「伝えたいこと」カテゴリーアーカイブ

指導者として考えること

本格的な指導者になろう!と決断して、今年で20年が経つ。

この20年、様々な学生と接してきて、様々なことを考えさせられた。

時代の変化、溢れるコンクール。

コンクールは、年に1回など、自分の力量を試し、先への課題を見据えるならば有益だったはず。でも今はコンクールばかりはしごしているので、結果がどうであれ、もう次のチャレンジをしてそれが「経験」と勘違いしてしまっている。

本来は貴重な学生の時期に自分を育てるべきが、昨今は、今自分が持っている能力でコンクールにチャレンジし続けるので、その結果、コンクールを受け始めた年齢から成長が止まってしまっている。驚くほど年齢にそぐわない知識量や思考力の幼さが目立つ。

子供たちの将来はどうなってしまうのか。

私が指導する時に信念としているのは、「将来、息長く音楽と接していける生徒を育てる」こと。そのために「判断力」「応用力」そして「優れた耳」を育てることが必須だと思っている。

なぜ?それは「判断力」「応用力」は音楽を超えて「生きるために」不可欠な能力だからだ。

判断力、応用力はどうやってつけるか。本来なら普通の勉学で身につけるもので、そのために数学や物理、科学などを学ぶ。ピアノに進むから数学はいらない?そんなはずはない。数学では「考える力」を学んでいるのであって、数式を覚えるためではない。ところが早いうちに「ピアノで進む」などと決め、「普通の勉強」を適当にしてしまうと、幼い大人が出来上がってしまう。

私はレッスンで、できるかぎり生徒たちに一緒に考えてもらい、頭と耳で判断してもらうように努めている。どうやって考えればいいかの「種」を巻くイメージだ。そういう点で、私は「教える」と思ったことはない。一緒に考える、という感じがする。

私は今、生徒に恵まれていると感じる。ありがたいことに皆、学ぶ意欲が強い人ばかり。必死でついて来ようとしてくれ、私も今レッスンがとても面白い。

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伝えることの美しさ

先日、以前教えていた生徒が留学を終えて帰国し、再びレッスンに来てくれた。何年ぶりだろう。聞いてみたら、12年ぶり。そしてなんと、彼女は当時私が彼女を教えていた時の年齢になっていた。

私は30歳の時、とある決意をした。それは、本格的な「良き指導者」になること。

「クラシック音楽界の未来を開くには、生徒よりも、まず先生の質を上げることが急務だ」と、とあるドイツの第一線で活躍する指導者が話していた。

良き指導者が増えれば、良い音楽家が増えるきっかけになるかもしれない。

とはいえ、私が目にしてきた本物の指導者たちは「深い教養、良い耳、幅広い知識、判断力、応用力」を兼ね備え、しかも「人間としてかなりの高みがある人」ばかり。

先生としての「手柄」など一切求めず、音楽と生徒に真摯かつ全力で向かう姿を見てきた。

なんて果てしない目標…

こうして、良き指導者を目指しての私の一生をかけての勉強が始まった。

久々来てくれた彼女は、レッスン後、こういってくれた。

「今、自分が生徒を教える立場になって、自分の中でまだ曖昧な部分がはっきりしてきた。自信を持って教えられるよう、さらにレッスンに来て学びたい」と。

指導者としての自覚と責任を感じ、より一層自分が学びたい、という言葉。私にとってこれより嬉しいことはない。

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打撃、空虚、再生

今年始めから世界を襲ったコロナ。あっという間に半年が過ぎた。
私自身は、ドミノ倒しのように次々と崩れ去る目先の予定に、最初はしがみつき、途中からは崩れ去るものを遠巻きに見ている、そんな印象だった。

芸術は、それが演奏であれ指導であれ、日々自分を磨きながら、相当大きなエネルギーを備えて向かう。それが一気に崩れると、それまで年月を経て蓄え、磨いたエネルギーが発散される場所を失うことになる。一度途切れたエネルギーを取り戻すのは意外と難しいことを感じた。

積み木を丁寧に丁寧に重ね、かなり進んだところで一気に崩れたようなものだ。

今までに経験したことのない脱力感の中、私がすべきこと、私にできること、私がしたいこと...それらを自問自答しながらの日々だった。

芸術を絶やさないという理由で、インターネットでは動画の配信が次々と大量生産されるのを目にしながら、私がそれに加わることの必要性は本当にあるのかと考えることも多い。

