「MessageFromBerlin(ブログ編)」カテゴリーアーカイブ

自分を知る、楽器を知る(4) スピード

打鍵のスピードという話をしたけれど、それはどうやって調節するのだろう。
最低限のスピードで良いときは、第一関節から先をちょっと使うだけで良いだろう。
机の上に鉛筆が置いてあったとして、それを<そっと>持ち上げてほしいといわれたら、親指とそのほか何本かの指先で少しはさんで持ち上げるだろう。その時の感覚によく似ている。ほんの少し、指先で鍵盤の底をきゅっとつかむ。
それよりもスピードが必要な時は、第3関節から指先にかけての部分を使ってつかむ。ゆっくりつかむか、早くつかむか、その間のスピードが何段階にも調節できればできるほど、種類が増えるのは言うまでもない。そのためには、手の中の最低限の筋肉が必要になる
更にもっとスピードが必要なら、手首を軸として手でつかむ。ここで大切なのは、手の自然な動きに反しないということ。

手の自然な動き
とはなんだろうか。
たとえば、じゃんけんのグーを作ってみる。この時親指を横に出している人はいないだろう。いたりして・・・(・o・)
なぜかというと、手の平らの中心に向かって5本の指が集まっている状態が、一番自然だから。ついでに書いておくと、手が一番強さを持てるのは、手の中心に集まっているとき。手に力が必要な時は自然と握り拳(こぶし)を作ることからもわかる。
逆にじゃんけんでいうパーのように手をしっかり開いた状態から、指を楽に抜いてみよう。やはり指が手の中心に親指に向かい合うように寄ってくるのがわかると思う。これが手の自然な状態なのだ。

原則5) 演奏する時、できるだけ、手を自然なポジションに戻す

たとえ、和音などのせいで手を開かなければいけなくても、弾いたらすぐ“できる限りの範囲”で自然なポジションに戻す。開きっぱなしほど疲れるものはない。
ショパンの練習曲 作品10の1。右手が開いて大変なイメージがあるけれど、あれは右手に関して言えば、手をいかに閉じていけるかの練習曲。いかに開くかではない。ドソドミと弾いたら、ミを弾いた時には、ほかの4本の指はすでに小指の方に“自然に”集まってきていなければいけない。ショパンは手が小さかった人。彼の曲はどの曲も、本当に見事に、手が自然に集まるように書かれている。
これ以上のスピードが必要な時は、もうわかるだろう。肘を軸にして、肘から指までの部分を下ろすことで加速。5-6メートル先の人に、野球ボールを投げるのをイメージしてみてほしい。さらに、速度が必要な時は、30メートル先の人にボールを投げるような感じ、つまり
背中から加速して指先に送り込む。
ここで大事なことは、

原則6)どんな速度を送る時も“指先は生きている”

ということ。精密な作業は指先をきかせてするのと同じ。指先が死んでいると、速度を送り込んだだけで、鍵盤をたたいたことになってしまう。指先できゅっとつかむのを忘れない。
野球でイメージすると、もっとわかりやすいかもしれない。ボールを遠くに投げるために、腕を振り下ろした時、指は最後の瞬間までボールを握っているだろう。送り込まれた速度を最終的に“指先”が処理しているのは、ボールで考えればわかるのではないかな。
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自分を知る、楽器を知る(3) 重さ

前回のブログで
私たちがピアノを弾く場合、必要に応じて使う重さとスピードをさまざまに組み合わせることによっていろんな音を出すことができる
という話をした。ここで大切になるのは、“ピアノでいう場合の” 重さとは何か。ということ。
重さを使うということと、圧力をかけるということを勘違いしているケースがとても多いからだ。
重さとは何か。また物理みたいになってしまうけど、それは重力があってこそ生まれるもの。私たちが、地球の真ん中にむかって引っ張られているから、重さというものが生じる。
ピアノの前に座って、ピアノを今弾こう、としているときの態勢を考えてみよう。椅子に座って両腕を鍵盤の上にまだ音を出さずに載せている状態。これは、重力に反していることになるのはわかるかな。なぜって、腕を本当に重力に任せていたら、だらっと下に落ちるでしょう?鍵盤の上に<乗せている状態>、というのは、音が鳴らないようにするために、腕が落ちないように支えている。つまり、筋肉が緊張している状態。
これがわかれば、ピアノでいう重さをのせるという作業は、今支えていた腕を鍵盤に“落とす”、つまり落ちないように腕を支えていた筋肉を“ゆるめる”ということは、わかるだろう。ゆるめることで、体の持つ“自然な重さ”を使うだけだ。それ以上、押したりという“圧力”は全く必要ない。
原則3)ピアノでいう “重さ”は、ゆるめることから生ずる。
でも、必ずしも腕の重さ全部が必要なわけではない。その都度必要な音に応じて、体のどの部分の重さを使うかを変える。
さっきの、ピアノを今から弾こうとする状態をもう一度思い浮かべよう。椅子に座って音が鳴らないように、鍵盤の上に手を載せている状態。もし、指の重さだけが必要なら、この状態から指の付け根(第3関節というのかな)から先の部分をゆるめてぽとっと鍵盤に落とす。指の付け根を含め、そこから腕、肘のほうにかけては、鍵盤に落ちないように、さっきと同じ支えている状態を保つ。
ここで気がついただろうか。本当に“指だけ“の重さをぽとっと落とすことができた人にはわかったと思うけれど、指だけの重さというのは非常に限られている。それを落としただけでは、鍵盤は少し下がるだけで、底まで落ちない。それは、鍵盤に“上に戻ろう”とする抵抗力があるから。指だけの重さというのは、この鍵盤の持つ戻ろうとする力には足りないのだ。もし落ちた人は、指だけの重さではなく押してしまっている。
このことからも、重さだけで音を出すのではなく、最初に書いたように、その時の必要性に合わせた適度な重さに、適度なスピードを加えることで音というものを作ることができるのがわかると思う。
もし手の重さが必要なら、第3関節の代わりに手首から先をゆるめて手全体を指先に落とす。先ほどと同様、手首を含めそこから腕、肘の方にかけては支えた状態を保つ。
腕の重さが必要なら、肘から先を落とす。同様に肘は落とさない。肘が支えの軸になるから。
それ以上必要な時は、体の重さを背中から送り込む。その場合には、背中のさらに後ろ、つまり腰が軸となる。
原則4)ピアノでいう重さ=体の自然な重さ。

