だが、やはり違った。Nespressoのお店の前を通ると、お客さん一人一人の手荷物を来店時に確認しているのが見える。ユニクロなんかでもそうらしい。
それを目にするたび、体がふと引き締まる。
毎年演奏をさせていただいているパリのアンヴァリッド。そこもいつもとは違った。正門で入管の理由を聞かれ、手荷物検査。着ているコートのボタンをあけ、中に何か隠していないか確認。そしてやはりライフルを手にした兵士が数名いる。
たくさんの警備があることは安心でもあるが、危険のサインでもある。
今回の滞在ではパリの街をねり歩いてみた。毎日10キロは歩いただろう。この町は本当に美しい。道路はゴミだらけで、地下鉄は臭い…というには変わりないが、街自体が凛としている。気品にあふれている。おそらくその美しさは、建物の風貌だ。
高さと色のそろった建物。シンプルかつ品のある飾りを伴ったテラス。 南フランスに行くとテラスに赤やピンクの花を飾り、華やかになるところが、パリはシンプルかつクール。
気品に溢れている。
リストが住んでいたという、「リスト広場」をたまたま通った。そこには古い教会があり、当時リストがここを散策し、この階段に腰掛けていたかもしれないと思うと、なんとも言えぬ嬉しさを感じた。多くの芸術家がパリを愛し、その美に引き寄せられ、たくさんの名作が生まれた文化と教養が刻み込まれた街、パリ。 この街に兵士は似合わない。
ときに人間は、とても愚かなことに必死になる時がある。そんな時、ふと身の回りにある美にあらためて目を向けてみたい。もっと大切なもの、大切にしたいものが身の回りに溢れていないだろうか。
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集中力とは

もし「演奏中、集中力を保つようにね!」と言われたら、どう解釈するの?と生徒さんに聞いてみると、意外とあいまいな解釈をしているのだなと感じた。
生徒:暗譜が飛ばないように、あそこで転調して、あそこであーなって・・・、再現部はこうなる・・・。などと考えることで集中する・・・??
とんでもない。自転車で観光に出かけたり、歩いて長い距離を散策するとき、行先までの道のりを大体頭に入れて出発する。でもいざ出発したあと、あと300メートルで左に行って、そのあと右に行って、それから信号を見落とさないように・・なんて思っていたら、たどり着くだろうが散策どころじゃない。なにも味わえない。
本番の演奏では、たどり着くかどうかの競争をしているのではないのだ。
もちろん前述の道のりを把握し、大体の目印を知っておくことは当然しなければいけない。そして細かな音作りや、細かなテクニック・・・様々な詳細を丁寧に練習しておく必要性は言うまでもない。でも実際舞台で演奏するときは、それを”再現”しようとしたり、”練習した通りに”出そうと思っていたら、まずうまくいかないだろう。
なぜ?
何よりもまず、人間は機械ではない。準備した通りになんて出せない。まったく同じ音色を人生で2度出せるかと言われたら、出せないかもしれないとさえ思う。
それに、本番というのは、練習とは違う環境で演奏するからだ。もし練習していたところと同じ会場で本番を弾くとしても、緊張も違えば、客数も違う。気温も違えば、光も違う。響きも違えば、出てくる音も違う。すべてがそのときだけの雰囲気なのだから。
たとえばリンゴを描こうとする。こんな感じと思って書き始めたところ、書き出しの太さが思ったより違ったとしたら、それは”失敗”ではない。思ったより違った太さででたら、そこからリンゴになるように整えればよいだけだ。ただ、リンゴのつもりが家を書き始めた、など、あまりに想定外のことが起きないように、あらかじめ何をどういう風に描きたいのか、準備というものをしておくだけだ。
演奏中集中するということは、何よりもまず、いま生み出した音のいく末を追いかけることにあるだろう。どのように音が伸び、どのように消えていこうとしているのか。音の意思を聴きながら、次の音を置いていく。
耳を研ぎ澄ませて、生まれ行く音のいくすえを聴き続けることで、演奏家には集中が生まれ、音楽に緊張が生まれる。
では、速い音が並ぶところはどうだろう。当然いちいち一音ずつ追っていたら、どんどんテンポが遅くなっていってしまう。そこで大切なことは、音楽の”言葉”だ。日常の言葉でも、たとえば ”音楽大学” ということばをしゃべってみるとき、お ん が く だ い が く
と一つずつ確認しながらしゃべったら、当然不自然になる。頭の中に潜在する、まとまりを作るという能力を用いて、音楽大学 というものを一つのまとまりとして認識する。抑揚が生まれ、なんというか、言葉のリズムのようなものがあるだろう。
音楽も同じだ。たとえばショパンの作品10-8のエチュードで、右手を
ラソファドラソファドと1音ずつ思っていたら、弾けたもんじゃない。少なくとも8つの16分音符、さらには1小節分(16分音符16個)ぐらいをひとつの単語のように感じないといけない。たとえば音楽大学という言葉を我々が話す場合、そのことばを一息で、きれいな抑揚に響かせるよう頭の中で曲線のように言葉をイメージする。そして一つ一つ強調しないものの、どの文字も抜けず、そのイメージの曲線に乗るように何度か繰り返して発音することで、すらっと”音楽大学”と発音できるようにしみこませたわけだ。そしてしみこんだものを発音するとき、当然いちいち唇の動き、舌がどこにあたっているかなど考えない。
音楽も同じで、まずは ら そ ふぁ ど ら そ ふぁ どと一つずつきちんと発音できるようにして、それから音同士の縫い合わせ作業に入る。まずは4つ。らそふぁど をどう並べたら曲想にあう、柔軟でなめらかな曲線に響くか想像してみて、音色、抑揚を選びぬいあわせていく。
それができたら、らそふぁど らそふぁど の2グループをいかにつなげることで、コピー貼り付けの2回ではなく、一つの言葉に聞こえるか探してみる・・・そのようにして、1小節が一つの単語かのように作っていくのだ。
そして、いざ実際演奏するときは、”音楽大学”という言葉と同様、つくりあげた一つの音の言葉を全体として聞きながら弾く。全体のバランスを聴きながら弾いていくといえばよいだろうか。最初の音が思ったより大きかったら、そこから美しい曲線になるようほかの音をつじつまを合わせて並べればよい。 
集中=とぎすまされた耳
こんなあいまいな理解はたくさん見られる。その一つとして ”大きな音””緊張のある音”・・・音 についてだ。これについては 3月に行うDevoyons’ Villageの特別講座(3/27)でお話をさせていただく予定なので、興味のある方は是非。
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