私は30の頃から本格的な指導を始め、日を増すごとにその仕事に喜びとやりがいを感じている。若い演奏家を育てる。それは責任のある仕事で、良い指導者に近づきたいがために、自分の教養を深めたり、演奏活動をしながら、音楽をいつも新鮮な目で研究したり、と結局は自分を育てさせてもらえる機会になっている。

ありがたいことに、私についてきてくれる生徒たちは、この期間もできる限りレッスンを受けたいと皆望んでくれ、感染症の様子を見ながら、レッスン中止と再開を繰り返しつつ、完全な停止はない状況を作ってきた。

私が大切にする「仲間と学ぶ」機会であるグループレッスンや、グループマスタークラス「devoyons‘ village」がコロナのために休止状態なことは残念だが、今は指導者として、何か異なったアプローチで学ぶ人たちとの有意義な接点を生むことが必要だと考えるようになった。

そして今、半年の思考期間を経て、新しい試みを始めてみようと思う。
「Village 村の音楽工房」

それについては次回。

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音楽は生きるために必要?

2011年の震災や今回の感染症。とても苦しい日々が来ると、必ずや耳にする問い。

この問いは、

愛は生きるために必要?

と似ていると感じる。

生きるのに愛が必要かどうか・・その答えは千差万別だろうし、それでよいのではないかと思う。

私は愛のない生活は耐えられない・・・。


目に見えない美

私の選んだ芸術の道は、時間をかけて練るそのプロセスが最大の喜びであり、美だと言える。
自分が注いだ情熱と、愛情、自分への挑戦と達成感。それが自分を満たしてくれる。山登りをされる方も同じような感覚なのだろうか。
苦しくても、光を浴びなくても、1つ1つ積み重ねる石は尊い。そう信じて私は今までの道を歩んできた。ところが、ひょんなことから、その積み重ねてきた石を他人にひと蹴りで蹴散らされたように感じた出来事があり、このところ、その闇からでられず苦しんでいた。
そして気がついた。なぜ蹴散らされたように感じたかというと、心のどこかで自分の積み重ねる石を見てくれている人がいるといつの日か勝手に思い、結局は自分が人からの評価をどこかで期待していたからに過ぎなかった。自分のせいだ。
そう気がついて、積み重ねた石にもう一度目をやると、それは決して崩れてはいなかった。その石を見て、私は間違ったことはしてきていないと確信できた。
芸術の世界は一部の人を除いて決して華やかではない。自分と向き合い、自分に問いかけ、自分を豊かにしていくことに喜びを感じられないと続けられない。
私にはありがたいことに若い音楽家や真剣に音楽に向かう大人たちと接していく機会がある。私が出会う全員に、私の生き方を通して私なりのメッセージを送ってきたつもりだし、送り続けたいと思う。華やかな、そして有名な人を追いかける風潮にある若者から、心ない言葉を浴びたこともある。でもその子達もいつか、私のメッセージを掴んでくれる日がきたらいいなと思いつつ、また1つずつ石を積み重ねる毎日が始まった。
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教育とは