どの重さを使うかは、その時々に必要な音による。それについては、次回に!
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自分を知る 楽器を知る(2) 音とは

9月のブログで、このテーマを取り上げた。言葉での説明が難しく、なかなかブログにしづらいとあれ以来苦戦しているのだが、やはりピアノを弾く上で基本になる大切な内容なので、言葉にしてみたい。
ピアノという楽器は、どうやって音が鳴る?
何をいまさら、という文章だけど、一度考え直してみてほしい。楽器を知らずに演奏はできないからだ。ピアノは誰にでも音が出せるので、どうすれば音が鳴るかなど、考えないまま今まで弾いて来ている人は山のようにいると思う。
―ピアノという楽器は、鍵盤を下せば音が鳴る。
と思いますか?
では、鍵盤を人差し指で、できる限りゆっくりと降ろしてみよう。・・・鳴らないでしょう?
―じゃあ、指先に重さをかけて弾く?
ほんとう?
さっきと同じ人差し指で、今度はすっごく重さをのせながら、できるかぎりそぉっと鍵盤を下してみよう。指先にはぐいぐい押してるけど、これも鳴らない。
何が違うんだろう。鍵盤と指にとらわれてしまわず、ちょっと目線を上げてみよう。グランドピアノという楽器は、目の前に長いのがわかる。ピアノを弾くというと、つい鍵盤と楽譜とのにらめっこになってしまうのだけど、ちょっと譜面台の向こうにあるピアノの中に目を向けてみよう。もう一度指で鍵盤を下しながらピアノの中をのぞいてみるとどうだろう。ハンマーが下から上がってきて、弦をポンと叩いて、また下に戻る。でも、ゆーーーっくり下ろしすぎると、弦を叩き損ねて、たたかないまま下に少し降りるのがわかる。
実は鍵盤って、すごく長い。指で弾いているところから、今見たハンマーのところまで長い棒のようなものだ。長い木の棒の手前を私たちは指でおろして、そのおかげで木の棒の向こう側の先っぽについているハンマーが上がる。
そう、つまり、
てこの原理。
てこって、手前を押すほど向こうが楽にあがる。奥の方を押そうと思うと上がりにくい。
原則1)特別な例外を除いて、できるかぎり鍵盤の奥の方を弾くことを避ける。手前の方がコントロールがしやすい為。