ベルリンの学校での仕事、レクチャーの翻訳、日本でのレッスン、フランスの講習会。様々な環境で生徒たちに接する機会を得てずいぶん経つ。老若男女、レベル・・そういうものを超えて多くの人と接していくにつれ、今必要なことは何だろうと考えることが多くなった。
若い子からよく聞かれるのが
将来が不安
という言葉。学校を出ても何か保証されるわけでもなく、不安を感じるのはとてもよくわかる。
ではその不安を少しでも減らすために何をするか・・そこに大きな疑問を感じる。
若者との多くの会話でこんな思考回路が見られる。
将来が不安だ・・・(将来とは就職をさしているらしい)→就職をできるには経歴が必要だ→コンクールをあちこち受けてみよう→コンクールで賞をとれなくても、経験を積めばなんとかなるかも。
でも・・・自分を育てる時間は?音楽を育てる時間は?
コンクールで育てる?本人はそのつもりになっていても、はたから見ているとコンクールからコンクールの準備に追われて、せっかく持っている種を世話する時間がないぐらい忙しく動き回っているだけで、問題解決は後回し。コンクールや本番を経験にするのなら、受けたあとが肝心で、それを吟味し、再構築するべきなのに、コンクールの次はもう次のコンクール探しに目が向いている。
今の時代、いい学校を出たらいい就職ができる、そんな方程式は音楽以外の世界でも通じない。年老いた人をスピードが遅いからとリストラにし、使い捨てにするような非人間的なことが横行している世の中、不幸せな人が増えていると感じる。不幸せな人というより、何か満たされていないと感じている人が多い気がする。こんなに恵まれた先進国で、普通に生活ができ、何も不服がないはずなのに、不満ばかりが募っている。
学校という時間、学生という時間はこれから将来を幸せに生きていくために<備える>貴重な時期だと思う。何を備えるのか?それは経歴でもなんでもなく、”自分を”だ。幅広く勉強し、外の世界に目を向け、たくさんの人と出会い、そうして育てるべきは感受性と思考力。人間としての繊細な感受性を磨くことと、社会に出て出会うさまざまな状況の中で自分がどうあるべきかを判断できる判断力だ。幸せに生きていけるには、自分という人間が誰かに必要とされていると感じられる必要がある。それはビジネスとしての”必要”ではない。ビジネスで必要とされようとすると、有名にならなきゃ・・となり、大きく脱線していく危険がある。
人間として必要とされるということ。必要とされるには、人間としての魅力が必要で、そのためには中身が伴わないといけない。経歴ではない。中身だ。それが幸せに生きていくための第一歩になると私は思う。そしてその必要とされるのは、パートナーからでも良い。家族からでも友達でも良い。ペットからでも良いかもしれない・・ほんとに小さなことからスタートするのではないかと思う。
考える力を付ける・・・これは本当に大切だと思う。コンピュータの中にさまざまな情報が交錯し、クリックすれば情報が降ってきて、ぼけーっとしていても何かしらの情報が降り注いでくる。自分で買いに行ったり、自分で探しに行かなくても、ネットで注文したら勝手に届く。
先進国の世の中全体におそろしいほど消極化が多方面で進んでいる結果、思考力が大きく落ちているのを感じる。何かを ”じゃ、考えてみて?”とふってみると、その目が死んでいることが本当に多い。考える、という作業に慣れていない印象だ。みていて恐ろしい。
私もDも教育機関に勤めている。教育に携わるということは、今書いたような若者たちの”備え”を手助けすることが必要になる。
門下生には卒業までに何とかして”総合的に考える力”を身に付けてもらうよう導こうと試みている。それはとても大変な作業だ。即結果を求める傾向にある今の時代、我慢強く、目には見えない大切な部分の成長を途切れないように導くことは本当に難しい。難しい時代だからこそ、一人でも自分で考え、自分の幸せに向かって進める若者を増やしたい・・の一心だ。
それと同時に音楽家であること、芸術家であることの意味と意識を本当の意味で分かってほしいと願っている。音楽家は音楽があっての芸術家だ。音楽を追及する芸術家だ。音楽を育てずに、音楽を”手段”として
職や経歴を追及して指だけまわすのなら、指芸人と呼べば良い。”音楽”に純粋に興味を持っている人があまりにも少なくなってしまったとDが日々嘆いている。知らず知らずのうちに音楽に目を向けることを忘れて、音楽が何かを成し遂げる手段となっていないか、
一度自分の胸に手を当ててみる必要があるかもしれない。
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巻き戻しボタン

嫌なものを排除し、自分の周りに自分好みだけを集めていく。そんな自分主義を最近身近な人にも目にすることが増え、深刻な状況だと感じることがよくある。
何か気に入らないと、それは周りのせい。周りが悪いから自分がこうなるんだという見方、つまりは意識的か無意識か、「自分は正しい」 という立場での発言になっていく。
そうなると、自分は正しいのに何かが不満だ。そうだ、周りのせいだ。という思考回路になってしまう。
世の中はバランスで成り立っている。様々な意見があるからこそ、バランスが取れている。
野菜が体にいいからと、野菜以外を排除し野菜だけ世の中に生産したら、やはり別の病が生まれるだろう。家の一部分が傷みだしたからと、傷んだところを排除していけば、骨組みしかのこらない。そして、傷んだとおもっていた箇所が、実は骨組みを守ってくれていたことに気づいた頃には、骨組みも傷み始めている。
大切なことは、バランスよく包括的に成長させていくことなのであり、バランスが崩れている場合その原因を突き止め補強、あるいは補修すべきであり、排除が最良とは限らない。
そして自分に都合の悪いものを排除すれば、よくなるに違いないという短絡的な考えで排除していくと、気が付いた時にはひとりぼっち…になる危険が隣り合わせだということも忘れてはいけない。
世界中が今、巻き戻しボタンを押したかのように急速に恐ろしい時代に戻って行きつつある気がする。