では、さきほど重さをかけても音にならなかったのはなぜ?
それは、エスケープという機能が関係してくる。難しい話になりたくないので、少しだけにしぼって説明すると、鍵盤をゆっくり下ろしすぎると、ハンマーが弦を叩き損ねて少しだけ下りるということは実際やってみるとわかるだろう。それは、弦を叩く直前にエスケープという機能が付いていて、それがあることで、ハンマーが弦にあたったままにならないで、下りてくるようにしてあるから。なぜそうしてあるかというと、ハンマーが弦に当たったままになったところを想像すれば分かると思う。ハンマーは綿みたいに柔らかいものでできていて、それで弦を押さえつけると、音が伸びなくなってしまう。シンバルをたたくときに、たたいた後二つのシンバルを合わせたままにしているようなものだから。
ピアノがこういう仕組みになっていることを考えると、いくら重さ”だけ”をかけても、それに最低限ある程度のスピードを加えない限り、そのエスケープのせいでハンマーが弦をたたく前に降りてきてしまうのはわかるだろう。
原則2)ピアノという楽器で音を出すには、打鍵をする“スピード”が一つのカギとなる。
重さをぐいぐい掛けるのではなくて、スピード。
では、重さは使わないの?
もちろん使います。それについて説明してみよう。
ピアノでは、もちろん様々な音の色が必要になる。音の色を変える方法は、和音のバランスとか、音を出すタイミングとか、ハーモニーとかペダルとか・・本当にいろいろあるのだけれど、今見たように音を鳴らすには打鍵のスピードが一つのカギになるという根本から考えると、極端にいえば送り込むスピードを変えることでも音の色を変えることができるわけだ。
逆に、同じスピードを送り込んだとしても、軽いものにスピードを足して送るのと、ある程度重さのあるものに、速度を足すのだと、到着する勢いに違いが出るのは、想像できるだろう。
たとえば、ある大きさの、紙でできた箱と、それと同じ大きさのレンガの石があるとする。それを同じ様に勢いをつけて地面に落としたとすると、落ちた時の勢いが違うのはすぐ想像できると思う。
つまり、もともとの重さ×それに足す速度(エネルギー)で到着点の勢いがかわるので、重さと速度を組み合わせによって、様々な勢いを作ることができるというわけ。
なんか物理みたい・・・汗
なので、私たちがピアノを弾く場合、必要に応じて使う重さとスピードをさまざまに組み合わせることによっていろんな音を出すことができるということになるのは、わかってもらえただろう。
自分なりに、分析してみたのだけれど、こんな感じであっているのかな・・
ふう・・・言葉だけの説明って大変・・・頭がショートしそう・・・((+_+))
・・・続きは次回のブログで♪
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~意味のある練習を学ぶ~ “どこまで”を見る

Crescendo を見ると、途端にぶわーっと襲いかかってくる演奏を時々耳にする。これを、“こわい”クレッシェンドと私は呼んでいる。聴いていて本当に怖いからである。笑
Crescendo=大きくする。といういつの間にか覚えた観念から来ているのだろう。もちろん間違いではない。でも、音楽に接するときにいつも初心に戻って考えてほしいことがある。
作曲家は、なぜそう書いたのだろうか。
楽譜を見ているとわかると思うけれど、昔に戻るほど、作曲家によって書かれた速度表示や、強弱表示が少ない。スカルラッティなどには、何も書いていない。少しずつpやmf, ff、crescendo,diminuendoなどの強弱記号やaccelerando, ritなどの速度表示が書かれるようになり、それからdolce, espressivoなどの性格に関する表示が記載されるようになる。
“撫でるように”、“不安げな”、“遠くから”・・・など、踏み込んで具体的な表示がかかれるようになって来たのは本当に近代である。近代の作品には、“言葉”の表示が本当に多い。それに対して、ベートーヴェンやショパンなど、よく見ればまだとても限られた表示のみでしか記されていない。
ということは、私たち演奏する側に必要なことは、“どんな”ピアノ、“どんな”クレッシェンドを必要としているのか、ということを考えること。そうでないと、クレッシェンドのたびに大きくしたり、ピアノだから小さくしていただけでは、行ったり来たりのすごくつまらない演奏になってしまう。
たとえばクレッシェンド。
あるクレッシェンド表示があるとする。まず何が必要だろう。それは
1) どこから(=どういう音量から)
2) どこまで
そして、
3) どのように
ということを見ること。
わかりやすく言うと、クレッシェンドと一言で言っても、どういう大きさから始めて、どこまで上る必要があるのかということ。そして、どういう風に上るか。
場合によっては、ピアノからフォルテまでかもしれない。でも、メゾピアノからメゾフォルテかもしれない。もしくは、ピアノの中でのクレッシェンドかもしれない。
一番良い方法は、まず“どこまで”を先に決めること。前後関係や、曲の全体のバランスを考えて、こういう大きさまで上っていく必要がある、ということを見極める。
次に、“どういう”クレッシェンドが欲しいのかを考える。そのために、まず見る必要があるのは、何小節かけてクレッシェンドすればよいのかということ。それによって、急なものなのか、じりじりと来るのか、それともふわーっと広がるのか・・、など。つまり、“どのように”ということを見ることができる。
どこまで、どのように、と見ることによって必然的に、“どこから”、つまりどういう音量から始めるということが見えてくる。その上で、曲の性格をみながら、いろいろな種類のクレッシェンドを作り出すと面白いだろう。
多くの場合、クレッシェンドを見ると、まず大きくし始めてしまう。そうではなく、目的を定めよう。これから階段を駆け上がらなければならない時に、2階までのぼれば良いのか、10階までなのか、それがわかっていて初めてエネルギーの配分ができる。それと同じことだ。
Diminuendoも同じ。どこまで小さくするのか、をまず見極める。とりあえず音量を減らしてくるのではない。まったく同じことが、だんだん速く(accelerando)やだんだん遅く(ritardando)にも言える。どのテンポに向かってだんだん速く(遅く)するのか。
当たり前に聞こえる今回の話。振り返ってみると意外と、“どこまで”から探して始めていないことに気付く人もいるのではないかな。基本に帰ることをいつも忘れないでいたい。
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伝えたいこと(4) 練習に必要なこと

いつのまにかマンネリ化してしまうことがある=練習がつまらない。こういう悪循環になるときは、知らないうちに何かが欠けてしまっていて、それに気がつかず、ただやらなきゃという使命感だけでおし進めてしまい、結局は空回りしてしまっていることが多い。
何が欠けているんだろう。
“本当の意味での”練習に必要なこととして、私はこの3つを上げる。
1) 向上心
2) 忍耐力
そして
3) 好奇心
1) は、<上手になりたい><ここを弾けるようにしたい>など何でも良い。きっと
さまざまな形で、みんな多かれ少なかれ持っているだろう。
2) は、曲の続きがどうなるのかが気になるとか、通して弾きたい、このかっこいいクライマックスまで弾きたいなど、つい通し練習が増えてしまう場合。または、少し弾けないところがあっても、ちょっとそこを弾き直したらすぐ先に行こうとしてしまうケース。そんな先へ進みたい欲望をぐっと抑えて、今練習しているこの場所がしっかり手に入るまで練習する必要性を忘れないでほしい。大体できたら次に行く、だと、結局また戻ってしまう。そして、できたと思ったら、確認の意味も含めて<更に>磨く。あわてず、丁寧に深く練習。これが一番の近道。
  本にたとえてみよう。話の先が気になって、ざっと読み進めてしまうことがある。でも結局、登場人物や状況が把握できなくなって数ページ戻って読み直すことになるという経験はないだろうか。
そして最も大切なのは
3) 好奇心。
ひとつのイメージがあるとする。それが音にできたと思っても満足せず、ほかの可能性はないだろうかと探してみる。たとえば、劇であるセリフを読むとき、うれしそうな表情が欲しいとする。うれしさがあふれるように、早口に読んでも良い。声の質を明るくしてもよい。でもうれしさをあえてこらえ様としているような感じでも面白いかもしれない。あふれているというより、満たされた安心感、満足感の漂う嬉しさかもしれない、あるいはその前になにか緊張することがあって、それが緩むほっとしたうれしさはどうだろう。イメージひとつでも、たくさんの可能性がある。
または指使い:楽譜に書いてあるのを試してみる。しっくりいったとしても、もしかしたらほかにもっと良い方法があるかもしれない。でも弾きやすくても、音楽的な表情をだすためには、あえて弾きにくい方の指使いの方がよいかもしれない。10本の指があるのだから、あれこれ試してみたい。
ある作曲家の曲を弾くとする。そういえば、この人ってほかにどんな曲を書いたんだろう。ピアノに限らず、室内楽、シンフォニー、歌曲、管楽器・・・たくさん聴いてみるのは不可欠だ。ベートーヴェンのソナタなら、自分の与えられた曲だけではなく、ほかの曲を弾いてみるのも良いだろう。
可能性を増やすのは、自身の“好奇心”。
私も初心に戻って、がんばろっと。
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~意味のある練習を学ぶ~  <自分を知る、楽器を知る-1>

この夏、クールシュヴェール夏季国際講習会で、1ヶ月にわたり総勢55名ほどのレッスンをさせていただいた。今年のクールシュヴェール講習会は、計31カ国から参加者が集まった。私たちのクラスも、その影響もあり国際色豊か。セッションによっては、日本人が集まった期間もあったが、それ以外に、フランス、イギリス、ドイツ、中国、メキシコ、イタリア、スペイン、コロンビア、ロシア、韓国・・ざっと思い出すだけでもクラスにこれだけの国籍があった。こうたくさんの違う顔ぶれをレッスンできるのはあまりないので、非常に興味深い夏だった。
これだけの異なった人たちに接した結果、レベル如何に関係なくほぼ大半に共通して気になることがあった。
<不自然>
ということ。音楽がということではなく、演奏の仕方がである。
体をくねったり、足が落ち着かずふらふらと前後左右にそらしたり、そして腕やひじを頻繁に動かす。あるいは、鍵盤がかわいそうなほど、ぎゅうぎゅう押したり。
みていて、苦しくなるほどものすごい肉体的な努力をして弾いている。
動くことに闇雲に反対するわけではない。音楽に影響がなければ、自分の心地よい様に動いたって良いと思う。でも、そういう場合目をつぶって聴かせてもらうと、必ずといってよいほど音楽は非常に平らな場合が多い。
不自然なのは、良いはずがない。弾いているほうもあれでは居心地が悪いだろう。
では、なぜそうなってしまうのか。大きな要因は主に二つだと思う。
1) どう演奏したいのかがあいまいな為に、動くことで音楽を表現して、言葉は悪いが自己満足になっている場合。
2) ピアノという“機械”、そして自分という”機械“を理解していない場合
1) に関しては、今までのブログでも事あるごとに触れているが、“こんな感じ”というあいまいなイメージで、満足している場合である。繰り返すが、あいまいな理想のまま音を出すと、だんだん理想のほうが下がってきてしまう。それに気がつかず、ある程度の音色が出た時点で、自分が理想にたどりついたと満足してしまう危険が高い。
* <はっきりとした>音のイメージがないままピアノを決して触らないで欲しい。
そして2)の<二つの機械>について。
多くの場合、本当によく練習してあっても、意外とピアノという機械、そして自分という機械について知らないことが多い。
* ピアノは、どうすれば音が鳴るのか。そして
* 私たちはどうやってピアノを弾いているのか。
とても簡単に聞こえるこの根本の問いかけだが、実際にその事をきちんと考え、そして掘り下げることを今まで一度もしていない人は多いのではないだろうか。でもそれこそが、なによりもまず最重要な知識だと思う。今回の講習会でその欠乏に驚いたと同時にそのことに関してレッスンで話をする必要性を痛感した。日本で行っているMessageFromBerlinプライベートレッスン。ここで会う生徒さんたちには是非そのことを事あるごとに話したいと思う。そして、日本でのMessageFromBerlinシリーズの一環として、タイトルを定めて少人数で講習をするということも考え始めている。みなさん、どうでしょうか・・・