MusicAlp2016

今年も無事にMusicAlpの講習会が終了した。私は、人数としては42名のレッスンをさせていただく機会となった。その中には、レッスン回数1回の人から、5回の人まであり。様々な人間と出会うことで、私にとって毎年はかりしれない貴重な機会になっている。
今年強く残った印象は、大半の生徒さんが心の扉をすぐに開いてくれたこと。これはレッスンの核心にすぐに入るために欠かせないプロセスだ。各自から学びたい意思が強く感じられ、心の扉が開いていたことは、とてもありがたかった。
そんな向上心あふれる若者だが、共通して不足していると感じたことが2点あった。ひとつは、テクニック面での模索。もうひとつは、楽譜の中から読み取る能力。
テクニックに関しては、何かおかしいと感じながらも、その原因をじっくり考える時間をとらず、肘を動かしてみたり、体をうねらせてみたり、なんとかカバーするという要素で回避しようとしている生徒が多くみられた。その結果、変な姿勢で無理をしていても、それが本人にとっては”慣れた”ポジションとなってしまい、無理がかかっていることに気が付かなくなる。今後のことを考えると、今、それを治すことが緊急だと感じた生徒には、そのことに絞ってレッスンをするケースも作ってみた。
基本的に私は、自分で考えてもらう力を養ってもらう方向でレッスンを進めるようにしている。私がどうこうアドヴァイスをするより、自分で考えたほうがあとにしっかり記憶として残るからだ。そういったレッスンの過程で”考える”ということ、いや、”考えつくす”ということに慣れていないと、ほぼ全員に対して感じた。少し考えてみることはあっても、つきつめていない。そのうち、考えることに疲れてしまい、私があまり質問すると、集中力が切れていく。
楽譜の中から読み取る力に関しても、同じことがいえた。ああしたい、こうしたい、という欲望があることはすばらしいのだが、なぜそうしたいのか、どうしてそう感じたのかを楽譜の中から見つけることができない。それがないと自分の感性に裏付けがないまま演奏するので、中途半端になってしまう。フランス音楽では、Crescendoはどれぐらいかけていいのでしょうか・・そんな質問をされたこともうなづける。どれぐらい・・など答えることはできないはず。というより、答えは楽譜の中にある。こういう理由で、こんなクレッシェンドを作りたい、そんな確信を楽譜から見つけられれば、おのずとCrescendoは生まれる。
楽譜の中にたくさんの落とし物をしていることに気が付いてくれた生徒は、目が輝いていった。逆に、考えることに慣れず、与えられるのを待つことに慣れてしまっている生徒は、楽譜の中にたくさんの落とし物をしていることに気付くと、やる気が薄れていくように感じることもあった。楽譜や楽器から生まれる音にはたくさんの宝物があり、無限の可能性をああでもない、こうでもないと何年もかけて探っていく。その作業が楽しいと感じるなら、続ければよい。面倒くさいと感じるなら、芸術家には向いていない。という言葉をかけざるを得ない時があった。芸術家たるものを目指すからには、そのことに今こそ気付いてほしいと感じたからだ。
この夏、私にとっては転機となる経験があった。あえて言えば決して良い経験ではない。
まさにどん底につき落とされるようなものだった。でもそこから、もう一度自分が何をしたいのか、何をすべきか、何ができるのか・・そんなことを考える機会になっている。まだはっきりとした答えは出ていない。まだしっかり立ち直れてもいない。でも、私は自分のためにも、生徒のためにも、全力で考え抜くことが好きだということだけは間違いない。そうすごした時間は決して後悔はない。だからこそ、いま目の前にある機会に全力を注ぎつつ、次の一歩は何を踏み出せばいいのか、考えている毎日だ。そういう意味で今年のMusicAlpも私にたくさんのことを考えさせてくれている。

リーズ国際コンクールを通して考えること ⑧ 最終

そんな知識や自分の体をとおして感じた感情、欲望。それをなんとか音にしようとするときに一つ必要になるのが「判断力」。これは、本当に大きく欠けていると感じる。
それにはいくつかの理由がある。1つは前述の知識不足。何が良いのかがあいまいなために、今の演奏が良いのか悪いのかの判断基準がなく、わからない。
でもそれよりも危機感を感じるのは、判断しようとする意志の衰えだ。判断できるには、まず出したい音のイメージ、欲望があり、それを音にしてみて、耳で聴き、思った音が出たか判断するというプロセスを通る。
イメージし、身体で感じ、音にだし、聴いてみて、考えるのだから、かなりのエネルギーを要する。
レッスンで演奏してくれたあと、今のは自分でどう思う?と尋ねると、
んー (゜.゜)
と首をかしげるのは私が良く見るケースだ。でも、さらに怖いのは、んーといってるだけで、実は全然考えようとしていないケースが本当に多く目立つことだ。
目がビー玉みたいになっている。
先生が答えをくれるのを待っている、というシチュエーションに慣れているのか、脳を動かすことを忘れてしまっている。自分で調べ、自分で考える、自分で動くことへの喜びがない。コンピュータの前に座り、あふれ注がれる情報を浴びて、知ったつもりになって満足する。
これは怖いことだ。
判断するには、頭もいるが、耳もいる。そのどちらも自分で知らず知らずのうちに消極的に育ててしまっていると、何が良くて何がわからないかわからず、とりあえずいろいろニュアンスを付けて 偽”音楽的”なものを作り、それで本番に上がろうとする。当然、結果は見えているが、本人はなぜだめなのか、わからない。
脳は年齢で退化するのではなく、訓練次第だという。つまり自分次第だ。
私は生徒にいつも、
自分の一番の先生は、自分の耳。だから卒業までに、なんとか自分で判断できる耳を育てないといけないんだよ
と口を酸っぱくして言っている。でも、在学中はおおむね危機感がない。口では不安だといいながら、動かない。
自分でできることは思っているよりも山ほどあるのに。
普段からいろいろな言葉でボールを投げ、積極性を目覚めさせられないものかと試みているつもりだが、本当に難しい。危機感がないというのは、ある意味幼い部分があるのだろうから、人間的な成長と共にバランスよく育たないといけないのかもしれない。
指導するというのは、本当に難しい。
知識、欲望、判断力のトライアングル。これには生徒の自発性も、指導者側の忍耐強い繰り返しも必要になる。そして、ブログで書くだけでもわかるように、ものすごく時間を要する。ひとつひとつのプロセスが本当に大切なのだ。
そういった意味で、リーズでの記事(ショパン11月号)にコンクールをはしごする危険をひとこと書かせていただいた。バランスの良い成長を大切にしたい。
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リーズ国際コンクールを通して考えること ⑦

脳だ。人間には、”想像する”という素晴らしい才能がある。頭の中で想像し、体で感じることができるのだ。2か月も待った郵便の返事が来た時の嬉しさ。郵便馬車が近づいてきたときのたまらない緊張。時には、経験したことのないものもあるだろう。今ではありえないものもある。だからこそ、本を読んだり、映画を見たり、美術を堪能したり・・さまざまな機会をとおして、自分のイマジネーションを豊富に、そして新鮮にしていく必要がある。
私が中学の頃、とある日本人の先生のレッスンを受ける機会があった。
「あなたね、泣くっていうのはね、涙をながしてしくしくばかりじゃないの。大声で叫ぶように泣くことだってあるの。こぶしを握って大声でね。本を読みなさい」と言われた。
最近よく、”ここは張り裂けるような痛みのように弾きたいんです♪”(*^_^*) と、キラキラした目でいわれることがある。
んー (¨ )
そのきらきらした目に、死を前にした痛みって、どんなものか体で想像できているのだろうか、と疑問に思うことがある。だから、”どうやってその痛みを音に出そうとしているの?”と尋ねてみると、説得力のある返事が来ないことが多い。
 
若いから?
それは違う。いかに想像力を持つかの問題だ。
「本をたくさん読みなさいというのはね、作曲家について、いろいろ調べなさいということだけじゃないんだよ。想像力を養うためなんだ。全然関係ない小説なんかを読むのもいい。そこから想像力を豊かにするんだよ」
そんなことを先日桐朋のグループレッスンでDが高校生のグループに伝えていた。
はぁ~なるほど・・・。この歳にして私も感心してしまった。そして、Dが普段からあさるように映画を見るわけも理解できた。
この、想像力を養うこと、に関しては、教える側としては、単にどんな風に弾きたいの?と尋ねるだけではなく、それがどういう感情なのか自分の心で想像させ、音にする前に心で音楽を生かすことの大切さを伝え続ける必要があるように思う。
こうしたい、ああしたいという心からの欲望をいつも燃やし続けさせる。
そうして初めて、その感情を楽譜のどこから感じるのか、楽譜に目を向け、分析し、どのようにして実際聴衆に音で伝えられるかの模索に入っていける。
続く
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