~意味のある練習を学ぶ~ 集中ということ

前回のブログで、緊張について書いた。そこで触れた、“集中する”ということについて、もう少し詳しく考えてみたい。
演奏中は集中すると書いたけど、いったい何に集中するのだろう。
音楽に?? 本当?? 音楽に集中するってどういうこと?
まず、もう一度”練習“ということの意味合いについて考えたい。
練習には3つの大切な作業があると思う。
1) どうしたいという自分の<はっきりとした>イメージを持つ。
2) そのイメージが聴き手に伝わるためには、どういう音を出せばよいのかを考え、あれこれ試してみて探す。
3) 出てきている音が本当に自分のイメージのように聴こえてきているか判断する。
つまり、心、頭、耳。このどれも欠かせない。
それ以前に、いわゆる”機械的“な演奏が1番まずい。弾けるようになることをとりあえずの目的にして、ひたすらリズム練習などで、音だけを弾いてしまうことから来る大きな遠回り。練習を始めるにあたっては、最初からイメージを強く持つこと。これは忘れないで欲しい。
イメージを持つことの大切さについては、皆さんよく言われると思うけど、そのせいでありがちな誤解のケースが、
<自分なりにイメージを持っている=音楽的に弾いていると勘違いしてしまう>
こと。つまり上記の1)のみになってしまうこと。やっているつもりで、現実が聞こえていないタイプ。
そして次によくある間違いが
1) と3)だけになってしまう場合。
つまり、イメージをもって弾いているのだけど、思うようには響いていない気がするので、もっと強くイメージを持って、さらにとりあえず何回も弾いてみる、というケース。
理想と現実の差が聞こえているのは良いものの、その差を縮めるために<どうすればよいのか>を考えるという2)のステップが抜けているタイプ。
イメージを強く持ったからそのとおりに音が出てくれれば、こんな嬉しいことはない。
でも実際には、そう簡単にはいかず、自分がイメージする様に<相手に>伝わらなければ何の意味もない。それも、”音”で伝えなければ意味がない。
あるとき、私のパートナー(以下D)の生徒さんで、弾きながらハミングのように歌う生徒がいた。だんだんエスカレートして、最後はほとんど彼女の声の方しか聞こえないぐらいの演奏になった。なんで一緒に歌うのか、と聞くと
<だって黙って弾くと、音が歌っていないように聞こえるんです>
という返事。すかさずDが
<それは、君が黙ったことで現実に鳴っている音を聞いたということだよ。>と。
音が歌わないから、自分のイメージに近づくために、歌ってしまっている。要するに、やっている“つもり”。これほど怖いことはない。音楽家は<音>で伝えなければ、仕方ない。
顔をしかめたって、体を動かしたって、伝わらない。もしお客さんがラジオで聞いていたり、演奏者が見えない状況だったら・・と考えてみて欲しい。
そのために、大切なのが2)の作業。どうすればそう聞こえるのか、を探しに探す。ひとつ見つかったと思ってもそこで満足せず、ほかに方法はないかいろんなパターンを試してみる。この模索する時に、本当にたくさんの可能性を学ぶことができる。
たとえば、ここは不安げに弾きたい。だからといって不安げに!と思って弾いたってそうは聞こえない。むしろ音が抜けて、”不安定“に聞かせる結果になってしまう。
そうではなく、不安げに聞こえる音を出す必要がある。そのためには、”不安げ”という感情はどういうことなのか。なんで”不安“を人間は感じるのかを考える。どういうときに不安を感じるのか。不安という感情は、なにかわからないから来る。明らかであれば、怖いものはない。だから、拍子や強拍がはっきり出ないようにしたり、ペダルを薄く使って不気味な効果を出してもよいかもしれない。ハーモニーがたくさん変化する場所なら、それを利用して、一つのハーモニーに安定せず移り変わりを強調しても良いだろうし、不協和音があるなら、それを聞かせるように弾くのもよい。不協和音というのは、文字通り”協和しない”わけだから、不思議な響きとなって、不安さを出すこともできる。
これは、ほんの1つの例でしかない。こういう風に考えて探す過程で、耳も非常に養われる。また、たまたまほかの事を見つけることもできる。不安さを探していたのに、やたら明るい音が出てしまったとしたら、“明るい”方の音も、学んでいるわけだから。
不安定に聞かせたいために、実際不安定に演奏しているのではない、つまりそう<聞かせる>ことが大切なんだ、という例をもう少しわかりやすくするために、演劇をイメージして欲しい。
大きなホールで、なにか内緒話をするシーンを演じるとする。
本当に、内緒話の声で舞台でしゃべったら、誰にも聞こえない。ささやかれているように
聞かせる声を出しているだけで、実際は一番後ろのお客さんにもひとことひとこと全て聞こえているでしょう。
ピアノでも同じこと。探すことから学ぶことは本当に大きい。理想を高く持ち、あれこれ試行錯誤してみてほしい。 
強いイメージもち、実際にそう聞こえているか耳で判断し、調整する。
練習であっても、演奏会であっても、
<心、頭、耳すべてを研ぎ澄ませて>
いて欲しい。これこそ”集中”ではないかな。音楽に集中する・・・これだけでは少し簡単すぎる答えのような気がする。

~意味のある練習を学ぶ~緊張ということ

これは、いわゆる”あがり症“というタイプの演奏家にとって、永遠の課題と言えるだろう。このテーマでブログを出したいとはかなり長いこと考えていたが、とても難しいテーマで、考えに考えているうちに今になってしまった。私も自慢じゃないが、ものすごく緊張するタイプ。まだ結論や答えがでたわけではないけど、これまで考えあぐね、いろいろと試してきた過程で今思うことを書いてみたい。私と同じように、“相当あがる”タイプのひとに読んでもらえたらと思う。
私は、ある年齢まで“どうしたら緊張しないか”という事ばかりをしばらく考え、試みてきた。でも本番がくるたびに、“あぁ、今日も緊張してる。今日も震えてる・・・”と相変わらずの緊張にがっかりしていた。
ところがある時、ふと気がついた。
あがるのは、私の性格、タイプなんだ。つまり、私という人間そのものなんだ。
つまり、それを排除しようとすることに間違いがあるんじゃないかなと。おっちょこちょいの性格の子は、大人になってもおっちょこちょいだ。(←ハイ、私のことです。)それを”治そう”というところからスタートするから、本番のたびに、”今日もだめだ・・“というマイナス思考になってしまう。
私はあがるタイプだ。つまり、あがっているのが ”普通”の私。だから本番であがっていたら、”あ、今日もあがってるじゃん。いつもと同じだ“と、ちょっと自分に笑いかけて、あがっている状態を認めるようにした。そのことでまず第一段階としてほんの少しだけど、楽になった。あがらないように、ではなく、あがっている自分を普通の自分と認めて、どう付き合うか、と考えるようになった、といえばよいだろうか。
これまで、いろんな人に
本番なんて、たいしたことじゃない、失敗したって死ぬわけじゃないし。お客さんをジャガイモだと思えば良い、自信を持って!
などなど言われ、そう思おうと努力してみた。皆さんも、そういわれた事ありませんか?
<でも、そんなこと無理!>(>o<”) 第1に:お客さんがジャガイモに見えるわけなし。お客さんはお客さんだ。鬼に見えても、ジャガイモには見えん。 第2に:自信を持てっていわれたって、持とうと思って持てれば、そんな楽なことないけど、そんなの無理! これが、私の心の叫び。というか努力してみた結果無理だった・・・泣 同じこと感じる人へ。一緒にがんばりましょう。(^_^) そんな人のために、少しでも役に立てればというのが今回のブログ。 なぜ緊張するか・・・・・そんなこと知っても緊張するものはする。( ̄^ ̄) エッヘン(←自慢するか?!) 今の私は、それよりも<緊張と共に生きていこう!>という考えなので、緊張しているとき、いったい自分がどうなっているのかということをまず考えてみた。 舞台の上。緊張してる。そこで演奏を始めるわけだけど、私の場合、弾き始めた後の頭の中はこうなっている。 げ、あがってる。手が震えてる・・・、弾けるかな、弾かなきゃ。 次なんだっけ・・・、あ、そんなこと考えちゃだめだ。集中集中・・・。 少し落ち着いてきたかな、弾けそうかも・・、あ、やっぱりあがってきた・・・。 _もちろん、有無を言わさず曲は進む_ あと半分だ。もう少しだ・・・え、あーあーあー、左手が”ぐちゃっ”てなった、こわいー 助けて・・。 などなど こういうことが頭を渦巻いていた。 つまり、演奏中 まったく音楽に集中していない
のだ。私のだんな様((以下D)によると、集中力は
トレーニングで着くものであり、集中しようと思ってすぐできるものではないという。
日ごろの練習で、集中力をつけるべきだと。
そこで、普段の練習で自分が集中しているかどうか、気をつけてみた。
すると、なんと言うこと!2-3小節しか弾いていないのに、もうほかの事を考えてる。
たとえば、今日はあとこの曲練習しよう、とか、あ、そういえば昨日友達と・・・とか。
これじゃだめだ、集中しよう!!
と思い直して、もう一度最初から弾き直してみても、また数小節でいつの間にかほかの事を考えている。信じられなかった。
それからというもの、練習するたびに、少しでも長く集中が続くように少しずつ努力してみた。つまり、気が散っていることに気がついた瞬間に弾くのをやめるのだ。最初の数日は、5小節も進まない。習慣って本当に恐ろしい。
でも、不思議なことに、Dが言ったとおり、それが日がたつにつれ集中できる瞬間が少しずつ少しずつ長くなっていくのだ。
集中は、疲れも影響する。疲れているのに無理やり集中しようと思ってもなかなかうまくいかない。たくさんの生徒をレッスンした後などは、頭も耳も限界に疲れていて、
練習にならないことが多々ある。
そういうことを考えると、本番の日に、あまり弾きすぎるのは良くないという意味がよくわかってきた。エネルギーと集中力を温存するためだ。
この集中力が今の私は、まだうまく続く時とそうでない時のばらつきがある。でも確実に
パニックにはならなくなった。一生勉強。焦らず、少しずつ身に着けていけたらと思う。
皆さん、一緒にがんばりましょう。笑
今回は相当長くなってしまったので、ここまでにするけど、もう一言だけ。
本番に向け、
“あれをしてはいけない、これをしてはいけない“、つまり
間違えちゃいけない、早くなっちゃいけない、などと <してはいけない>
ことを考えるのではなく、
“こうしよう、ああしよう“と、やりたいことを決めて、
積極的に演奏するのもひとつの手だと思う。

ベルリン芸術大学 入学試験

毎年2回行われる入試。できる限り毎回聞きに行くようにしている。これまで、10年近くかなり頻繁に足を運んだ。その当時、もともとひどくあがって自滅するタイプだった私は、極度に緊張する場面での精神的な強さを少しでも身につけたくて、様々なことを試みていた。その1つとして、人のいろんな緊張場面に立ちあうことで、自分の精神面での勉強にならないかと願って入試を聞かせていただいていた。最近は、私の仕事に、教える立場が加わったため、少し違う角度からの勉強をかねて足を運んでいる。その1つに、ベルリン芸大の入試をめざす生徒さんのレッスンをさせていただくことが増えてきたこともあり、入試の傾向をしっかりとつかみたいということがある。
ベルリン芸大の入試は、2次予選方式。1次は古典のソナタの1楽章(あるいは古典派作品の出だし)をほんの3分ほど聴くだけ。え、3分で何が分かるの?といわれそうだが、これが見事に分かる。あとでそれについては説明しよう。
2次では、Bach,古典派の作品、自由曲という3種類プラス初見。弾かせてもらえるのは合計で15分ほどなので、古典の作品や自由曲では、途中でとめられることになる。
ベルリン芸大の入試倍率は、年によって違うが、6倍から15倍ほど。非常に難関である。この狭き門を通り、先生方の耳に止まるのはどういう演奏なのだろう。言い方を変えれば、どんな演奏が私たちを聞き手をひきつけてくれるのか。今年は1観客としてそういう観点から聴いてみた。
入試と言うのは、独特な試験方式だと思う。次から次へと受験生が試験官の前を通り、演奏する。先生方は非常に厳しい日程で、朝から晩までそれを聴くことになる。人間の集中力や耳の新鮮さなどというのは、やはり限界があると思うので、全てを100%の集中力で聞き続けることは非常に難しい。(私が以前全員聞いたときの個人的な印象だけど。)
その中で、耳に止まる演奏と言うのがある。私の主人も審査をしていて、冗談半分で生徒さんに、
<その時間はきっと疲れて僕たち眠りかけてるから、僕たちを起こすような演奏してね>
と笑って励ましていたが、まんざら冗談ではないと思う。”目を覚まさせる演奏”と言うのが、ある。
その1つは、
― 音美人
今回、とても美しい音を出す子がいた。朝から何人もが弾いて音楽を鳴らしていったホール、しかも同じ楽器なはず。ところがその子が座ると、まだ今日一度も聞いていない、つやのある、美しい音をぽんと鳴らした。すると、ホールの空気がさっとかわり、私たちも先生方もふっとその中に飲み込まれた。
そしてもう1つの目を覚まさせる演奏。それは、
― 生きた音楽
生き生きした曲ということに限らず、静かなものでもそう、音楽に<命>が通っている演奏。みずみずしさというのかな。
そう、私たちが欲している生徒は、音楽に命を吹き込む<演奏家>。
この子は、弾けるか弾けないか・・・そういうことではなく、
この生徒の音楽が<生きているか>。そこで判断している気がする。
たった3分の1次予選でも、生きた音楽かどうかは、すぐに判断がつく。
もちろん、
<じゃあ、命をふきこもう!>
とおもって吹き込めるものではない。頭で吹き込むのではなく、心で吹き込むのだから。
本を読んだり、映画を見たり、自然と触れてみたり・・・そういうことから、感受性を日々鋭敏に育て続け、<心>を養っていくということは、芸術家を目指すものにとって不可欠なことだと思う。
<日本人的、アジア人的な演奏>
よくそういう表現を聞かされる。同じ日本人として、この言葉を耳にするのは非常に腹立たしい。ただ、残念ながらそうひとまとめにされてしまう傾向にあるのは確かだ。
入試に、恐ろしい面持ちで、しり込みしながら舞台に現れて、ただ一生懸命 
<弾いて>
帰っていく生徒が多い。少し間違えると、ため息をつき、あわててしまう。
でも、私たちはそういうところを目的に聴いているわけではない。コンクールでもない。完璧に”弾ける”生徒。それなら、学校に通う必要はないわけで、私たちは、そうではなく、これから勉強して育てていきたい”音楽家”を求めているのだ。
舞台に出てきて、
<私は、こんなに表現したいことがあるんです、こんなにこの曲を愛していて、
こういうことを伝えたいんです!>
そういうものにあふれた演奏。それが目を覚まし、私たちを動かす
私たちは、<表現をする芸術>をめざしている。メッセージを<伝える芸術>。
繰り返すが、”弾く”のではなく“伝える”芸術。
このことを強く意識してもらえたらと思う。

~意味のある練習を学ぶ~  取ったら返す

自由な演奏と不安定な演奏。この二つは、紙一重で隣り合っている。
ちょっとしたことで、大きな勘違いということになってしまう。
この二つの違いにかかわる一番大きな要素は何か。
それは、“脈”。
生きるものすべてにある、この“心臓”は、音楽にもあり、不可欠なもの。
ただ、音楽での大きな違いは、生き物や、時の流れのように、<定期的に>、<規則正しく>打つわけではないということ。音楽では、この脈が上手に伸び縮みをしながら、”自然に“流れていかなければならない。
<イン テンポ>とは何だろう。一定の速度で弾く、ということではない。音楽での<時間>は
“絶対的”ではなく”相対的“に流れるから。
少し言葉が難しいかな。
相対的ということを、簡単に説明してみよう。たとえば、今自分に5分間あるとする。この5分、<遊んできていいよ>といわれても、あっという間に過ぎてしまう。でも、おばけがでそうな、すごい不気味な場所に<ここに5分間いなさい>といわれたら、きっと長いと感じるでしょう。同じ5分が長く感じたり、短く感じたりすること、これが”相対的”ということ。
音楽での”インテンポ“は、聴いている人に、脈が<自然にながれている様に>さえ感じさせればいいのである。
ちょっと面白い例を挙げてみよう。緊迫感のある部分があり、その後、落ち着いたメロディーが来るとする。あなたなら、時間をどう使う?
緊迫しているところは、少し前にすすんで、ほっとするところでは、幅を広めにゆったり弾く?
それとも、
緊迫しているところに、時間を多めにかけて、緊張が取れたところで、音楽を前に進める?
どっちが正しいだろうか。
<どちらも正しい>のです!
これこそが、”個性”ということ。同じ緊張感をどう表現するかは、個人の自由だから。
このように”伸び縮み”をしながら、実際は気持ちよく脈が進んでいくように聞かせるのである。しかし、気持ちよく進んでいく場合、横にメトロノームを置いてみたら、絶対といって良いほどずれていく。これは、さっき説明した”相対的”ということを考えれば当然のこと。一定に流れているかの<様に>感じさせているだけなのだから。この時間の<伸び縮み>をいかに必要に応じて使えるかが鍵となる。 伸び縮みをどう使うかは、音楽の緊張感が大きく作用する。どこがどの程度緊張しているのかを知るには、ハーモニーの動きを理解することが、不可欠になる。このことをブログで短く説明するのはかなり難しいので、残念ながら書かないが、感覚や本能で弾くだけではなく、ハーモニーや、ハーモニーの変化が生み出すリズムを知り、それをうまく生かしていくことは、避けられない。 難しい話は置いておいて、1つだけ覚えていてほしいことがある。  -借りたら返す-
ということ。ルバートということばの語源は、ラテン語で ”取る、盗む”ということらしい。
時間を前の音から”取る”。とって次の音を少し長くした分、また前に進む。つまり、時間を”返す”のである。
取ったり、返したり・・・つまり、これこそが<伸び縮み>を生みだす。
自由に弾こうと、時間を<取りっぱなしに>するから、<伸び縮み>ではなく<伸びっぱなし>になる。反対も同じ。そして、音楽が不安定になってしまうのである。取ったら返そう!